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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第11話 流言の黒雲と文明の残滓

昨日の今日である。

豚のような司祭が逃げ帰った後、三毛猫のあくび亭には、潮が引くような静寂が訪れていた。

あれほど芋を洗うが如く押し寄せていた群衆は、一人の例外もなく姿を消している。店の前の通りを行き交う人々も、まるでそこが疫病の発生源ででもあるかのように、顔を背け、足早に通り過ぎていく。

世間の評価というものは、誠に頼りない。

昨日まで英雄と崇め、大賢者と囃し立てていたその口で、今日は悪魔の手先だと罵る。掌を返すとはこのことだ。人間の心というものは、風見鶏よりも軽く、そして残酷にできているらしい。

「やれやれ、閑古鳥が鳴くとは、まさにこのことだな」

吾輩は店の中央にある丸テーブルに陣取り、冷めた茶を啜った。

店主のレイは、カウンターの中で頬杖をつき、死んだ魚のような目で天井を見上げている。

「爺さん、笑い事じゃねえぞ。客が来ねえ。これじゃあ、今日の売上はゼロだ」

「静かでいいではないか。吾輩は、昨日のような騒音の中で飯を食うのは御免だ」

「俺は商売人だぞ。静寂で腹は膨れねえんだよ」

レイは深いため息をついた。

「教会の布告は絶対だ。『ナツメ・ソウセキに関わる者は、神敵とみなす』だとさ。ビラまで撒かれてちゃあ、誰も近寄らねえよ」

「手回しの早いことだ。あの豚司祭、逃げ足だけではなく、陰口を叩く早さも一流らしい」

吾輩は呆れ半分、感心半分で言った。

権力を持つ者が、己の意に沿わぬ者を排除しようとする時、最も安上がりで効果的な方法は、流言飛語をばら撒くことである。物理的な暴力よりも、社会的な抹殺の方が、時には人を深く傷つける。こころの先生が、世間というものに背を向けた理由も、結局はその辺りの人間心理の醜悪さに起因していたのではなかったか。

「……師匠」

おずおずとした声がした。

厨房の陰から、ミナが顔を覗かせている。いつものような元気はない。眼帯をした右目を伏せ、手には布巾を握りしめている。

「どうした、黒龍の使い手ともあろう者が。そんなに小さくなっていては、背中の龍が泣くぞ」

吾輩が軽口を叩くと、ミナは少しだけ唇を尖らせたが、すぐにまた沈痛な面持ちに戻った。

「あの……本当に、悪魔なんですか?」

「何?」

「街の人たちが言ってるんです。師匠の魔法は、神様から授かったスキルじゃなくて、悪魔と契約して得た禁断の力だって。だから、あんなに強くて、あんなに理不尽なんだって」

少女の声は震えていた。

彼女は、この世界の住人である。教会という権威が絶対的な正義として君臨する社会で育った子供だ。いくら中二病的な妄想に耽っていようとも、根底にある価値観までは覆せないのだろう。

吾輩は茶碗を置いた。

「ミナ、こっちへ来なさい」

「……はい」

ミナは、恐る恐る吾輩の前の椅子に座った。

吾輩は懐から、あの硝子球を取り出した。昨日、地下室から持ち帰った、文明の遺骨である。

「これを見ろ」

「……ガラス玉、ですか?」

「そうだ。この中には、かつて細い炭の糸が入っていた。そこに雷の如き電気を通すと、光り輝くのだ」

「電……気?」

「雷の精霊のようなものだと思えばいい。だが、精霊ではない。自然界に存在するエネルギーだ」

吾輩は、黒く焼き切れたフィラメントを指差した。

「これを作ったのは、魔法使いではない。ただの人間だ。神に祈る代わりに、何千回もの失敗を重ね、計算し、物質の性質を見極め、ようやくたどり着いた『ことわり』の結晶だ」

吾輩はミナの目、眼帯をしていない方の左目をじっと見つめた。

「教会は、これを悪魔の仕業だと言うかもしれん。自分たちの理解できないものを、すべて悪魔のせいにするのは、彼らの悪い癖だ。だが、考えても見ろ。人間が知恵を絞り、工夫を凝らして闇を照らそうとすることが、どうして悪魔の所業になる?」

「……でも、教会の教えでは、奇跡は神様だけのものだって」

「奇跡ではない。努力だ。そして物理だ」

吾輩はきっぱりと言った。

「吾輩が闘技場で炎を消したのも、司祭を追い返したのも、すべてはこの硝子球と同じ理屈だ。世界の仕組みを知り、それを少しばかり応用したに過ぎない。……それを悪魔と呼ぶのなら、吾輩は喜んで悪魔になろう。無知な神の家畜になるよりは、よほどマシだからな」

ミナは、しばらく硝子球を見つめていた。

その瞳の中で、迷いと、理解への渇望が揺れ動いている。

「……難しくて、よく分かりません」

やがて、彼女は正直に言った。

「だが、師匠の手は、温かいです」

彼女は、テーブルの上に置かれた吾輩の手に、そっと自分の手を重ねた。

「悪魔の手は、きっともっと冷たいと思います。だから、私は師匠を信じます」

「……そうか」

吾輩は、少しだけ胸の奥が温まるのを感じた。

論理ではない。理屈ではない。ただの直感と、情による信頼。

坊っちゃんが、きよという老女にだけは心を許していたように、吾輩もまた、この単純で純朴な少女の信頼に、救われる思いがしたのである。

「ありがとよ、お嬢ちゃん」

レイが、ニヤリと笑って割って入った。

「爺さん、悪魔にしちゃあ、随分と人間臭いからな。……さて、感傷に浸ってる場合じゃねえぞ」

レイは表情を引き締めた。

「表が騒がしい」

言われて耳を澄ますと、確かに通りの向こうから、ざわめきが近づいてくるのが聞こえる。昨日のような歓声ではない。もっと不穏な、怒号を含んだ低い唸り声だ。

「……来たか」

吾輩は立ち上がった。

教会の扇動に乗せられた愚民どもが、正義という名の暴力を振るいに来たのだろう。魔女狩りならぬ、賢者狩りというわけだ。

「レイ、ミナ。お前たちは裏から逃げろ」

「馬鹿言うな。俺の店だぞ」

レイはカウンターの下から、ごつい棍棒を取り出した。

「客が来ねえなら、憂さ晴らしに暴れるのも悪くねえ。それに、爺さんを見捨てたとあっちゃ、この街で商売は続けられねえよ」

「私も戦います! 我が爆裂魔法で、愚かな民衆を啓蒙してやります!」

ミナも杖を構える。

「……やれやれ」

吾輩は苦笑した。

非人情を決め込み、孤独を愛するはずの吾輩が、いつの間にかこうして、妙な連中と運命共同体になっている。人の世の因縁とは、実に不可解なものだ。

店の扉が、激しく叩かれた。

「開けろ! 悪魔の手先どもめ!」

「神罰を受けろ!」

石か何かが投げつけられたのだろう。窓ガラスにヒビが入る音がした。

吾輩は杖を手に取り、ゆっくりと扉へと歩み寄った。

「待て」

その時、店の中に凛とした声が響いた。

裏口の方から、一人の人影が現れる。

フードを目深に被っているが、その立ち姿の美しさは隠しようもない。

「シルヴィア君か」

「遅くなってすまない、ナツメ殿」

シルヴィアはフードを外した。その顔は、いつになく険しい。

「騎士団の方でも、教会の動きを止められなかった。奴ら、民衆の不安を煽って、暴動を起こさせるつもりだ」

「暴動か。政治の道具に使われるとは、民衆もいい面の皮だ」

「悠長なことを言っている場合ではない。このままでは、この店は焼き討ちに遭うぞ」

焼き討ち。

なんと野蛮な響きだろう。異世界に来てまで、焼き討ちなどという言葉を聞くことになるとは。

「どうするつもりだ。騎士団が鎮圧に乗り出すのか」

「それはできん。教会と騎士団が正面から衝突すれば、内乱になる。国王陛下も、それを恐れて静観の構えだ」

シルヴィアは悔しげに唇を噛んだ。

組織の論理だ。個人の正義よりも、組織の保身が優先される。明治の政府も、この世界の王国も、その辺りの事情は変わらないらしい。

「ならば、吾輩一人で出るさ」

吾輩は扉の鍵に手をかけた。

「吾輩が消えれば、彼らも鉾を収めるだろう」

「馬鹿な! 殺されるぞ!」

「殺されはせんよ。……少しばかり、彼らに『理科』の授業をしてやるだけだ」

吾輩は扉を開け放った。

瞬間、怒号が津波のように押し寄せてきた。

店の前には、百人を超える群衆がひしめいていた。手には鍬や松明、石塊を持っている。その目は血走り、興奮と恐怖で濁っている。集団心理という名の麻薬に酔っ払った顔だ。

「出たぞ! 悪魔だ!」

「殺せ! 焼き殺せ!」

先頭にいた男が、松明を投げつけようとした。

吾輩は杖を一閃させた。

『天賦の才《熱量操作・吸熱》』

飛んできた松明の炎が、一瞬にして凍りつき、ただの木の棒となって地面に転がった。

「なっ……!?」

群衆が息を呑む。

「火遊びは感心せんな」

吾輩は静かに言った。その声は、魔法による拡声など使わずとも、不思議と広場全体に響き渡った。

「君たち、自分が何をしているか分かっているのか。教会の言うことを鵜呑みにして、罪もない店を焼こうというのか」

「黙れ! 司祭様が言っていたぞ! お前は物理という邪法を使う悪魔だってな!」

「物理が邪法なら、君たちが投げようとしている石が放物線を描いて飛ぶのも、君たちが地面に立っていられるのも、すべて邪法ということになるがね」

吾輩は一歩踏み出した。

「万有引力。慣性の法則。作用反作用。これらは神が作ったルールではないか。吾輩はそのルールに従っているだけだ。それを否定するということは、君たちは神の作った世界そのものを否定することになるぞ」

「へ、屁理屈を言うな!」

「理屈ではない。真理だ」

吾輩は群衆を見渡した。

そこには、昨日まで吾輩を英雄と呼んで称えていた顔もある。彼らはバツが悪そうに目を逸らすか、あるいはそれを誤魔化すように、さらに大声で喚き散らす。

「悪魔の口車に乗るな! やっちまえ!」

誰かが叫んだ。

それを合図に、数人が飛び出してきた。

「やれやれ」

吾輩は杖を構えた。

本気で戦うつもりはない。彼らは敵ではない。ただの、迷える子羊……いや、迷える猿だ。

だが、その時である。

上空から、凄まじい風切り音が響いた。

ドォン!

吾輩と群衆の間に、巨大な影が落下した。

石畳が砕け、土煙が舞い上がる。

「な、なんだ!?」

群衆が悲鳴を上げて後退する。

土煙が晴れると、そこには一人の男が立っていた。

いや、それは人間ではなかった。

身長は二メートルを優に超えている。全身を漆黒の鎧で包み、背中には蝙蝠のような巨大な翼が生えている。兜の隙間からは、紅蓮の瞳が怪しく輝いていた。

圧倒的な威圧感。

ベルナルドの放つ俗物的な威圧感とも、シルヴィアの放つ鋭利な威圧感とも違う。もっと根源的な、生物としての格の違いを見せつけるような、絶対的な「力」の気配。

「……騒々しいな、人間ども」

その声は、地底から響いてくるような重低音であった。

「我が昼寝を妨げるとは、いい度胸だ」

「ま、魔族だ!」

「上級魔族だ!」

群衆がパニックに陥る。

魔族。この世界において、人類の敵とされる存在。

吾輩は目を細めた。

(なるほど、これが本物の怪物か)

ステータスを見るまでもない。吾輩の肌が、この男の危険性を感知して、粟立っている。

黒騎士のような魔族は、群衆など意に介さず、ゆっくりと吾輩の方を向いた。

「ほう。貴様か。妙な気配をさせているのは」

「……吾輩に何か用かね」

吾輩は努めて冷静に問い返した。

「用? いや、ただの散歩だ。だが、面白いものを見つけた」

魔族は、兜の下で笑ったような気配を見せた。

「貴様、人間ではないな。いや、魔族でもない。……この世界の理から外れた、異質な存在だ」

「ただの書生だよ。少しばかり、故郷が遠いだけのな」

「ククク、書生か。面白い」

魔族は一歩、近づいてきた。

その一歩だけで、周囲の空間が歪むような重圧がかかる。

「我は魔王軍第三軍団長、ゼギオン。貴様、名を何と言う」

「ナツメ・ソウセキだ」

「ナツメか。覚えておこう」

ゼギオンと名乗った魔族は、腰に佩いた大剣に手をかけた。

「教会の雑魚どもと遊ぶよりは、我と遊ばぬか。貴様のその『理外の力』、試してみたくなった」

最悪の展開である。

教会の扇動による暴動だけでも厄介だというのに、今度は魔王軍の幹部がお出ましとは。

まさに、前門の虎、後門の狼。いや、前門の愚民、後門の魔族か。

「断る、と言ったら?」

「無理だな。貴様には拒否権がない」

ゼギオンが大剣を抜いた。

その刀身は、夜の闇を切り取ったかのように黒く、禍々しい魔力を放っている。

「来い、ナツメ。我を楽しませろ」

一閃。

彼が剣を振るった瞬間、黒い衝撃波が迸った。

それは魔法ではない。純粋な腕力と魔力が生み出した、破壊の奔流だ。

「くっ!」

吾輩は杖を前に突き出し、物理防御の理を展開した。

『天賦の才《物理反射・極》』

ドォォォォン!

衝撃波が吾輩の障壁と衝突し、爆音を上げた。

凄まじい衝撃が腕に走る。昨日のマクシミリアンの魔法などとは桁が違う。反射しきれない余波が、周囲の石畳を粉砕し、あくび亭の壁を揺らす。

「ほう、防ぐか」

ゼギオンが嬉しそうに声を上げた。

「ならば、これはどうだ」

彼は姿を消した。

いや、速すぎるのだ。音速を超えた移動。

次の瞬間、吾輩の背後に彼が立っていた。

「死角だ」

大剣が振り下ろされる。

反応できない。

物理法則を超越した速度。これこそが、チートと呼ばれる理不尽な力の一つだ。

吾輩の命運も、これまでか。

そう思った時である。

キィィィィン!

甲高い金属音が響き、ゼギオンの大剣が空中で止まった。

吾輩とゼギオンの間に、一人の人物が割り込んでいたのである。

白銀の鎧。真紅の髪。

シルヴィアであった。

彼女は細身の剣で、魔族の剛剣を受け止めていた。いや、受け流していた。

「……加勢するぞ、ナツメ殿」

シルヴィアが苦悶の表情で言った。その細腕が震えている。

「シルヴィア君!」

「騎士団が動けぬと言ったが、あれは嘘だ。……私個人の意志で動く分には、誰にも文句は言わせん」

彼女はニヤリと笑った。

「それに、この街で好き勝手暴れられては、治安預かりの副団長としての面子が立たんのでな」

「……君も、なかなかのへそ曲がりだな」

吾輩は苦笑し、杖を構え直した。

「いいだろう。二人で遊んでやろうではないか」

背後では、レイが棍棒を構え、ミナが詠唱を始めている。

群衆は、魔族の登場に恐れをなして、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。残ったのは、吾輩たち「あくび亭」の面々と、シルヴィア、そして最強の魔族だけである。

「面白い。まとめて相手をしてやろう」

ゼギオンが吼えた。

その咆哮は、空の雲を吹き飛ばし、毒々しい青空を露出させた。

戦いの幕が開く。

それは、昨日までの茶番劇とは違う、命を賭けた本物の闘争であった。

だが、吾輩の頭の中は、不思議と冷え冷えとしていた。

恐怖はない。あるのは、この理不尽な状況を、いかにして「物理」でねじ伏せてやるかという、冷徹な計算だけであった。

「さあ、授業の始まりだ」

吾輩は杖の先を、魔族の眉間に向けた。

文明の光、理性の輝きが、この蒙昧な異世界に通用するかどうか。

それを試すには、絶好の相手と言えるだろう。

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