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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第10話 文明の遺骨と豚の説法

手に入れた硝子の球体を、吾輩は窓辺の陽光に透かしてみた。

昨夜、シルヴィアの屋敷の地下から持ち帰った、あの日系転生者の遺品である。この世界では「古代の秘宝」などと仰々しく呼ばれているらしいが、その正体は、ただのエジソン電球に過ぎない。中のフィラメントは黒く焼き切れ、二度と輝くことはないだろう。それは、科学という名の文明が、この理不尽な魔法世界において敗北した証のようにも見えた。

「死んだ文明の遺骨だ」

吾輩は独りごちて、球体を机の上に置いた。

隣には、例の手帳がある。パラパラと捲れば、走り書きの日本語が目に飛び込んでくる。孤独、絶望、そして理解されぬ苛立ち。顔も知らぬ同胞の慟哭が、文字という媒体を通して、吾輩の脳髄に直接流れ込んでくるようだ。

「……彼もまた、この世界に角を立てて生きた口か」

智に働けば角が立つ。科学という名の智を持ち込めば、魔法という名の情に流されるこの世界とは、衝突せざるを得なかったのだろう。

「おい爺さん、朝から何を辛気臭い顔をしてるんだ」

階下からレイの声がした。

下りていくと、いつものようにレイがカウンターで頬杖をついている。その横で、ミナが杖を磨いていた。

「辛気臭いのではない。思索に耽っていたのだ」

吾輩は答えて、席に着いた。

「思索ねえ。……で、その硝子玉はどうするんだ? 魔力も感じねえし、売っても二束三文だぞ」

レイが硝子球を指差した。

「売らんよ。これは吾輩の書斎の飾りだ」

「物好きなこった。……あ、そうだ。爺さんにお客さんが来てるぞ」

「客?」

「ああ。あんたがマクシミリアンを倒した噂を聞きつけてな。朝から門前払いを食らわせようとしたんだが、どうしても会わせろってうるさくてな」

レイが顎で入り口をしゃくった。

その時、店の扉が恭しく開かれた。

入ってきたのは、見るからに肥え太った男であった。

豪奢な白衣を纏い、首からは金色の聖印をぶら下げている。顔は脂ぎり、頬肉が垂れ下がって、まるで西洋の豚に服を着せたようだ。その小さな目は、油断なく周囲を観察し、値踏みするような光を宿している。

背後には、武装した僧兵らしき男たちが数名、控えている。

「お初にお目にかかります。貴殿が、噂のナツメ・ソウセキ殿ですかな」

男は、慇懃無礼な猫撫で声で言った。その声には、権威を笠に着た者特有の、湿り気を帯びた傲慢さが含まれている。

「如何にも吾輩がナツメだが。……君は?」

「私は『聖光教会』の司祭、ベルナルドと申します。この街の教区を預かっております」

聖光教会。

この国で最も力を持つ宗教組織であるらしい。ステータスだのスキルだのといったシステムを「神の恩寵」として崇め、民衆を精神的に支配している集団だ。

吾輩は、本能的な嫌悪を感じた。

坊っちゃんにおいて、赤シャツの腰巾着であった野だのように、あるいはそれ以上にタチの悪い、精神の寄生虫の匂いがする。

「司祭殿が、吾輩のような貧乏書生に何の用かね」

「単刀直入に申し上げましょう」

ベルナルドは、ニヤリと笑った。その笑みは、慈愛などではなく、獲物を見つけた肉食獣のそれに近い。

「貴殿を、異端審問にかける必要があります」

店内の空気が凍りついた。

レイが頬杖を外し、目を細める。ミナが杖を握りしめる。

しかし、吾輩は動じなかった。茶を一口すすり、ゆっくりとベルナルドの顔を見上げた。

「異端、とは穏やかではないな。吾輩が何をしたというのだ」

「貴殿は先日、闘技場において、詠唱も魔法陣も用いずに強力な炎を操ったと聞き及んでおります。それは、神の定めた魔法の理に反する行為。すなわち、悪魔の力を用いた疑いがある」

「……馬鹿馬鹿しい」

吾輩は鼻で笑った。

「あれは物理現象だと言ったはずだ。神だの悪魔だの、君たちは何でも彼でも目に見えぬ存在のせいにするのが好きらしい」

「物理……? 聞き慣れぬ言葉ですな。それこそが、異界の邪教の教えなのでは?」

ベルナルドは一歩踏み出した。

「それに、貴殿がマクシミリアン伯爵を打ち負かしたあの技。あれは既存の魔法体系には存在しない。神の与えたもうたスキルリストにも載っていない。……ならば、それは神への冒涜であり、秩序を乱す反逆の狼煙と言わざるを得ません」

なるほど。

要するに、自分たちの理解できない力を持つ者が現れたので、怖くて仕方がないということか。あるいは、その力を教会という組織の管理下に置きたいという、薄汚い所有欲の表れか。

どちらにせよ、気に食わない。

「君、神がそんなに狭量な男だと思うかね」

吾輩は言った。

「リストにないから異端、理解できないから悪魔。それではまるで、自分の知らない単語を使う生徒を叱りつける無能な教師と同じではないか。神がいるとすれば、もっと鷹揚に構えているはずだよ」

「き、貴様! 神を男呼ばわりとは、不敬にも程がある!」

ベルナルドの顔がトマトのように赤くなった。

「それに、秩序と言うがね。君たちの言う秩序とは、要するに君たちの都合のことだろう。自分たちの権威を守るために、新しい知識や技術を排斥する。それは秩序ではなく、停滞と言うのだ」

「黙れ! この異端者め!」

ベルナルドが合図をすると、背後の僧兵たちが槍を構えた。

「抵抗するならば、即座に処刑する! 神の名の元に!」

「……やれやれ」

吾輩は立ち上がった。

暴力だ。また暴力だ。

マクシミリアンといい、この豚司祭といい、議論で勝てぬとなればすぐに腕力に訴える。この世界の知性は、一体どこまで退化しているのか。

「レイ、ミナ。手出し無用だ」

吾輩は二人を制し、杖を突いて前に出た。

「君たち、神の名の元にと言ったな。ならば聞こう。君たちの神は、暴力で他者を従わせることを是とするのかね」

「悪を滅ぼすための力は正義だ!」

「悪とは何だ。君たちの意に沿わぬ者のことか。……なんと安直な」

吾輩は嘆息した。

「思想の欠如だ。哲学の不在だ。ただ『神』という虎の威を借りて、己の暴力衝動を正当化しているに過ぎない。君たちは僧職者ではない。ただの野蛮人だ」

「御託はいい! やれ!」

ベルナルドが叫んだ。

僧兵の一人が、槍を突き出してきた。

鋭い穂先が、吾輩の喉元に迫る。

だが、吾輩は動かなかった。

避けるまでもない。

吾輩の目には、その槍の軌道だけでなく、彼らの筋肉の動き、呼吸の間合い、そしてその背後にある恐怖心までもが、手にとるように見えている。

『天賦の才《物理耐性・極》』

カィン!

甲高い音が響き、槍の穂先が弾かれた。

吾輩の皮膚に触れる直前、目に見えぬ「斥力」の壁が展開されたのである。

「な、なんだ!?」

僧兵がよろめく。

「魔法障壁か? いや、詠唱もなしに……」

「障壁ではない。作用・反作用の法則を、少しばかり強調しただけだ」

吾輩は杖を軽く振った。

「君たちが突き出した力は、そのまま君たちに返っていく。因果応報というやつだ」

「ひっ……!」

ベルナルドが後ずさりをした。

「き、貴様、やはり悪魔か! そのような理外の術、人間業ではない!」

「人間だよ。君たちよりも少しばかり、物を考えているだけのな」

吾輩は一歩、ベルナルドに近づいた。

豚司祭は、ガタガタと震え出した。権威という鎧を剥ぎ取られた彼は、ただの臆病な中年男に過ぎない。

「いいかね、司祭殿。信仰を持つのは自由だ。だが、それを他人に押し付け、あまつさえ暴力の口実にするのは感心せんよ。それは信仰ではない。ただの政治だ」

吾輩は、冷ややかな視線で彼を見下ろした。

「帰るがいい。そして、神に祈る暇があったら、少しは本でも読みたまえ。世界は君たちが思っているよりも、ずっと広くて複雑なのだから」

ベルナルドは、顔面蒼白になって、パクパクと口を開閉させた。反論したいが、言葉が出てこないらしい。

「お、覚えておれ! 教会に盾突いて、ただで済むと思うなよ!」

捨て台詞を残し、彼は脱兎のごとく逃げ出した。僧兵たちも慌ててその後を追う。

後に残されたのは、静寂と、微かな安堵の空気であった。

「……ふう」

吾輩は大きく息を吐き、椅子に座り直した。

「やるじゃねえか、爺さん」

レイが口笛を吹いた。

「教会の司祭を説教だけで追い返すとはな。魔法で吹っ飛ばすより痛快だったぜ」

「言葉は魔法よりも鋭い刃になることもある。……まあ、あの手の輩には、馬の耳に念仏だろうがな」

吾輩は苦笑した。

「でも師匠、大丈夫ですか? 教会って、しつこいですよ」

ミナが心配そうに言った。

「ああ。分かっている」

吾輩は、机の上の硝子球に目を落とした。

あの司祭は、必ずまた来るだろう。今度は、より強硬な手段を持って。

教会という組織は、自らの権威を脅かす存在を許さない。かつてガリレオが宗教裁判にかけられたように、この異世界でも、真理を説く者は迫害される運命にあるらしい。

「厄介なことになったな」

吾輩は呟いた。

だが、不思議と後悔はなかった。

あの手帳の持ち主である転生者は、この世界に絶望し、敗北した。

だが、吾輩は違う。

吾輩には、あのへそ曲がりの「坊っちゃん」の精神と、世の中を斜めに見る「猫」の視座、そして何より、この厄介な「物理」の力がある。

「逃げはせんよ」

吾輩は硝子球を手に取った。

「科学の灯火を守るなどという大それた使命感はないが、あの豚のような男に屈するのは、吾輩の美学に反する」

その時、硝子球の中で、切れたはずのフィラメントが、一瞬だけチカッと瞬いたような気がした。

気のせいかもしれない。

だが、それはまるで、時を超えた同胞からの、ささやかなエールのように思えたのである。

「さて、腹が減ったな。昼餉にしよう」

吾輩は立ち上がり、厨房へ向かった。

戦いも、思想も、まずは腹を満たしてからだ。

窓の外では、毒々しい青空に、入道雲が湧き上がっていた。

嵐が来るかもしれない。

だが、今の吾輩には、その嵐さえも、退屈な日常を破る一興のように感じられていたのである。

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