東海道本線の窓から
先日、小田原から名古屋まで、東海道本線で移動する機会があった。
新幹線なら一瞬で通り過ぎてしまう風景が、在来線ではゆっくりと目に入る。
畑に立つ案山子の首の傾き。川べりを歩く小学生の列。屋根の上に干された洗濯物が、今日の天気を語る。車窓の向こうにあるのは、知らない誰かの日常で、どこか懐かしい風景だった。
車内には、通学途中の学生や、小旅行らしき若いカップル、静かに読書をする中年の女性など、それぞれの時間が流れていた。新幹線ではビジネスマンの姿ばかりが目につくが、東海道本線にはもっと雑多で柔らかい空気がある。
イヤホンを耳に差し、スマートフォンを触っているうちに、自分が「電車の置物」になったような気がした。時間は新幹線の3倍かかったけれど、心の速さはずっと穏やかだったように思う。
向かいの席には、老人と呼ばれる年齢の人たちが二人、連れだって座っていた。ひとたび会話が始まると、声の抑揚も、手の動きも、生き生きとしている。年齢という数字は積み重ねても、感覚そのものは、ずっと若いまま止まっているのではないかと思った。
外を見れば、富士山はやはり大きい。何度見ても、山というより一つの空間のようで、見上げるこちらが吸い込まれそうになる。そして海は、やはり広い。広すぎて、言葉にしようとすると逆に遠ざかってしまう。目に映っているのに、想像が追いつかないほどの広さだ。
ただ、そんな風景のすべては、「東海道本線」という長い箱の中から見ている。車体が揺れるたび、自分という存在がゆっくりと運ばれていることを、身体で感じる。誰かの生活の隙間をなぞるように、電車は静かに進んでいく。




