グリムがいるらしい4
久しぶりに王都で羽を伸ばした私は、遅くならないうちに帰ろうと喫茶店を出た。まだ太陽は高い位置にあるけど、遊び呆けてセドリックやロザリー達と出くわす事態になりたくないもの。
大通りを歩いていると、黒いものが見えたような気がした。
「ねえ、フルール。あの壁……」
「はい。グリムの鱗ですね。弱いですが」
店の外壁にくっついていたのは、グリムの鱗だった。だいぶ見えるようになってきたからか、真っ黒なトンボのような形に見える。輪郭がぼやけていなければ、変わった色の虫だと思って見過ごしていたかもしれない。
「せっかくですから、浄化を試してみますか? グリムの鱗に逃げられないように、私が動きを止めます」
「分かった。やってみる」
グリムの鱗を消滅させる浄化は何度も練習したけれど、実際に使ってみるのは初めてよ。臨時教師のフルールがいる間に経験できるのはいいわね。
壁に近寄って浄化の祈りを唱えると、グリムの鱗は羽を震わせて消滅した。
もっと抵抗されると身構えていたのに、拍子抜けだったわ。
「これで完全に消えたの?」
話しかけられたフルールは、はっとした顔で私を見た。
「えっと、はい。消えました。完璧だったから驚いたのです」
「良かった。練習の成果が出たわね」
なんせ自分の命がかかっているもの。覚えるのも実践するのも真剣よ。あとは結界を覚えたら、グリムの鱗が来ても怖くないわ。
「今日の出来事はセドリック様に報告しておきます。それで……この先からもグリムの鱗の気配がありますが……どうしますか?」
「そうね……このまま放置したら、取り憑かれる人が増えるかもしれないわ。出来る限り浄化しながら帰りましょう」
「分かりました。一応、セドリック様宛てに鳥を飛ばしておくのです」
フルールは魔術で白い鳥を作り、空へ放した。鳥は屋根より高く飛び上がり、王城とは逆の方向へと飛んでいく。
セドリック宛てに連絡用の鳥魔術を使うと、本人がいる場所へ飛んでいくんですって。フルールの専門的な説明を要約すると、セドリックが持っている識別結晶を探知して飛行するらしいわ。
便利よね。私も使ってみたいとフルールに話したら、ものすごく申し訳なさそうに、適性が無いから無理って言われたわ。残念ね。
「でもどうしてグリムの鱗が大量発生しているのよ。来た時は見つからなかったわ」
「誰かに取り憑いていた大量の鱗が離れたのかもしれません。鱗は浄化されそうになると一部を囮にして逃げます。完全に消滅させられないようにしているのです。撒き散らされた鱗が別の人に取り付けば、今度はそちらに鱗が合流して強くなるのです」
「散ったものも全て消さないと、同じことが繰り返されるのね」
「他に考えられることは……」
フルールは声量を落とした。
「封印の亀裂が、また広がったのかもしれません。グリムの被害は年々、増えているのです」
「聖女様の力が弱まって、封印を修復できなくなっているということ?」
「もう何年も交代していないのです。今まで通りなら、とっくに引退している歳です」
聖女の力が無ければ、グリムが封印から出てきてしまう。私だけの問題じゃない。被害は国全体に及ぶわ。
「グリムに対抗できる騎士も少ないのです。聖女の交代が滞るなんて初めての事態ですから。素質がある人物を育成しているらしいのですが、ぜんぜん足りていないのです」
私、このままでいいの?
私はグリムの被害を知っている。侵食されて操られ、悲惨な末路を経験した。運よく時間が巻き戻って生きているけれど、またグリムに操られる可能性もある。
この前は友人がグリムに侵食されていた。身動きが取れないもどかしさも、夢の中で思い出したわ。
被害を知っているのに、私は守られたままでいいの?
聖女と同じ力を使えるのに、このまま安全なところにいるの?
「帰ったら、また練習するわ」
「レティシア様?」
「私もグリム対策に協力する。一人でも多く戦力になれば、被害者が減るでしょう?」
「でも、レティシア様はグリムに狙われているのです」
「聖女様と同じ力を使えるからよね? それはセドリックが面倒を見ている女の子達も一緒だわ。彼女達が頑張っているのに、私だけ何もしないのは駄目よ」
見えているグリムの鱗を浄化すると、今度は白い鱗粉になって消えていった。次の鱗を探して移動する後ろから、フルールが慌ててついてくる。
「セドリック様は納得されないと思います! レティシア様に護衛を付けたのは、戦うためじゃないのです」
「じゃあ何のため? グリムの鱗を完全に封じるまで、屋敷に引きこもってろってこと? それは嫌よ。だって、いつ安全になるのか分からないもの」
「レティシア様……」
「私はグリムが怖いわ。操られて、孤立して、封印を解く道具にされて捨てられるなんて嫌。グリムに有効な方法は全て試したいの」
「だったら」
二度、三度とグリムの鱗を消滅させていくうちに、コツが分かってきた。鱗を見つけたら気付かれる前に浄化させないと、こちらに襲いかかってくる。今はフルールが防いでくれるからいいけれど、いつか一人でも対峙しないといけない時が来るかもしれない。
結界を使えない今は、見つけて浄化するまでの時間を短縮させないとね。
「いつ襲ってくるのか分からない敵を待つよりも、こっちから見つけて消滅させるほうが安心できるのよ。確実に数が減るでしょう? 人任せにするよりも正確だわ」
「うぅ……セドリック様に知られたら、どうするのですか」
「フルールは真面目に護衛をしてましたって言うから安心して」
「そうじゃなくて、レティシア様の立場が悪くなってもいいのですか?」
「グリムの鱗を消滅させられる力があるのに、何もしないほうが悪評が広まるわ」
「ええと……あとは……」
口論でフルールに勝ち目はないようね。
次の鱗を探していると、路上が賑やかになった。何かに追い立てられるように、人々が逃げてくる。
「な、何? どうしたの?」
「おい、あんたも逃げたほうがいいぞ! 魔獣が出た!」
立ち止まっている私達に、逃げてきたばかりの男が叫んだ。男は他の通行人にも状況を教えて走り去っていく。
「行くわよ、フルール」
「やっぱりですか……」
フルールは泣きそうな顔でついてくる。
「手に負えないと思ったら逃げるから。ね?」
「信じていいのですよね?」
騒ぎの中心は、飲食店のようね。客は全員が逃げたようで、店主と従業員らしい男女が心配そうに中を見ている。店の中からは何かが暴れている音がしていた。
窓から見えたのは、白っぽい騎士の制服と光を反射した剣。中にいる人物が開けっぱなしの扉まで後退したことで、声が聞こえてきた。
「散らばった鱗の反応が消えました」
「へぇ。予想より早かったね。こちらも終わらせようか」
中にはもう一人いるみたい。二人で連携して暴れている何かを追い詰めている。
追われているのは腕が長い猿だった。人間の子供ぐらいの体長で、色は赤茶色。犬歯がやたらと長い魔獣だ。
「待って。私、この声を聞いたことがあるわ。幻聴かしら」
「現実逃避しないでほしいのです。もしかしなくてもセドリック様なのです」
私達の呟きが聞こえた店主が振り返り、疲れた顔で言った。
「あんた、あのヤベー奴の知り合いか? 早く回収してくれ。魔獣より先に俺の店が潰れる!」
嘆く店主にとどめを刺すように、豪快な音と共に机が叩き斬られるのが見えた。机を壊した張本人は、目もくれずに猿に斬りかかる。片腕が吹き飛び、床に赤黒い血が飛び散った。
「意外と素早いね」
「その割には楽しそうですね、セドリック様」
「最近は足が遅い候補生ばかり追いかけてたからね。運動不足だったんだよ」
どうしましょう。ヤベー奴がいるわ。
薄く笑うセドリックは逃げ回る猿に剣を投げつけ、壁に縫いとめた。猿の胸元から光る鱗粉が散って消える。グリムの鱗だわ。あの魔獣は鱗に乗っ取られて、こんな王都の真ん中へ来たのでしょうね。
「……ねえ、剣って投げるものだったの?」
「私に言わないでほしいのです……」
長剣が真ん中まで壁に刺さっているわ。どんな力で投げたら、ああなるの?
「レティ?」
暴れ終わったセドリックがこちらを振り向いた。
しまった。見つからないうちに、帰るべきだったわ。
セドリックは壁から剣を造作もなく引き抜いた。剣についた汚れをハンカチで拭い、鞘に納める。
「ご機嫌よう。いい天気ね。セドリックはお仕事中? じゃあね」
「レティ、奇遇だね。ここで何をしていたのかな? いや、町の中でグリムの鱗を浄化していたのは、レティだね? あの生徒達にしては早すぎる」
セドリックに声をかけられた途端に冷や汗が出たわ。朗らかな笑顔と声のくせに、こちらを萎縮させる効果があるなんて凄いわね。
私、何も悪いことしてないよね?
足が震えそうになるのを堪えて、私は微笑んだ。
「店で本を借りた帰りよ。魔獣が出たって聞いて怖かったけど、セドリックに会えて嬉しかったわ」
「……え?」
彼を取り巻く空気がわずかに柔らかくなった。
もしかして、好機ってやつかしら。
「セドリックは強いのね。あんなに素早い魔獣を倒せるなんて!」
「そ、そうかな? あれくらいなら、他の騎士もできるよ」
照れているセドリックの背後で、もう一人の騎士が首を横に振っているわよ。あの猿、本当は複数人で連携して倒すような強敵なんじゃないの?
「て、店長さんがお店のことを気にしてたわよ」
「ああ、すっかり荒れちゃったね。でも元通りになるように補償するから」
セドリックが合図をすると、騎士が頷いて店長のところへ向かった。二人で金額のことを話し合っている。みるみる店長の顔色が良くなっていったから、かなり手厚く補償してくれたみたいね。
良かったわ。じゃあ私の出番は終わりね。
「レティ。まだ俺の質問に答えてないよ?」
あら、袋小路に追い詰められた気分だわ。武器を軽々と扱う人を前にして、無事でいられる自信がないわよ。
「……グリムの鱗に遭遇したのは偶然よ。かなり弱いみたいだから、浄化の練習をしていたの」
セドリックの視線がフルールに向いた。
「ほ、本当です。私の結界でお守りしながら、帰り道にいた鱗を教材にしました。あの、先ほど手紙を送ったのですが……」
「ああ、取り込み中だったから、まだ読んでないよ」
セドリックはしばらく沈黙してから口を開いた。
「……まあ、いいか。後始末してくれたんだね。ありがとう。でも、今度から実戦したい時は声をかけてね。君が心配なんだ」
「そうするわ。邪魔をしてごめんなさい」
「邪魔じゃないよ。レティなら、いつでも歓迎するから」
私はセドリックに肩を抱かれて店の前から離れた。今日も完璧な紳士ね。振る舞いが洗練されていて、つい流されてしまったわ。
ところでこの胸の高鳴りは、ときめきと恐怖のどちらかしら。私は後者だと思う。
「家まで送っていくよ。グリムの鱗がこれだけとは限らないからね」
「団長」
歩き始めて数歩のところで、先ほどとは別の騎士に呼び止められた。
騎士に耳打ちされたセドリックが無表情になっていく。
美形の無表情って怖いのよ。部下の皆さんはよく平気でいられるわね。慣れの問題なの?
「……ここでレナルドの呼び出しを無視するのは悪手か」
「え?」
「ごめんね、レティ。急な仕事が入ったみたい」
「気にしないで。大事な仕事なんでしょう? 私のことはいいから」
「レティ……」
少し寂しそうに笑ったセドリックに、私も心が痛む。
「あ……あのね、セドリック。その……気をつけてね。セドリックは強いけど、私も、あなたが心配だから」
私の肩に乗っているセドリックの手に、力が込められた。このまま握り潰されたりしないよね?
セドリックは空いているほうの手で、顔を覆っている。
え。怒ってる?
私なんかが心配したから?
「レティ。近いうちに、遊びに行くね」
それはどういう思考の流れで辿り着いた宣言なの?
邪魔が入らないところで説教されるのかしら。
「え、ええ。待っているわ」
私はそれしか言えなかった。