チェルシーは何も知らない
「お父様?なんて言いました?」
「あのクソガキとお前の婚約を破棄する」
「…まあ、お父様の決定なら文句はありませんけど。なんでまた?もう挙式まで三ヶ月ですよ」
「それよりあのガキとお前が結婚する方が我慢ならん」
父の憎憎しげな表情に、さすがにチェルシーも婚約者が大いにやらかしたらしいと気づく。
「あの人なにやらかしたんですか」
「平民の女を作った」
「へぇ…」
「その女に、本来お前のために使うべき時間と金をたっぷり貢いでいた」
「…ああ、最近会わないしプレゼントも無くなったとは思いましたが…へぇ」
チェルシーの父は眉を寄せていたのを左手でもみほぐす。それを見てちょっと父が可哀想になるチェルシー。まさか、父だってあの人がそんな男だと思っていなかっただろう。
「…お前には悪いことをした」
「え?」
「俺がもっとしっかり相手を見極めるべきだった。…すまない」
チェルシーは父の意外な言葉に目をパチクリと瞬かせて、その後笑顔で父の両手をしっかり握る。
「お父様のせいじゃありません。お父様はいつだって、私の味方ですもの。今回もそうでしょう?婚約破棄なんて、簡単なことじゃないのに。ありがとうございます、お父様。チェルシーはお父様の子で幸せです」
「チェルシー…」
いつのまにか、しっかりと育ったものだ。天使だの女神だのとチェルシーが褒め称えられた時にはなんの冗談かと思っていたが、たしかにものすごくいい子ではある。自慢の娘だ。ちょっとばかり、ぼうっとしているところはあるが。
「それでね、お父様。あんな男のことはもうどうでもいいのですけれど、可哀想な娘のお願いを聞いてくださる?」
「…なんだ」
「スラム街に大きめの病院を作って、スラム街の人々の衛生管理を徹底して欲しいの。あと、私がやってるスラム街での炊き出しの規模をもうちょっと大きくして、回数も増やしたいなぁ…」
…上目遣いでおねだりなんて技、いつのまに身に付けた?本当にしっかりと育ってしまったものだ。普段ぼうっとしてる癖に。
「…考えておく」
「やったー!」
「考えておくだけだ。まだ保留だ保留」
「えー」
まあでも。領民達を大切に思うのは良いことだ。たとえそれが、スラム街の貧民相手であろうとも。
「…本当に、大きくなったな」
「?」
「なんでもない。さあ、今日はもう下がれ。ゆっくり寝ておけ」
「はーい」
部屋に戻る娘を見送り、チェルシーの父は引き出しから書類を出した。
「…クソガキめ。後悔したって遅いからな」
地の底を這いずるような低い声。そばに控える侍従は、あちゃあと額に手を当てた。そして、これからしっぺ返しを食らうことになるチェルシーの婚約者に心の中で合掌した。
三ヶ月が経った。本来ならチェルシーの結婚式が行われるはずのこの日、チェルシーは新たな婚約者と優雅にお茶会を楽しんでいた。
「チェルシーは本当に可愛いね」
「ふふ、ルーカス様こそ今日も素敵です」
微笑み合い愛を育む二人。まだ婚約して一ヶ月程だが、驚くほど相性が良かった。
二人揃って美男美女であるし、公爵家の御令息と侯爵家のご令嬢で身分的にも問題ない。
食べ物の好みも似ているし、二人とも優しく穏やかな性格。おまけに暇さえあれば貧民達を救おうとアレコレ動くところまでそっくりだった。
「私、一目惚れなんて初めてです」
「僕もだよ。きっとこれは運命だ」
「ふふ、そうですわね。女神様に感謝しなければ」
「僕の女神は君だけれどね」
「まあ…!ふふ、ルーカス様は本当に私を喜ばせる天才ですわ」
おまけに、初対面の時お互いに一目惚れした二人。それも二人の感じた気持ちは、一瞬の熱に浮かされた恋というより暖かな日差しがさしたような優しい愛だった。周りはそんな二人を微笑ましく思い、温かく見守る。
そこに、邪魔が入った。
「マックス様、ご迷惑です!お帰りください!」
「うるさい!チェルシーに会わせろ!」
「…あら」
「…チェルシー、僕の後ろに」
「はい、ルーカス様」
ルーカスは立ち上がってチェルシーを後ろに庇う。チェルシーは少し困った様子で、ルーカスの背に大人しく隠れた。
「チェルシー!」
「…マックス、久しぶりだね」
「ルーカス!」
マックスとルーカスはライバル関係だった。魔法学園で、トップを争っていたのだ。学園生活最後のテストは、ルーカスが勝っていた。
「お前、こともあろうに人の婚約者を…!」
「バカ言わないで。君がチェルシーを放って平民の女を作ったからこうなったんだろう。それに今、チェルシーは僕の婚約者だ。君のじゃない」
「うるさい!」
マックスはルーカスの背に隠れてこちらをちらりと窺うチェルシーに手を伸ばす。
「チェルシー!今なら許してやる!こっちに来い!」
チェルシーはそんなマックスに冷ややかな目を向ける。
「嫌です」
「なっ…」
「お断りします」
マックスは顔を真っ赤にして怒鳴る。
「お前が父親を使って婚約破棄なんかしたせいで、俺はこんなに困ってるんだぞ!お前が戻ってきたら全部解決するんだ!戻ってこい!」
「随分身勝手だね」
ルーカスはマックスを魔法で攻撃する。マックスの頬を鋭利な氷のつららが掠めた。
「お前…!」
「反撃してこないんだね。…やっぱりそうか」
「…っ」
「君、魔力を封じられただろう」
「…う、うるさい!」
そう。マックスは魔法においては優秀な人材だったにもかかわらず、魔力を封じられた。チェルシーを放って平民の女を作ったクソガキ憎しで、チェルシーの父が手を回したのだ。
マックスの両親は派手好きで、借金はないが貯金もない。婚約破棄の慰謝料を請求されると困る。そんなマックスの両親に、慰謝料代わりにマックスの魔法の才能を潰した上で勘当しろと要求したのだ。
勘当すると言っても、正式な手続きなどが色々と必要。今はまだマックスも伯爵家の人間だ。だが、魔力はすでに封じられた。そして、あと数日で伯爵家ともなんの繋がりもなくなる。
「勘当なんてされたら俺には魔法しかないのに、その魔法を封じられたなんて…死ねと言われているようなものだ!なんとかしろ!」
「自業自得じゃないか。それに、生きていくなら鉱山の労働者にでもなればいい。場所によっては案外、待遇は良いらしいよ?給料が破格なところもある」
「俺にこのまま平民になれって言うのか!」
「なればいいじゃないか。平民の女と結婚だってできるよ?」
「…っ」
言葉に詰まるマックスに、ルーカスはトドメをさす。
「あ、もしかしてふられちゃった?」
「…うわぁあああああああ!」
頭を掻き毟り奇声をあげるマックス。ルーカスはざまあみろと嘲笑う。
「僕の可愛いチェルシーを傷つけるからそうなる。じゃあ、さようなら」
ルーカスは転移魔法でマックスを飛ばす。転移魔法は高度な技術が必要で、ルーカスはそれを使いこなせるほど優秀なのだ。飛ばされた先はもちろん伯爵家。
「…怖かったかい?チェルシー」
心配そうにチェルシーを振り返るルーカス。しかしチェルシーは蕩けるような笑みを浮かべた。
「いいえ。ルーカス様が守ってくださるもの」
「本当に可愛い…」
触れるだけのキス。チェルシーの幸せそうな表情に、こっそり監視魔法で覗いていたチェルシーの父はほっと息を吐いて、それから優しい顔で笑った。チェルシーの母である、最愛の妻を思い出しながら監視魔法をそっと止める。
「チェルシーは幸せそうだぞ」
最愛の妻の肖像画にそう話しかける彼の表情は、先程のチェルシーの笑みに負けないほど美しかった。