没物語 序章
好きな女は同性愛者だった。
その事実を告白する前に知っていれば、夕焼けに染まった放課後の教室というシチュエーションのために、天気予報で晴れの日を狙って呼びだしたりはしなかったし、三日三晩寝ずに考えた台詞をトチることもなかっただろう。
「スマン。私、女の子しか興味ないんだわっ!」
底抜けの明るさは彼女の何よりの魅力であったが、燃えるような夕日を背景にした、張り詰めた空気の中でも健在だとは思わなかった。
「そーいうわけで、友達以上には思えないっ。悪いねー!」
断られることも覚悟の上で告白したので、結果だけ見るとさもありなんだが、せめて頬を赤らめる程度のリアクションはあると思っていた。あっけらかんと、まるで緊張感のない言葉。
それは友達という関係を続けるための、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。単に、表裏のない性格の現れだったのかもしれない。
ここで本来ならば「清々しいヤツだな」とでも思えば、まだ救いはあったのかもしれない。「世の中、理不尽だ」とイジければ、それなりに活路もあっただろう。
しかし、一世一代の告白が特大のインパクトを持つ言葉の前に撃沈した俺は、正気ではなかった。
そう、正気ではなかったのだ。もしも正気ならば「男の良さを教えてやる」と奮起するなり、「付き合いきれない」と諦めたりできただろう。
繰り返すが、俺は正気ではなかった。
「よしわかった。じゃあ、俺が女になったらいいんだな?」
大事なことなので、何度でも言う。
俺は、正気じゃなかった。
最重要項目なので、しつこいくらいに言うが、俺は正気じゃなかった。だが、真剣ではあったと弁明しておきたい。
呆気にとられる彼女――御薗橋やよいに「愛の前に性別なんて壁は、低すぎるんだぜ!」という捨て台詞を残して、俺は実に雄々しい大股で、教室を飛び出した。
そのまま全力で走って自宅に帰り、階段を二段飛ばしで自室――を通り越して、姉貴の部屋に飛び込んだ。
「姉貴、俺を女にしれくれ!」
飛び込んだ勢いのまま土下座する弟に、姉貴は下着姿のままゲンコツを見舞った。
「このトンカチ。男にしてくれってんなら話はわかるが、女にしてくれたぁ、どういう了見だ、コラ!」
姉貴は豊かな胸を包む下着を一応、手で隠しながらも、およそ女らしからぬ台詞を吐いた。
状況からすれば姉貴の言葉は実に小粋で、それ以上に背徳的だったのだが、生憎と俺は正気ではない上に、ほとんど何も考えていなかった。
「俺は元から男だ!」
もしも、「やっぱり男にしてくれ」と言えば、俺は性別の壁を越える前に、血の絆を超えていたのかもしれない。
姉貴は美人で、胸が大きい上に腰の細い、大人の女性であった。筆おろしには勿体ないほどの肢体と美貌である。男である最後の軌跡として、お姉ちゃんとのイケない遊びも悪くない。
「……チョン切るか」
俺の思考が完璧に男に戻ったところで、姉貴は大型カッターナイフの刃をチキチキと出して、俺の前に仁王立ちした。俺は思わず姉貴の立派な肢体に見とれつつも、土下座からの後転で難を逃れる。
「こらテツ。女になるんだろ?」
姉貴もさるもので、鮮やかな跳躍で俺の背後を取り、一瞬で羽交い締めにした。背中に感触が二つ。やーらかい。
「よし、ちょうど切りやすくなったみたいだな」
女としてはほぼ最低の台詞を吐きながら、姉貴はパンツに挟んでいたカッターナイフを再び取り出す。イケない遊びじゃなくて、アブない遊びだ。比喩表現ではなくて、割とマジに。
「古来の中国で、宦官はみんなチョン切ってたんだ。死にゃしないだろ」
「ごめん、姉貴。俺が全面的に悪かったので、とりあえず離してください」
昔の中国人はスゲエと思いながらも、現代に生きる日本人である俺は、長い物には巻かれる生き方しかできない。ついでに言えば、まだ自身の長いモノに別れを告げるほど、人生を楽しんでもいなかった。
「ちゃんと根本を麻紐で千切れんばかりに縛って、失血死しないように処置してやるぞ。チョン切った後は、確か焼いて傷口を塞ぐはずだ。包丁を焼いて押しつければいいか」
「誠心誠意、心の底からお詫びしますから、やめてください」
俺が土下座の姿勢を保っていたのは幸いだった。謝るのに都合が良い。
「……根性無しめ」
姉貴はようやくカッターナイフを(やっぱりパンツに)仕舞うと、少しだけ腕の力を緩めた。
「それで、どうしたテツ。お前にしては面白すぎる冗談だったが」
姉貴はぐりぐりと俺の頭を撫でながら――多分、気に入ったのだろう――胸を押しつけるように身体を揺すった。
俺は背中に至福の感触を得て、ようやく落ち着きを取り戻す。頭に上っていた血が、下の方に集まったおかげだろう。
「いや、それがだな。好きな女に告白したら、女が好きだからゴメンと言われてだな」
「それで、チョン切る決意を固めたのか」
「ソコだけは、ほら。記念に残しておきたいです」
「ふむ。まあソコは武士の情けだな。それでお前は女になると決意したわけだな」
流石は十七年間、俺を奴隷のように扱ってきた女である。一言で説明は済んでしまった。そして。
「よしわかった。じゃあ、今からテツは私の妹だ!」
血の繋がりを感じずにはいられない台詞をのたまうのだった。
「テツ。男が女になるために必要なモノは、何かわかるか?」
「胸と尻とクビレだ」
「我が弟……もとい、妹ながら、最低だな」
「うなじと睫毛と唇も捨てがたいかな」
姉貴は無言でゲンコツを俺の頭蓋骨頂に叩き落とし、冷ややかな目で俺を蔑んだ。
「もう一度聞くぞ。男が、女に、なるために、必要な、モノは、何か、わかるか?」
「おしとやかさと、優しさと、可憐さであります」
「よろしい」
おしとやかというよりも、したたかという表現が相応しい我が姉だが、それは黙っておく。なぜならば、姉貴は美人でマシュマロみたいな胸の持ち主で、尻も水桃のごとく張っていて、クビレは備前有田焼という完璧超人でありながら、自分がおしとやかで優しい、可憐な乙女という勘違いをしているからだ。豪快すぎる性格のせいで彼氏ができないことにも、気付いていない。
「まあ、見た目も重要には違いない。幸い、骨張ってないし、童顔だから化粧でなんとかできるか。眉は剃れ」
「了解であります」
「あとは、脇毛も剃れ」
「アイサー!」
「臑毛もだ。全部剃れ」
「あ、あいさー……」
姉貴の言わんとするところは、理解できるが、俺は言葉を詰まらせた。
やはり見た目は重要であり、臑毛など、男の象徴のようなものである。しかし、全部剃ってしまうのは少し抵抗がある。
体育の時間に、着替えている最中に笑われたらどうしようと思うと、とても剃れない。
「なんなら、別のモノを剃り落とすか?」
「臑毛、全部剃るであります!」
辛くもチョン切られることを免れた男子の象徴にして尊厳を引き合いに出されては、もう拒否する術はない。実に素直で気持ちの良い返事をしてしまう自分が小憎い。
俺は逃げるように風呂場に向かい、愛用の髭剃りで脇毛と臑毛をキレイサッパリ剃り落とした。ついでに腕の産毛も剃るという出血大サービスである。
「姉貴、剃ってきた」
男魂と引き替えに失ったものの重さに、少し声を上擦らせながらも、姉貴の部屋に戻る。姉貴は相変わらず下着姿のままで、じっと俺の半裸体を眺めると、深い溜息をついた。
「……やっぱり、ソレも剃り落とさないか?」
「断固拒否する、であります」
姉貴が下着姿でいるのが悪い。血は繋がっているが、それ故の背徳感やら、悲しい童貞の性やら、色々と男の子は大変なのだ。
「まあ、流石に勘弁してやるが、それでもやり直しだ。剃り跡が酷い」
「え。ちゃんと剃ったぞ?」
「てめえ、女のムダ毛処理を舐めんじゃねえぞ、コラ」
姉貴は万力のような力で俺の腕をねじ上げると、再び俺を風呂場に連れ戻し、浴槽の縁に俺を座らせた。
「可愛い妹のためだ……教えてやろう」
姉貴は俺の前に跪き、そっと俺の足を手に取った。屈んだ拍子に、姉貴の巨乳がふるんと揺れて、風呂場というシチュエーションとの相乗効果で、俺は図らずも再び臨戦態勢に入る。
「ナニを教えてもらうつもりだ、テツ?」
「ナ、ナニの処理を……」
姉貴は俺の必死のジョークに、平手打ちという拍手を送った。
まるでアーケードゲームのレバーの如く、豪快に薙ぎ倒された我が魂は、トランクスの中で、やはりレバーよろしく元の位置に戻る。とても元気が良い。いっそ殺してくれと思うほどの痛みを伴いながらも、一瞬の快感が生まれたのは、気のせいと言うことにしておこう。
「……先が思いやられるな」
姉貴はそう言いつつも、丁寧にムダ毛処理の方法を、文字通り手取り足取り俺に伝授してくれた。
むう、女性の身体というのは手間暇のかかるモノである。
スッキリとした身体になったところで、ようやく姉貴も俺も服を着ることにした。
着替えの最中に乱入した手前、ずっと下着姿だった姉貴だが、別に露出狂でもない。無地の白シャツにジーンズというシンプルな格好ながら、元が良いのでカッコイイお姉さんの印象は崩れない。
「さて、次は眉毛の処理だ」
姉貴の部屋で、俺の女性化作戦が再開される。姉貴の手には、ピンセットのようなものが握られていた。
「剃るんじゃないのか?」
「抜いた方が綺麗だからな。皮膚が弱いと腫れるが、明日は土曜で休みだから、少々腫れても問題ない」
そう言うと、姉貴はやおら俺をベッドの上に押し倒して、馬乗りになった。
「あ、姉貴?」
「ナニを期待しているかわかってしまうのが悲しいが。妹よ、美とは、我慢の代名詞であることを知るがいい」
姉貴はニヤリと口をゆがめ、ゆっくりと俺に覆い被さってきた。
やっぱり筆おろしで男子を卒業なのかと、俺は目を閉じる。断っておくが、このときの俺もやっぱり、あまり正気とは言い難かった。
「うむ。目を閉じていた方が、怖くなくていいだろうな。では、いくぞ」
唇に触れるであろう柔らかな感触を期待していた俺は、不意に目元を襲った激しい痛みと、ぶちっという生々しい音に、「きゃあ」と悲鳴を上げた。
「お、良い声で泣くじゃないか。女の子らしくなってきたぞ」
目を開くと、涙でにじむ視界の向こうで、姉貴が実に楽しそうにピンセットを弄っていた。
わかっていたが、やはりこういうオチだったか。
「よし、ではどんどん行くぞ」
「いたたたッ!! 姉貴、一気に抜くな。死ぬ!」
「チョン切っても死なないんだから、抜いたぐらいで死ぬか!」
姉貴の至極真っ当な理屈に言い返せず、俺は十数分にわたる痛みとの戦いに興じるハメになった。
改めて思う。女の子は大変だ。
「お。哲もお年頃だな。一丁前に色気づいて」
夕食の席で、親父が俺の顔を見てカラカラと笑った。
姉貴に眉を整えられた後、両親に俺が女になろうとしていることがバレるんじゃないかとヒヤヒヤしていたのだが、よくよく考えれば、別に眉を整えることぐらい、男であっても何ら不思議なことではない。高校生である以上、化粧も派手にできないので、姉貴は化粧前提の眉ではなく、割とナチュラルな形に仕上げてくれたらしい。会心の出来だというのは姉貴の言だが、鏡で見てみると、なるほどどうして、自分とは思えないほど、顔立ちがスッキリしていた。
後は、髪を整えて軽く化粧を施せば、女の子としても悪くないレベルであるという自負が出来るほどだ。童顔で、あまり背が高くないことを今まではコンプレックスに感じていたのだが、女になるには、とても都合が良かった。
「やっぱりアレか。好きな子でも出来たか?」
一杯調子で機嫌の良い親父が、息子の眉の理由をしきりに問いかけてくる。確かに好きな女のためには違いないが、これはあくまでも下準備であることなど、言えるはずもない。
「ま、思うところがあってさ」
「いーねえ。思春期ってヤツか」
まさか、息子が娘になろうとしているとは露にも思っていないのだろう。
俺もまた、父親の幸福を願う一般的な息子――もとい、娘であるので、詳しく説明することはしなかった。家族円満の秘訣は、ある程度の距離感だというのが俺の持論だ。
「まあ、私がついている。変なことにはさせないさ」
両親から絶大なる信頼を得ている姉貴の太鼓判に、母親も特に疑うことなく、俺のおかわりをよそってくれる。
「ああ、テツ。明日からおかわり禁止な」
俺がナスの浅漬けに手を伸ばし、お茶漬けを楽しもうとしているところに、姉貴が耳打ちしてきた。
「なんでさ?」
「太ってるわけじゃないが、女になるなら、もう少し華奢じゃないとな。今日はもうよそっているので構わんが、明日からは食事量を減らせ」
「……了解」
男という生き物が、どれだけ脳天気に生きているかが、こうしてみるとよくわかる。
元々、食べてもあまり太らない体質だったので、食事制限など初めてのことだが、これはなかなか辛そうである。
「私もおかわりー」
俺が人生最後かもしれないお茶漬けを涙ながらに食べる横で、姉貴は三度目のおかわりを母に要求していた。
食べても太らないというか、食べただけ痩せるという超人なので、姉貴に食事制限という言葉はない。
「理不尽だ」
「まず理不尽な要求をしたのが、お前だからな」
姉貴には一生勝てないと思う。
そもそも、本当に女になってしまっていいのだろうか。というか、なれるのだろうかという疑問を(ようやく)持ったのは、明け方近くの夢の中だった。
愛しい御薗橋が笑顔で笑いかけるという、実にステキな夢だったのだが、そこでハタと気付いてしまったのだ。
どうやっても、俺は御薗橋のような愛嬌のある可愛い女にはなれない。
姉貴と同じ血が流れている俺なので、素質は決して低くはないのだろうが、それでも骨格は男であり、いくら痩せても華奢な少女になることは難しく、ハスキーボイスにしかならない。可憐な乙女とはほど遠い。
そんな冷静な夢に、ふと目が覚める。すると、二人の女が俺の顔を覗き込んでいた。一人は姉貴で、もう一人は姉貴と同じ年頃の、ぼーっとした感じの美人だった。
「どうだ、ヨッコ。我が妹は?」
「うん、弄り甲斐がありそうだね」
実に不穏な言葉をのたまいながら、ヨッコと呼ばれた女は、にっこり笑った。
「喜べ、妹よ。お前のために、わざわざ美容専門学校に通う友人に来てもらった。女になれる日は近いぞ」
「あ、いや……実は、冷静に考え……」
「ヨッコ。早速だが頼む」
「はいなー」
冷静になった俺だったが、寝起きで力が出ないことが災いした。
馬鹿力の姉貴に無理矢理、上半身を起こされ、そのままシーツが身体に巻き付けられる。
「な、なにをする!」
「身体の次は顔だ。手始めに、髪の毛。次に化粧。大丈夫だ、姉ちゃんに任せろ」
そもそも、俺が姉貴に「女にしてくれ」と頼んだのは、姉貴が超人的な存在であり、一旦引き受けたことは必ず実行してくれると知っていたからである。やるとなれば出費や労力など、一つも惜しまない。それはつまり、一度姉貴が「よし」と言えば、もう後戻りが出来ないことを意味していた。
「お、お姉様……じ、実はですね」
「どうした妹よ。まさか、一晩寝て、やっぱり男が良いとか言わないよな?」
言いたいけど、言えなかった。姉貴の笑顔は喜怒哀楽の全部を表現してしまう、最強の武器である。十七年間、寝食を共にしてきた弟なればこそ、姉貴の言葉に異を唱えるということができなかった。
「ま、まさかー」
「うむ。それでこそ、妹だ。ヨッコ、頼む」
せめて、朝飯を食べたかったと思いつつ、俺はシーツにくるまれたまま、再び風呂場に連れて行かれ、ヨッコなる女に髪を切ってもらうことになった。
「ヨッコは凄いんだぞ。私もヨッコに切ってもらっているが、キューティクルが輝くんだ」
キューティクルって何だろうという疑問もあったが、前回同様、風呂場というシチュエーションが不味かった。
ヨッコも姉貴も下着姿ではなかったのだが、俺は寝起きであり、つまるところ、朝の生理現象が「おはようッ!」とでも言いたげにシーツを盛り上げていた。
「……まずは、これからカットするねー」
流石は姉貴の友達である。発想が同じだ。
「悪気は決してないんです。許してやってください」
下半身をさして、息子という表現が生まれた理由がよくわかった。
自我を持ち、なおかつ愛しくてならない、血を分けた存在だからだ。
ヨッコがナチュラルにハサミをシーツの盛り上がりに向けたところで、起死回生のミラクルが起きた。
何と言うことはない。あまりの恐怖に血の気が引いただけである。
しかし、文学的表現とは便利なモノであり、文字通り血の気が引いた我が魂も、ハサミの魔手から逃れるように、シュルシュルと萎え萎んだのである。文学万歳。
「つまんないのー」
ヨッコはハサミを引っ込めて、俺の髪を弄り始めた。つまらなくてけっこう。こっちは死活問題だ。
「うん、髪質は柔らかいし、細めだから難しくないね」
ヨッコは特に迷う様子もなく、サクサクと髪にハサミをいれていく。女になるために、髪を伸ばすのならわかるのだが、切ってしまうと言うのは、どうなのだろう。
そんな俺の疑問をよそに、ものの二十分ほどで、散髪は終了した。
「じゃあ、後はこれをかぶせて……うん、いいねー」
こざっぱりとした髪の上に、ふぁさっと何かが被せられる。
それがウィッグで、しかも実に上等な品物だと気付くまで、俺はしばらく時間がかかった。理由は至極簡単で、浴室の鏡に映った俺は、紛れもない美人だったからである。
男としての骨格を隠すようなシャギーが施された、ロングヘアーのウィッグ。これで喉仏がなくて、胸があれば、凛々しくも美しい女の完成であった。
「わお。見違えるねー」
「流石、血を分けただけある。私の高校時代によく似ているじゃないか」
男としてみれば童顔の俺も、女としてならば凛々しく映る。もしもクラスにこんな美人がいたら、学生生活が楽しくなること請け合いである。もしも御薗橋に惚れていなければ、付き合いたいと思うほどであった。
かくして、当初の予想に反して美事な美少女に変身した俺は、割と乗り気で次のステップに進むことになった。
「下着に、シリコンのパッドは買っておいた」
本当にやると決めれば徹底する女である。流石に一糸まとわぬ姿を姉貴に見せるのは憚られたので、一旦、自室でトランクスを脱ぎ、いわゆるパンティと呼ばれる女性物の下着を履いた。
「ぬ……」
割と上等の下着だったのだろうか。男物の大味な履き心地ではなく、ほどよく尻回りを包み込むフィット感。はっきり言って、この感触はハマる。
そして、ブラジャー。はっきり言ってパンツは、男物だろうが女物だろうが、毎日履いているものだが、ブラジャーというのは未知の境地である。最近では、男もブラジャーをつけている人間がいると聞くが、これはどうなのだろうか。
「……ほぅ」
胸元を優しく包み込む安心感。それでいて決して窮屈ではなく、まるで母に抱かれたような心地よさすらある。
女はみんな、こんな上等な下着を毎日つけて過ごしているというのだろうか。流石、三枚五百円のトランクスとはひと味も二味も違う。
「あとは、パッドをはめて……おおっ」
シリコンパッドをブラジャーに押し込んで、形を整える。ごく自然なふくらみがブラジャーとぴったり一致して、安定感も一層上がる。
これは、もう同じ下着という分類であれど、男物とは全く違うものだ。
この喜びを報告すべく、姉貴の部屋に戻る。姉貴とヨッコは既に化粧道具を整えて俺を待ち受けていた。
「ほう。痩せ形だけあって、下着だけでけっこう女らしくなったな」
「あとは、お化粧だね」
化粧台の前に座らされて、何やら色々な物が並べられていく。
「ナチュラルメイクは難しいが。化粧水に、化粧下地。後はコンシーラー。こんなところでどうか?」
「いや、さっぱりわからん」
化粧についての知識なんぞ皆無である。化粧水という単語は聞いたことがあるが、化粧下地なんてものがあることは初耳である。
「口紅とかマニキュアを塗るのが、化粧じゃないのか?」
「……昨日まで男だったから、仕方ないか」
姉貴の溜息の理由はよくわからないが、化粧というのは思っていた以上に時間のかかる物らしい。
「いいか。本気でメイクをするなら、化粧水に乳液で潤し、化粧下地を塗り、ファンデーション。コンシーラー、マスカラ、アイシャドウ、アイライン、口紅、チーク、アイブロウなども使うんだぞ?」
「口紅とマスカラはわかった」
「まあ、半分くらいは色鉛筆で代用できるが」
姉貴の言葉に、ヨッコが「それは無茶だよ」と言うが、もう何が何だかさっぱりわからない。
しかし、目の前に並ぶ大量の化粧品を見ていると、女の顔は作り物だという言葉にも頷ける。姉貴が美人なのは天然物であるが。
かくして俺の顔面工事が開始された。
そのうち、一人で出来るようになれと言われたので、しっかりと姉貴の説明を聞きつつ、ナチュラルメイクを施されていく。
幸い、ニキビなどは無い綺麗な肌なので、大々的な工事ではないようだった。
化粧水で潤いを与え、化粧下地で肌の雰囲気を変えて、コンシーラーで細かい部分を修正。最後にパフで全体をぼやかして、肌の質感を与える。薄くリップクリームを塗り、唇にも艶を出せば、ナチュラルメイクの完成だった。
「ふむ……流石に男をナチュラルメイクだけで変えるのは無理があるか。ほんの少しだけ、アイラインとチークを使うか」
「よくわからんが、頼む」
さらに少し弄ってもらい、姉貴が一つ頷く。
「うむ。これならば化粧をしている雰囲気もほとんどない」
「こ、これが……俺?」
鏡に映った自分の姿を見て、思わず溜息が漏れた。
髪型を変えただけで雰囲気がぐっと女らしくなっていた俺だが、化粧を施したら、もう完璧に女である。
しかも美人だ。男としては気になっていた低い鼻も、女としてみればやや高めの凛々しさとなり、丸顔の童顔も女の子らしい雰囲気を後押しするものにしかなっていない。クラスの女子の中に並べても、相当上位にランクインできるだろう。下手をすると愛しの御薗橋すら凌駕してしまうかもしれない。
俺が男ならば、こんな彼女が欲しい。いや、まだ肉体的には男なのだが。
「よし、最後に服だ。これを着てみろ」
姉貴が紺色の分厚い服を俺に渡す。何かと思えば、俺の高校のセーラー服だった。姉貴は同じ高校出身なので、姉貴のお下がりだろう。
「制服を着るのか?」
「明後日から、それで通うからな」
初耳である。
「え……俺、女装して学校に行くのか?」
「女装じゃない。女だから、女子用の制服を着るのは当然だろう?」
「あ、そっか」
姉貴がさも当然とばかりに答えるので、俺も素直に頷いてしまう。
勿論、翌日の朝に俺が頭を抱えることになったのは言うまでもない。
朝の六時に姉貴に叩き起こされて、丁寧にひげを剃り、ナチュラルメイクを施すと、早速ショーツとブラジャー、パッドを身につけて、姉貴の制服に袖を通した。
昨日に一度着ているので今更だが、サイズがピッタリだというのが悲しい。
ウィッグをつけて喉仏がシャギーで隠れるように調整すると、鏡に映っているのは紛れもない凛とした美人女子高生。我ながら天晴である。
ここまでの作業を寝起きの呆けた頭でやってしまい、さて朝食をと思ったときに、俺はハタと気付いた。
言うまでもなく、両親への顔見せである。
息子が娘になったなどと露にも思わない両親は、この姿を見てなんと思うだろうか。少なくとも、正気を疑うという点では俺と同じだろう。
「ぬかりない」
姉貴は俺の心境を読んだようにぐいぐいと背中を押し、俺をダイニングに押しやった。
朝食の用意を終えた母と、パンを囓っていた父が俺を見て、首を傾げる。
「……テツ?」
「……まさかなあ」
あまりに奇天烈な状況では、その状況を認識せずに、ただ混乱するだけという話を聞いたことがある。
両親は「息子→娘」という図式を頭に思い浮かべることも出来ずに、ぼんやりと俺を眺めているだけだった。
「テツが女の気持ちを知りたいというので、しばらく女として生活させることにした。何も問題は無い」
姉貴が俺の背中から顔を出して、問題がありすぎる事を、一言でバッサリと片付けようとする。
流石に無理があるだろうと両親の顔をのぞき見るが、二人ともしばらく何かを考えた後に「ああ、そうなの」「じゃあ、仕方ないな」と、すんなりと受け入れた。嘘だろう父さん、母さん。
「急展開過ぎて受け入れるほか無いという、心理を巧みに突いた美事な作戦だろう?」
「いや、すげー力押しです、ねーさん」
脱力してツッコミを入れるが、姉貴の読みは何故か的中して、以来、両親は俺を女として扱うことにしたらしい。
御都合主義も真っ青の展開であるが、事の発端は俺の無茶な発言だったので、これ以上は何も言えない。
そうした経緯を経て、登校と相成ったわけだが、俺が内心でおそろしいほど心臓を跳ね上げているにも関わらず、周囲は奇異の目で見ることもなく、むしろ好意的な視線すら集めてしまった。
徒歩で十分ほどの県立陽桜高校までの道のりの中、ほうっと見惚れるような男子の視線やら、羨望のような女子の視線をかいくぐり、教室までやってくる。既に半分ほど埋まったクラスメートは、俺を見て首を傾げた。そりゃそうだ。
俺はどう説明して良いかわからず、半ば自棄で自分の席に座る。周囲がもう一度首を傾げたのは言うまでもない。
「あのー。そこ、相良君の席、だよ?」
親切で優しい学園のアイドル、小早川雫が丁寧に教えてくれるが、俺はその相良君であるからして、非常に返答に困った。
「……えっと、転校生の人かな。それだと、まずは職員室に……」
途方もない勘違いをする小早川に、俺は首を横に振って、それから意を決して口を開いた。
「いや、俺は……」
流石に声帯まで弄っては居ないので、声は男のままである。予想外の野太い声に驚いたのか、小早川はビクっと飛び上がって三歩ほど後ずさった。
「え。え。え。相良、君?」
「あー、うん。おはよう、小早川」
見慣れぬ美少女に密かに注目していたクラスメイト全員がしばらくポカンと俺を見る。
そして、次の瞬間に、まるで地球滅亡を知ったかのような、どえらい叫び声が一斉に聞こえてきた。
敢えて具体的に表現するならば「どゥえぇエーーッ!?」といったところか。全員が声を揃えて叫ぶモノだから、隣の教室の連中まで何事かとやってきて、そりゃもうとんでもねえ騒ぎになった。
当の俺は、半ば予想していた展開であり、流石に恥ずかしかったのだが、次の瞬間に何故か小早川を筆頭に、女子達がすんごい勢いで俺を取り囲んだ。冷たい目や他人のフリは予想していなかったが、取り囲まれるとはこれ如何に。
「ちょ、ちょっと相良君って、嘘よね!?」
「なに、相良君のお姉さんとかいうオチじゃないの!?」
「けど声、相良君だよっ。っていうか、何でそんなに美人なのッ!!?」
かの動画サイトの名文句が脳裏をよぎる。
この発想はなかった。
まさかまさかの大逆転。確かに自画自賛の美少女であった俺は、なんとマジモンの美少女であったらしい。
流石に周囲は美少女というか、不気味な存在だと認識すると思っていた俺の不安は一瞬にして払拭され、脅威の質問攻めを喰らうこととなった。
次第に男子連中もこの異常事態に反応できるようになり、完全に四方八方を取り囲まれた。
「相良君かわいいっ。反則じゃないのー」
「つか、どーして女装なんだよ。何かあったのか!?」
「そんなことより、俺と付き合ってくれ!」
最早、阿鼻叫喚と言っても差し支えのない大混乱に、俺は姉貴プロデュースの恐ろしさを肌で感じた。
普段は挨拶すらしないような、単なるクラスメイトというだけの面々まで加わり、質問に答えようにも、俺の声は掻き消される始末である。一体、どう収拾をつけたモノやらと困っていると、やがて教室に一人の少女が入ってきた。
俺がこの地獄絵図を作り上げた原因。否、元凶と呼んでも差し支えのない少女。御薗橋やよいである。
「おっはよー。どーしたの、みんなして騒いじゃって」
お気楽な声で教室にやってきた御薗橋は、騒ぎの中心にある俺を見つけると、しばらくじっと見つめ、それから何故かほぅっと小さな溜息をついた。頬が若干赤くなっており、まるで一目惚れの瞬間。いわゆるボーイミーツガールな雰囲気だった。ただ、残念なことにガールミーツガールになってしまっている。
「やよいー。ちょっと来てみなさいよ。相良君、女装しちゃったんだけど、超キレーだよ!」
「へっ。この超タイプな御姉様、相良君なの!?」
初っ端から御姉様と来たか。しかも堂々とタイプと口走っているところから、御薗橋の動揺具合がよくわかる。
いや、しかしタイプだったのか。女になって良かった。
「とーりーあーえーずーっ。いいからホームルームはじめるわよっ。御題は当然、相良君についてっ!」
クラス委員長である、眼鏡でお堅い女子が、おっそろしく嬉々とした表情で壇上に立つ。普段は人の話をてんで聞かない我がクラスは、何故か一同全員で「はーい!」と声を揃える団結ぶり。
もう、どうにでもなれと諦める俺の心境を、どうか察して欲しい。
さて、始業前の自主ホームルームが開始されると、眼鏡委員張の的確な采配の元、俺はやっぱり質問攻めに遭っていた。
「どうして女装したんですかー?」
「えーっと……その、まあ……」
壇上に立たされた俺は、やっぱり説明に苦しんで、ちらりと御薗橋を見た。
先週末に「女になる」と宣言した以上、御薗橋は理由が自分であることを理解していたらしい。流石に困った顔をしていたが、俺が見つめていることがわかると、ポッと頬を染めて恥じらうように目をそらした。
先週までの俺にその仕草をしてくれたらと思うと、涙も禁じ得ない。
「ねえ、相良君ってばー」
「あ、ああ。えぇと、その……これは、女装じゃなくってだな……」
とりあえず御薗橋の愛らしい仕草については後から考えることにして、この困った現状に対処せねばならない。
色々考えてみたが、あんまり派手な嘘をついても仕方がないので、御薗橋が原因であること以外は、概ね事実を話してしまうことにした。
「俺は……その、女になるって決めたんだ。別に性同一性障害ってわけじゃなくて、その……こう、思うところがあってさ」
俺の回答に、一同はさらに興味を示してしまったらしい。
「女になるってことは、その、アレか。性転換?」
「まあ、そうなんだけど……いや、俺もよくわかんないけど、女にならないといけねえんだ」
張本人たる俺がよくわかっていないので、当然ながらクラスメイトもよくわかっていなかった。
ただ、女装趣味を発露させたわけではなく、女になりたいという意志のもとでの行動と理解は得られたようで、一同はとりあえず納得はしてくれた。疑問自体は尽きていなかったが、担任の仁科先生が教室に入ってきたので、流石にお開きになった。
「おはよー。今日はなんと、突然の転校生を紹介する……って、アレ。こんな女子、ウチの学校にいたっけ?」
教室に入ってきた仁科先生は、意気揚々と喋る途中で、俺に気付いたのかぼんやりとしている。
それよりも、その言葉の内容である。突然の転校生という言葉に、俺はマジかと興奮したのだが、周囲は「へえー」という冷めた感想である。
俺は委員張に手を引かれ、自分の席に座らされる。
「先生。とりあえず、この美少女は相良君なんで、納得してください」
トンデモ発言を口にした委員長だが、何故か仁科先生は「そっか。そういや相良がいないと思ってたんだ」と、あまりにも見事なスルーを決めてみせた。まだ若く、今回が初の担任受け持ちであるというのに、心が広すぎる。
「じゃー、ホームルーム始めるぞ。さっきも言ったが、突然だけど、転校生を紹介する。山田君、入ってきて」
仁科先生の言葉に、教室の扉が開いて、けっこう爽やかな二枚目の男子が教壇にのぼる。
「山田爽海です。長野から転校してきました。まだわからないこともあるので、宜しくお願いします」
きらりと白い歯を光らせて、にっこりと微笑む姿は、もう青春ドラマの主人公のようである。さぞかし女子も色めきだつだろうと思いながら、拍手をしたのだが、やっぱり思惑はずれて、周囲は特に驚くでもなく、黄色い声を上げるでもなく、どこか適当な感じだった。
「んー。まあ、質問とかは追々な。席は相良の隣が空いてるし、そこに座ってくれ。相良、挙手」
先生に指名され、俺は思わず手を挙げる。爽やか山田君は俺を見つけて、ふと驚いた顔をした。やっぱり女装がバレたかとひやりとするが、どうしてか、山田君は頬を桃色に染めて、にっこりと笑うのだった。
山田君は俺の隣の席に座り(元の持ち主は現在、骨折で入院中)、俺の方を向くと「よろしくね、相良さん」と笑いかけた。
むう。どうやらこの転校生、俺を女と思っているらしい。
どう訂正しようかと思っているウチに、仁科先生はサクサクと教室を出て行った。転校生に色々と質問したいだろうという配慮なのだろう。案の定、周囲の連中は一斉に隣の山田君の席を……通り越して、何故か俺の席に来た。
「ねえ。名前、何て言うの?」
それは俺に対する質問なのだろうか。
「いや、テツ……」
「だめだめ。そんなの、女の子らしくないわ。テツコだと部屋になっちゃうから……」
「テツって、あれよね。哲学のテツって字よね。たしか、ヨシって読むことも出来る筈よ」
「じゃあ、ヨシ……ヨシエちゃんにしましょ。相良ヨシエ」
勝手に改造。もとい、勝手に改名されてしまった。事の急展開に全くついて行けず、オロオロしてしまうが、それよりも問題は隣の山田君である。きっと、彼も自分が質問攻めにあうだろうと思っていたのだろうが、まさかのニアミス。よもや、隣の席の男子が、女子になって登校してきたとは思わなかっただろう。ぽつねんと席に座り、不思議そうに俺を見ていた。
男前だし、爽やかなのに可哀想だ。「ただしイケメンに限る」という法則も、この特殊な環境下では何の役にも立たないらしい。
だが、しかしである。
「相良さんは人気者なんだね」
さぞ落ち込んでいるだろうと思った爽やか山田君は、驚いたことにちっともメゲずに、他のクラスメイトに混じって、俺を取り囲む一員となっていた。
「あ、いや……これには、その、事情があって」
「いや、こんなに綺麗な人だから、わかるよ。ハスキーボイスも、すごく似合ってる」
このイケメン。俺の声をハスキーボイスという設定にしてしまったらしい。
転校生という美味しいポジションを、単なる新参者にまで貶めた俺に対して、怒りの一つも見せないのは、彼が紛れもない好人物である証拠だろう。だが、何とも歯の浮くような台詞を並べられても困る。具体的に何が困るかと言えば、反応と対応にだ。
流石に周囲の女子達も山田君の反応に感じるところがあったのか、数人が少し離れてコソコソと相談し始める。一体何を喋っているのかと思った頃には、もう戻ってきて、その中の一人が、俺にこそっと耳打ちした。
「面白そうだから、山田君には女で通してね」
突然の転校生→単なる新参者→道化
たった数分での、見事なまでの右肩下がりの人生に、同情の念を抱かずにはいられない。
かくいう俺の人生も、大概のもののようだが。
ちょっとしたお祭り騒ぎに発展した俺の女人化騒動だが、慌ただしくも特筆すべきことなく、一日目を終えた。
特筆すべきことがないのは、要するに毎度毎度、休み時間には色々なヤツが俺の周囲に押しかけ、山田君は既にギャラリーという一点でのみクラスに完璧に打ち解け、教師陣は仁科先生に含められたのか、俺が女であることを黙殺するということが続いただけである。
ただし、最後の最後。放課後に問題が発生した。
尾籠な話で恐縮ではあるが、尿意がとっても不味い状況になっているのである。
この格好で男子トイレで用を足すのは変態で、だが女子トイレに入るのもやっぱり変態という極めて異例の事態に見舞われた所為で、昼休みからずっと我慢しているのである。若き男女の集う高校という場所に、男女共用トイレは無い。
かくして、俺は相変わらず女子に囲まれて顔を見つめられたり、頭を撫でられたりしている中、いかんともしがたい尿意との戦いを繰り広げていたのである。早く黄昏の中をダッシュで帰宅したいのだが、いわゆるガールズトークなるものの中に引き込まれ、おいそれと切り出せない。
「女の子なんだから、女の子同士の話もしないとねっ」
「よっしーとよっち、どっちで呼ばれたい?」
でっでぃうは勘弁だ。木の実やら敵やら何でも食い、挙げ句の果てに腹の中で異種交配をさせて卵でキノコを孵化させる脅威の恐竜は、最早恐怖でしかない。
「よ、よっちで……」
「じゃー、よっち。この後、みんなで遊びに行こうよっ」
「え、いや……できればすぐに帰りたいんスけど……」
「だめだめ。女の子は付き合いが大切なんだから」
何故かクラスの女子一同は、俺の女装を受け入れただけでなく、俺の女人化計画を後押しする方向で意見がまとまったらしい。嬉しすぎて涙が出そうだ。涙は嬉し涙と悲し涙で味が違うそうだが、この涙はきっと、いつもよりしょっぱい筈だ。
しかし、付き合いに男女の差はあれど、尿意に男も女もない。美少女はトイレに行かないなんて大嘘である。
流石に衆目の面前でお漏らしをするわけにもいかず、女子一同の協力態勢も考慮した結果、俺は素直に白状することにした。
「あの……トイレ、行きたいんだ……」
「行ってくればいいじゃない。それくらい待つわよ?」
「いや、それなんだが……男子トイレでこの格好、不味いから……家に帰って、一回トイレに」
「あー、そういうことね。女子トイレ使えばいいじゃない」
さらっと流したのは、相変わらずの眼鏡委員長。ある意味、俺よりも男気に溢れた発言である。
「け、けど……」
「あ。そうそう、オトヒメの使い方わかんないかも。いいわ、教えてあげる。一緒に行きましょ」
オトヒメとはなんぞ。と思う前に、俺は委員長に手を取られ、あれよあれよという間に教室を連れ出され、女子トイレに放り込まれる。
こりゃイカンと慌てるも後の祭りで、委員長は個室に俺を引っ張り込み、ガシャンと鍵をかけた。狭いトイレの個室に二人きりである。
「ふふ。よっちを独り占めできるなんてね」
「……委員長?」
「ふふ、ふふふっ……」
人として大事な何かが壊れてしまったのか、委員長は分厚い眼鏡をキラリと光らせて、不気味に笑う。
今朝まで、大人しくて愛らしい眼鏡っ子だったのに、一体どこでアイデンティティの崩壊を起こしてしまったのだろうか。トレードマークの三つ編みを何故か解いて、俺を便座に座らせた。
「さあ。して見せて」
「……何を?」
「おしっこ」
聞かなければ良かった。何が悲しくて人前で放尿せねばならんのか、さっぱり意味がわからない。
うら若き女性の口から聞こえてくる尾籠な表現に、本来ならば何かしらゾクっとしておきたいところなのだが、何よりも恐怖のほうが勝った状態では――立つ瀬が無いとでも言おうか。
「したかったんじゃないの?」
「いや、そうだけどさ。出て行ってくれ」
「だめだめ。オトヒメの使い方知らないんでしょう。女の子なんだから、知っておかないと」
嬉々として言う委員長だが、俺は生憎と放尿を見られて喜ぶような性癖を持ち合わせてはいない。
何やら委員長の口からは「女装で放尿とか美味しいわぁ」というえげつない独り言が漏れてくるので、彼女はそういう性癖の持ち主なのかもしれないが。
「……ま、流石にしゃーねえか」
長らく委員長に構っていると、それこそ本当に漏らしてしまうかもしれない。
俺は思わず自分に惚れてしまいかねない美人ではあれど、元は男であるからして、男の特権もまだ持っている。
恍惚の笑みを浮かべる委員長を尻目に、鍵を開けると、そのまま委員長を外に力ずくで押し出す。改めて鍵を閉めてしまえば一安心である。男の腕力を行使するのは憚られたが、場所が場所なので仕方ない。古来、トイレをはばかりと呼んだそうだが、なるほど、色々と憚ってしまう場所である。
「よっちー、ひどいよぅ!」
扉の外で委員長が非難の声を上げるが、ひどいのは明らかに委員長の行動と性癖である。俺はそろそろ危険な膀胱に安寧を与えるために、チャックを降ろし――チャックが無かったので、スカートをめくりあげた。
「む……」
女性用の下着をかすかに盛り上げる心の友に、なんとなく委員長の求めているところがわかった気がする。
まだ骨格こそ男ではあるが、制服や下着のおかげで、女の子の股間に男の子がくっついているような絵になるのである。
これは確かに、そのギャップという一点に関して言えば相当のものである。見た目だけなら両性具有である。俺に特殊な性癖があれば、このまま心の友は別の液体を吐き出す準備をしていたかもしれない。
「……ま、自分の身体だからなぁ」
俺はそそくさと用を足し(仁王立ちでの、男らしい排尿であったことを明記しておく)、水を流して個室を出た。
委員長がすごく悔しそうな顔をして出迎えてくれた後に、オトヒメの正体を教えてくれた。
なるほど、女の子の恥じらいとは、中々に繊細なものである。
その後、クラスメイトの女子達と喫茶店に寄り、携帯のアドレスを交換したりと、女の子同士の交流の後、ようやく俺の長い一日は終わった。
御薗橋のために女になろうと思ったが、肝心の御薗橋と喋る機会は無く、中々に先が思いやられる。転校生の山田君にはたいへん申し訳ないタイミングだったし、委員長の黒い一面も見てしまった。
「いや、それよりも……」
ふと、帰り道の先にある我が家を見て、気が重くなる。
姉貴のことだから、また色々と用意しているのだろう。ありがたいと言えばありがたいのだが、それ以上に憂鬱になるのは、仕方のないことだと思う。
序章だけど続きません。下ネタと威勢の良い姉貴が書きたかった……それだけなので。