今日は、飯を食いにいくことにした。
家にあるもので、生活必需品だと思うもの以外はほとんどすべて売り払った。
田舎から出る時、母にもらった記念のペンダントは、どうやら今ちょうど時期のよい宝石が使われていたらしく、高値で売れた。
元同僚の女と昔買ったおそろいだったはずのハンカチも売った。オーダーメイドだったせいか、売るのに苦労した。名前入りだったので、その部分を無理やり糸を抜いたせいで、あまりいい値段はつかなかった。
家具も、あいつを寝かすベッドと、あいつに飯を食わすための椅子、テーブル、そしてタイプライターを除いておおかた売り払った。どれも年季の入ったものだったから、これも大した金にはならなかった。
今日は、飯を食いにいくことにした。
富豪は、よく肥えた豚を殺して極上の肉を喰らい、快楽を得るという。
また、死んだときの快楽は、この世でもっとも素晴らしいものだとも聞く。
よく肥えた豚を喰らいながら死ねたなら、それは最もシアワセな死に際だったと言えるだろう。
シアワセな人間と死ぬのだ。
他人の不幸は、俺にとっては麻薬だが、麻薬で得る快楽などしょせんはまやかしだと、考えた末に俺は気づいた。
シアワセが必要だ。俺ではなく、他人の。
それを俺のものにするのが、一番心地よいものなのだ。きっと。
今日の町は雨が降っていた。石畳の隙間を泥水が駆け巡っている。
ガス燈の光が雨に屈折してぼやけていた。人通りは少ないが、通りに面した店の出している幌の下では、数人が買い物をしている。
雨は嫌いではないが、よりにもよって今日なのか。
俺の一張羅はすでに売り払ってしまったし、こいつの服も格式高い店に行くほどではない。
仕方なく、俺は行きつけの定食屋に向かった。
高くもなく、客も多くはない。裏路地を抜けて少し歩いたところにあり、稼ぎの少ない傭兵稼業の男連中なんかがやってくる民度の低い店だ。
俺はそこで、一人で呑むのが何故か好きだった。誰も声をかけてこない安心感。店員とも、何度も行ったくせに事務的な会話以外はしたことがない。
店長とは多少話したことがあった。俺がまだこの町で仕事を見つける前、慣れない素材収集のバイトで日銭を稼いでいたときに、何度か依頼を受けたことがあった。
店のダサい木製の扉を開けると、今日は一人も客がいない。
飯時ではないからか。
「いらっしゃい……ああ、あんたか」
「どうも」
「……誰だ、その子」
「ああ……」
考えていなかったが、なんと言えばいいだろう。
奴隷を買った、とは言いたくなかった。店長は、そういう"非人道的"行為には、厳しい人間だったと記憶している。
皆やっているのだから、当然やってもいいと思うのだが、それで面倒なことになるのは嫌だった。
「娘だ」
「へぇ、結婚してたのかい」
「女房は死んだ」
いたこともない。血より赤い嘘だった。
「そうかそうか。……ご注文は」
「こいつにシチューだ。俺には酒」
俺は何も食べる気にはなれなかった。
店長はその態度に少し驚いたような目をしたが、何も言わずに料理を作り始めた。
待ち時間は暇だった。
気まずいというわけではない。ただ、ひどく苛立った。
このようではダメだ。
落ち着かなくてはいけないのだ。
「シチューでよかったのか」
「……あの……はい、なんでも」
酒が運ばれてきた。
一口呑む。働いていたときと同じで、少し心が静まった。
酔うほど呑むことはしない。どうなるか分からないからだ。
俺は自分の理性が及ぶ範囲で生きたかった。もう及ばないものも増えた。
だから死ぬのだ。
金さえあれば、俺の支配というのは広がったのだろうか。俺の考えが、そのまま通用しただろうか。
一度でいいから、金を得てみたかったものだが、今となっては、死ぬ以外の選択肢を取る気力すらなかった。
こいつを買ったのが、後戻りするための橋を叩き落としたのと同義だった。
「……あの」
珍しく、自分から話しかけてきた。
「なんだ」
酒で気分が良かった俺は、返事をしてやった。
「……なんと、お呼びしたらいいのでしょうか」
……そうか。
名乗っていなかった。
「おまえでも、あなたでも、ご主人さまでもなんでもいい」
名前などどうでもいいのだ。
名前とは、つまり自分とは、俺が最も嫌うものだ。
「……わかりました」
それきりだった。
食事が運ばれてきた。それを、こいつはじつにうまそうに食べた。
俺のように、へたに大人というからで武装した人間は、こんなうまそうに飯など食えない。
砂の味しかしないのだ。
「うまいか」
「……おいしい、です」
ならよかった。
シアワセならそれでいい。