駅前で唄う女
2020/07/12に見た夢
歌が聞こえる。
とても悲しい歌だった。
それはとても高い声で唄われていて、次第に絶叫に変わっていく。
ガラス窓を引っ掻く様なとても嫌な音に変わり、そして高過ぎて聞こえなくなった。
1
夢を持って田舎から出てきたのは、専門学校に入学する為だった。
私は無難な成績で卒業して、現実的な就職先を選んで働き始めてから4ヶ月が経っていた。
本当はもっと光の浴びる様な仕事をしたかったのだが、今は営業職で様々な会社を回っている。
使用期間も終わり自分が出来る事とできない事のギャップに打ちのめされながら、入社時はほんのりと有った気がした上司や先輩達の期待も、今となっては使えない新人と言う冷たい視線や言葉が無能な私に突き刺さってくる。
そんなに有能な人間ならば、こんな中小企業の中でも底辺ランクの企業にそもそも入社してくるわけないでしょうと言う気持ちを貧相な胸に抱えつつ、口には出さずに目の前の問題を片付けていくだけで精一杯の日々を過ごしていた。
そんな精神的にも肉体的にも参っている私の数少ない楽しみと言えば、食べる事だ。
一人暮らしではあるが自炊は全くしないので、会社帰りに最寄駅の近くにある定食屋で食べる夕食が私の1日のルーティーンになっている。
精神的にも肉体的にも疲弊しており、なおかつ学生時代はアルバイトの他に親からの仕送りでそれなりの生活を送っていた私だが、社会人になってからは仕送りなどは当然の様に無くなって、安月給の為に学生時代よりも苦しい日々になってしまっていたのである。
だからこそ安い料金でお腹いっぱい食べられる定食屋を見つけたのは貧困で喘ぐ中に射した一筋の光で有った様に思う。
五十代前半の女将さんが一人でやっている店に入ると、私は空いていた窓際の一人席に座った。
そこからは私が家路に向かうのに乗ることになる電車がやってくる大きな駅の北口が見えており、多くの人が薄暗くなり始めた街の中を歩いていた。
「何にします?」
それなりに混み合っている店の中で女将さんが注文を取りにきたので私はすかさず、チャーハンと塩ラーメンに、お疲れ様セットを頼んだ。
お疲れ様セットと言うのは、ビールが中ジョッキ二杯それに枝豆が付いて千円のお得メニュー。
それをほぼ毎日変わらず頼んでいるのはメニューを選んでいる時間がもったいないと思うからだった。
頼む物があらかじめ決まっているならば、悩む時間を省略できる。
仕事をしていく中で、悩む余裕すら無い私が編み出した技術だった。
根本的な問題の解決には至るはずはないのだけれど、もう少し余裕ができるまではそうせざるおえないと思う。
キンキンに冷えたジョッキと枝豆が届く。
私は一気に半分ほどビールを飲み干すと、口の周りについた泡を袖で拭いながら、至福の一息をついたのだった。
どこからともなく歌が聞こえてきた。
窓の向こうを見ると、道路を挟んだ向こう側にある駅前の広場で誰かが唄っている姿が、本当に小さくだけど見えた。
距離にして100メートルはないだろう。
だけれども、車通りの多い道を挟んで聞こえてくるのだから、それなりの声量なのだろう。
黒い服を着た髪が肩に掛かるくらいの長さの女性が、行き交う人たちに向かって歌っている。
もともとギターを抱えた男性二人ぐみとか、路上詩人とか、ジャグラーとか路上パーフォーマーが多い場所だった。
新たにひとり歌い手が増えたところで、気にする人もなく、現に多くの人は唄う彼女に目をくれる事なく、彼女の前を通り過ぎていく。
その為かどうかは分からないけれど、泣いている様な彼女の高い歌声は次第に悲鳴に変わって行き、金切り声になっていった。
私はチャーハンと塩ラーメンを食べながらその様子を見ていたのだけれど、二杯目のジョッキが来たところで、誰かが呼んだのかは分からないが警察官が二人来て、彼女をどこかに連れて行ったのである。
「あぁ、またかい。よくあるんだよ。あそこは」
ジョッキを置きながら女将さんが遠い目をして言った。
女将さんの言葉にどこか引っかかりながら、私は単にそうなんだと思った。
2
仕事で決定的で致命的なミスをした時の対処方法として、失敗した時点で直ぐに正直に報告し判断を上司や会社に仰ぐのがきっと最適で最良の対応方法だと言うのは自分でもわかっている。
隠し通し続けることはできないし、時間が経てば立つほど問題はさらに大きくなっていくのは当然といえば当然だと自分でも思う。
借金をすれば利息が膨らんでいくのが当然であるし、最悪のケースとして損害賠償や刑事責任ということにもなりかねないのは判っている。
だけれど、それを伝える勇気も時期も無く、発覚するまでのわずかな時間に身を置いてしまった時、死刑執行を待つ様な心情になってしまった私に平常心などは無い。
ミスはミスをさらに呼び込み、重大なミスは発覚をまだ免れているとはいえ、私はすでにズタボロだった。
定食屋の窓際でいつもの様にお疲れ様セットのビールを飲みながら、私は虚無感に包まれながら、空いた窓の隙間から聞こえてくるあの歌を聞いていた。
歌は悲鳴に変わり、絶叫に変わっていく。
そしてとうとう高音すぎて、私の耳には聞こえなくなった。
いつもより少し早目に定食屋を出た私は横断歩道を渡り、駅を目指す。
なんとなく歌を歌っている女性の姿を近くで見たくなったのだ。
しかし、彼女が歌っていた広場にその姿はなく、そしてその日から彼女の姿を遠目からも見かけることは無くなったのだ。
3
駅前で彼女の姿を見かけることはなくなった。
だけれど、ふとした瞬間に彼女の歌が聞こえてくる。
私は辺りを見回すが黒い服を着て、髪が肩にかかっていた彼女のあの姿を見つけることはできない。
歌は悲鳴になり、絶叫に変わっていって聞こえなくなる。
それが寝ている時の夢の中で聞こえる様になった時、六畳一間の自室で飛び起きた。
やりたくも無い低賃金の仕事に付き、そこで無能を晒し、大きなミスをしてしまった。
こんな惨めな人生を送る為に私は生まれてきたわけでは無いと心の底から思えて泣けてしまう。
またあの歌が聞こえてきた。
だけど、悲しい歌だけれど、いつもとは違って悲鳴にも絶叫にもならず私の心に響いてくる。
私はその歌を口ずさむ。
何十何百何千と夢の中まで聴いた曲だ。
もう体で覚えている。
その時、部屋の中の暗闇にあの歌を唄う彼女の姿が浮かんだ。
ただそれは姿見に映った私の姿だったのだけれど。
4
私は駅前で定食屋を営んでいる。
死んだ亭主が始めたのだが、そこそこお客さんは入ってくれて、私一人が生きていくくらいは稼げている。
最近、若い女の子の常連さんが店に姿を見せなくなったのが気がかりだけれど、こう言う大きな街ではよくある事なのだ。
店は狭く、熱が籠るので換気のために店の窓は年中開けているのだけれど、そこからどこからともなく悲鳴が聞こえてきた。
きっと駅の方だろう。