Chapter:20
アパートの二階、偶然にも非番だった彼の存在を研一は忘れてはいなかった。
「それでうちに来たわけか」
「お願いします、助けてください」
研一は田口に頭を下げた。下げられた当人はくしゃりと自らの髪をかく。
有りのまますべてを話す研一に明日香は複雑そうな顔をしたが口を挟もうとはしなかった。
「さっきニュース見た。あの病院、クレセントと関わってるんだってな」
後ろにあるリビングを指差して彼は言う。
タンクトップにジャージ姿の田口はポケットに手を入れたまま再び話し出す。
「警察はきっとクレセント逮捕に駆り出されるぞ。それくらいお前にもわかるだろ」
弱った獲物を狩る絶好のチャンスだと、彼は遠回しに告げていた。
「わかってます。でも彼女は俺達の恩人なんです。お願いします」
研一が頭を下げて、美穂もすぐそれに倣った。明日香はただ荒く呼吸をする。
その様子を田口は見つめてため息を吐いた。
「止めろよ、頭下げられんのは慣れてねぇんだ。誰か来る前に早く上がれ」
「田口さ……」
「勘違いするなよ。逮捕前に死なれてもうちの面目丸潰れだからな」
「ありがとうございます」
兄妹は顔を見合わせてまた頭を下げた。
「桐原さん」
田口が用意した来客用の布団に座る明日香の肩が跳ねる。振り返れば申し訳なさそうな顔で研一が立っていた。
「驚かせてごめん。夕飯出来たから呼びに来たんだけど」
台所からは美穂と田口の騒がしい声が聞こえてきた。
それに苦笑しつつ、研一は明日香の答えを待つ。
「お腹減ってないから結構です」
「そう」
研一がドア付近で腰を下ろす。胡座をかいて長く息を吐き出した。
「一つ聞いて良い?」
「何ですか」
「どうしてクレセントに入ったの」
パッと明日香が研一を見る。彼は真直ぐ明日香を見つめていた。
「……始めは、自棄になってたんです」
そう切り出した明日香はうつむいて布団の端を握った。
「家族を殺されて何故か自分だけ生き残って。犯人を恨めば少しはマシでしょうが私には記憶がない」
研一の頭に調書で読んだ事件の概要が浮かんだ。
「生きる意味がないから、死ぬことも考えました。でも出来なかった」
そっと触れた左手首に幾筋も刻まれた傷が一瞬露になり、研一は何かを堪えてぐっと押し黙った。
「そのとき、人の死を扱う政府組織の存在を知ったんです」
「それが、クレセント」
初めて間に入った彼の問いに明日香は頷いた。
「母の知り合いが七緒さん、昼間いた喫茶店の人でクレセントのメンバーだったんです。何度も無理を言って、入れてもらいました」
懐かしむような笑顔から一転して、影の落ちた表情になる。
「屋上から落ちようとする人の背中を押してきた。それでも必死にしがみつこうとしていた手を足で踏みにじった」
生きたいと思い直した人間も殺した経験のある明日香は自らの身体を抱いて呻くように言った。
「君は直接手を下したわけじゃないんだろ?」
「それでも、私が殺したようなものです」
否定する言葉を研一は言わなかった。それが明日香のためにならないとわかったからだ。
「浅はかだと、愚かだと後悔しても、抜け出したら殺されるかもしれない。だから逃げもせず生きてきました」
「ごめん」
苦々しげに吐露する明日香に研一は手を差し延べた。
「……もういいから。考えよう、これからのこと」
そろりと手を伸ばしかけた明日香を止めたのは、携帯電話の着信音だった。
液晶画面に浮かび上がる片瀬七緒の文字にためらうことなく明日香は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ワンコールで出るなんて流石七緒さんの携帯電話」
予想とはまったく違う人物の声に反応が遅れた。
「何で、あんたが出るの」
「そんなの簡単さ。一緒にいるからだよ」
十夜は気分良さげに明日香へ返答する。電話越しにスプレーと金属がぶつかる音が聞こえて、彼女の焦りを高ぶらせる。
「……七緒さんに替わって」
「残念だけど今話せないんだ。きっとこれからも、ね」
思わせぶりな言い方に彼女は息を飲み込んだ。
「もし気になるなら、事務所においで」
そこで電話は切れた。再度かけ直しても、電源を切られたらしく連絡がつかない。
「桐原さん?」
「私ちょっと行ってきます」
「行くってどこに」
彼の身体が明日香の行く手を阻んだ。
「単独行動なんて危険すぎる」
「……ごめんなさい」
隠し持っていたスタンガンを研一の首に押し当てる。
「本当に、これ以上関わらせるわけにはいかないから」
倒れた研一を布団に寝かせ、明日香はマフラーを巻いた。
最近よく走るな、と霞みがかった頭で明日香は思った。
「葵さん、桐原です」
全力で事務所までの階段を駆け上がり、息を整えることも忘れてドアを乱暴に叩いた。
しかし返事はない。
「葵さん?」
ドアノブを回すと簡単に開く。
深呼吸をした後、明日香は中に飛び込んだ。
「……っ」
ソファに転がる葵のシャツは、彼の血で深紅に染まっていた。
身体に突き立てられたナイフは鈍色に光り、ソファ周りには同じような血の色をした造花の薔薇が飾られている。
驚きのあまり悲鳴を上げることも出来ず、明日香はよろよろと葵に近寄った。見開かれた目を閉じてやり、彼女は立ち上がって事務所を出る。
「ずいぶん早かったね。走ったの?」
すぐに十夜の声がした。警戒心むき出しで明日香は彼を睨み付ける。
相変わらず、十夜は曖昧な笑みを浮かべていた。
「でもちょうどよかった、僕の最新作が出来上がったんだ」
ブラックルームへ歩き始める十夜。充分距離をあけてついていく明日香に彼はほくそ笑んだ。
彼専用の部屋に通されると、暗闇の中で一点光る場所があった。
「綺麗だろ、咎色の天使とでも名付けようかな」
電球の真下にある椅子に座らされた見覚えのある人間。純白のドレスに乱雑に描かれた黒と赤のスプレーアートに明日香は目眩を覚えた。
いつも結ってあった自慢の金髪は、下ろして本人の顔を覆っていた。
「七緒さん……」
「折角作ったけど後で二つとも処分するよ。メインの材料は今届いたから、腕鳴らしにはなった」
施錠された音が妙に大きく響いた。明日香とドアの間に、十夜が立っている。
「まぁ届いたってよりは自分から現われたって方が正しいかな」
どこか愉快そうな彼の口調に彼女はかたかたと震え出す。
「桐原」
びくりと身体が跳ねる。青白い顔をする明日香に、十夜は言い放った。
「僕が飾ってあげる」