Chapter:01
三日月に、休息はないのだろう。
喧騒から離れた場所にあるコンクリート造りのビルは三階建て。エレベーターはない。
履きなれたローファーで一人の女子高生が階段を蹴り上げて目的地である三階にたどり着いた。セミロングの黒髪がさらりと揺れる。
四つ並んだドアの一番手前に立つ。吐き出した白い息は夜の闇に溶けた。
「桐原明日香です」
サインペンで書かれた事務所の独特な文字を視線に入れながらノックをして名乗れば、事務所から入ってと短い返事が聞こえた。
「悪かったな、折角の休日に呼び出して」
薄汚れた天井や壁、応接用のソファも所々つぎはぎが見られる。
そこから少し離れたデスクに、明日香の上司はゆったりと座っていた。ドアの真正面にそれがあるため必然的に真っ先に目を合わせることになる。
「いえ。慣れてますから」
言葉とは裏腹にあまり申し訳なさそうには見えない須藤葵に明日香は無表情で答えた。
「……それ嫌味?」
「わかってて聞くのも嫌味だと思いますよ」
軽い掛け合いをしながら明日香はグレーのダッフルコートを脱いで自分のロッカーにしまう。
こんな砕けた話し方が出来るのは、身寄りのない彼女の父親代わりだからだろうか。
伸ばしたままの髪に無精髭が生えた彼は無意味な役割だったネクタイを更に緩めた。
「客はもうブラックルームに通したから。ついでに書類もやっといた」
「……ありがとうございます」
クライアントと接触する予定は三日後だったのだが、急な向こうからの要望で今日に変更し、彼女の休日は消えたらしい。
当人は用事もなかったから問題はないようで淡々と身形を整えていた。
「桐原」
「何ですか?」
「あげる」
ドアの前で立ち止まった明日香に葵が何かを投げて寄越した。両手でそれをキャッチする。
「……また変わった味選びましたね」
手のひらに降ってきたのは飴だった。たこ焼き味だ。前はかぼちゃ味だか煮干し味だか。
葵の趣味は変わり種の飴を食べることで、飴のためならいくら運送費がかかっても食べたいらしい。
「今度こそお前も旨いって認めると思うぞ」
「どーも」
冷めた調子で礼を言い、制服のポケットにしまう。
別々で普通に食べたいと、明日香はあえて言わなかった。一度言っても聞かなかったため諦めたのだ。
事務所を離れて通路の一番奥、角部屋に向かう。事務所二部屋分の広い部屋が、明日香の主な仕事場だ。
「もう、いや……」
真っ暗な闇に豆電球の灯がぼんやりと浮かんだその真下に、泣き崩れて小刻みに肩を震わせる女がいた。
二十代前半くらいの彼女はパーマがかった茶髪を振り乱しながら、いやいやと首を横に振る。
「どうしたんですか?」
なるべく優しく、明日香が女に声をかける。振り向いたときにふわっと酒の臭いが鼻をくすぐった。
「会社でね、失敗しちゃったの。上司には怒られるし、同期や後輩からは冷めた視線浴びるし」
明日香の存在に一瞬驚いた顔をしたものの、酔った女はべらべらと喋りだす。
「挙句の果てには解雇、嫌になっちゃう。私はお金にならない残業をずっとやって、会社に貢献してきたのに」
納得がいかないのか、息継ぎをしないくらいに饒舌だった。
クライアントの愚痴を聞くのも仕事の一つ。明日香は黙って耳を傾けていた。
「両親だって早くに亡くなるから私はずっと独り……」
「そう、なんですか」
この仕事で演技力も身に着いた。冷めきった心には何の感情が湧かなくても、悲痛な声が出せる。
鼻をすすってほっと彼女は息を吐き出す。
「なんだか疲れちゃったみたい。他人の貴方に話すようなことじゃないのに」
明日香は首を左右に振って大丈夫だと答えた。
「一点確認したいんですけど」
「何かしら?」
「貴方は本田弥子さんですか?」
泣き腫らした赤い目をのぞき込んで尋ねる。本田弥子と呼ばれた女の潤んだ目は次第に丸く大きくなった。
「どうして私の名前……」
「申し遅れましたが、紹介屋の桐原と申します」
ブレザーのポケットから慣れた手つきで名刺を取り出す。
床に座り込んだままの彼女にそれを手渡した。
「貴方が?」
名刺を受け取り、しげしげ眺め倒した後、目線を上げて今度は明日香をじっくり見つめる。
明日香は葵から教育された嘘っぽい笑顔を振りまく。
「まだ高校生じゃない」
「この仕事に年齢は関係ありません。私は中学のときからやっていました」
驚いたままの本田弥子を気にせず、明日香は机に置かれていたファイルを手に取った。クライアントの名前や住所はもちろん、会社での階級や生活態度等の細かなことが書かれている。
「本題に入りましょうか。貴方は我々に依頼をしましたね」
ぴくりと彼女の肩が揺れた。それを無視して明日香はつらつらと文章を読み上げる。
「ちょうど一週間前の夜零時五十分、貴方から弊社にメールが届きました。内容は自身を殺してほしい、というものでしたが」
そこで言葉が止まった。
本田弥子はただただうつむく。
「念の為にうかがいます、本気ですか?」
「じゃなきゃ、メールなんか送りません……」
「それもそうですね」
ファイルを閉じた。ここまで作業が来たらもうこれは必要ないと判断したのだ。
「自殺する気はないんですね」
「やろうとしたけれど、出来なかったの」
ビビッドピンクのカーディガンの袖からちらりと顔を出したリストカットの傷跡。幾つも重なった歪んだ線が刻み込まれていた。
それを横目で確認した明日香は微笑む。
「わかりました。ではこちらの契約書にサインをお願いします」
ファイルの横に用意されていたバインダーを見せる。
ワープロで入力された用紙には依頼を行っただけで、こちらには落ち度がないと認めることを了承するためのサインだ。
「そんなことまで?」
「何かで貴方のことが明るみに出た場合の最終的な切り札として使用します」
悪用することは絶対にない、そう言うと彼女の警戒心が微かに和らいだ。
「それでも構わなければお願いします」
明日香と契約書を何度か見比べて、本田弥子ははっきりと丁寧な字で氏名を書いてみせた。
「ありがとうございます、これで契約完了です。それではあちらの部屋に担当者が待機しております」
ブラックルームは文字通り黒い部屋。床も壁も一面黒い。
必要な場所に電球がついただけの薄暗いそこが事務所二つ分なのは契約するか話す部屋と、依頼を執行するための部屋で分かれているから。
ふらつきながらも黒塗りのドアに手をかけたクライアントの名前を明日香が呼ぶ。
「来世は幸せに満ち溢れた人生でありますように」
「ありがとう」
閉まるドアを見ながら、吐き気を感じて身体を机に預けた。クライアントの嬉しそうな笑顔が頭をかすめる。
歯がゆい気持ちを取り除くように、明日香はフローリングの床にバインダーを叩き付けた。
床に残ったいくつもの傷が、彼女を嘲っているようだった。