Chapter:15
「あ、来たかな」
再び鳴る呼び鈴に美穂は手を洗ってからドアに向かった。
残された肉は切られたまま、まな板に寝転がっている。
「はいはい。今開けるから待ってよー」
「いつ来てもここの階段きついな」
息を切らす研一は暑そうにぱたぱたと手で自らを扇いだ。
「エレベーターで来ればっていつも言ってるじゃん」
「体力作りだからいいんだよ」
彼の言葉は明らかに矛盾している。美穂は呆れ顔だ。
「あっそ。ねぇ野菜切るの手伝ってくれない?」
「お前なぁ。人が必死でここまで来たっての、に……」
明日香と研一の視線が交ざる。先にそらしたのは明日香だった。
「前に何回か話してたでしょ? あたしの友達」
固まる研一に説明する美穂。あぁ、と曖昧に返事をする彼には戸惑いの表情が浮かんでいた。
研一が再度口を開く前に明日香は立ち上がり作った仮面で微笑む。
「初めまして、桐原明日香です。美穂にはいつもお世話になってます」
「……海野研一です。ご丁寧にどうも」
互いに頭を下げる二人。未だに状況を理解していない研一は眉をひそめたり、首を傾げたりしていた。
明日香は変わらず笑顔のままだ。
「疲れてるんなら明日香の話し相手しててよ。でもあたしのことであんまり変な話したら駄目だからね!」
「馬鹿、包丁持って言うなよ!」
「はいはーい」
親しげな掛け合いの後、美穂は台所へ消えていった。
残された二人。研一は明日香を盗み見てすぐ床に視線を戻す。
「初めまして、ってことにしておいてもらえませんか」
そこまで深い知り合いではないんですけど、と付け足して明日香は言う。
胸のつかえが取れた研一はほっとしたのも束の間、疑問をぶつけた。
「何で?」
「酷い接し方してた相手が友達のお兄さんだったらイメージ悪いじゃないですか、私」
実際の理由は違う。
しかしそんなもんかなぁと間延びした声で研一が言う。彼は明日香を信じた。
「俺は桐原さんが良い人だと思ったんだけど」
「私が?」
「この前、顔に痣作って愚痴ってた俺に色々言ってくれたときは素直に嬉しかったから」
幸せそうに微笑む研一。明日香は戸惑いながら横目で彼を見つめていた。
血の繋がりがあるせいか似ている。美穂と研一の笑う顔を重ね合わせた明日香が小さく笑った。
「俺、変なこと言ってる?」
笑われたと思った研一は顔をしかめ、不機嫌そうに言う。
「違うんです。馬鹿にしてるとかじゃなくて、やっぱり美穂に似てると思って」
「そう?」
「あれ、盛り上がってる。何の話?」
「警察官の仕事大変そうですねって話してたの」
鍋を持って現われた美穂に、すかさず明日香が嘘を吐いた。その滑らかな口振りに内心研一は舌を巻く。
「大変ねぇ。その割りにはよく飲み会して酔っ払ってるよね?」
「先輩に誘われるから、仕方なくだよ」
矛先が自身に向いて研一が居心地悪そうに座り直した。
信用していない目を美穂は向けるが、埒があかないと思い直したのか軽く手を叩く。
「さて、鍋やろっか。今日は自信作だよ」
蓋を開けると牛肉や青野菜がぐつぐつと煮えていた。すき焼に研一は喉を鳴らす。
「ビールある?」
「警察官が未成年者の前で堂々と飲酒する気?」
「……お茶で良いや」
妹に負ける兄。
程よく煮えた鍋を三人で囲み、箸をつついていく。
「あ、そうそう。お兄ちゃん何であの電話怒ってたわけ?」
「電話ぁ?」
牛肉をくわえた状態で尋ねられた研一はそのまま聞き返す。
「もう、クレセントの電話だよ!」
美穂が大きな声を出す。その瞬間明日香と研一の顔が固まった。
「ば、馬鹿! 桐原さんの前で何言ってんだよ!」
「は? 明日香は知ってるよ、クレセントのこと」
目を見開く研一に明日香は少しだけと言いながら控え目に頷く。恐れていたことに唇を噛む。
「深入りするなよ二人とも」
声のトーンを落とし彼は言った。
「明日香もそれ言ってた。でも人は犠牲を払っても知りたいことがあるの」
「おい美穂……」
「誰が何て言おうと、あたしは諦めないからね」
嫌な沈黙が続く中、ただ一人食欲旺盛だった美穂が鍋を空にした。
片付けも一通り終わった頃合を見計らって明日香は立ち上がる。制服のプリーツを少し整えてカバンを手に持った。
「ごめん、私そろそろ帰るね」
「じゃあ途中まで送るよ」
「大丈夫です」
「良いから良いから。男は利用出来るときにしとくべきだよ」
ひらひらと手を振り、美穂は二人を送り出した。
暗くなった歩道を並んで歩く。
「強引な妹でごめんね」
「いえ。賑やかで楽しかった」
「それなら良かった」
懐かしむような明日香の微笑みに研一も表情を和らげた。
「いつもの道までで大丈夫?」
「はい」
少し歩いてから、ゆっくりと明日香が口を開いた。
「知ってたんですね、クレセントのこと」
「俺の知り合い……っていうか職場の先輩が、クレセントに潜入したんだ」
クレセント絡みで明日香が知る警察官だった男は伊沢颯しかいない。
そっと目を伏せて彼女は続きを聞こうとする。
「結局その人は帰って来なかった」
研一は足元に転がる石をぼんやり見つめる。
「後で調べたら、その人は話せない身体になってたよ」
それを蹴ると、数回跳ねてどこかに行ってしまった。
「許せないんだ。同じ人間相手の命を奪っても裁かれないクレセントが」
もみ消される事実。存在さえ元からいないと思わせるほど完璧なそれに、研一は憤りを感じていた。
「……今日は三日月です」
囁くような明日香の声が研一に届く。
曇り空のすき間から薄く月明りが道を照らす。三日月は雲に隠れ、二人の前には現われようとしない。
「不完全な人間の集まりだから、クレセントという名前になったそうです」
以前葵がそう言っていた。何かが欠けた四人は、今もこうして在り続けている。
「桐原、さん?」
「早く止めないと、美穂は本当に死ぬかもしれません」
さわりと風が二人を包んだ。明日香の黒髪が自身の顔を隠す。
近しい人間に迫る死の香りに研一はぐっと背筋を伸ばした。
「貴方も、危険ですよ」
恐怖を感じた様子を見た明日香はふっと表情を和らげる。
「失礼します」
「待って」
首から上だけ振り返った明日香に研一が言う。
「聞いても良い? 警察嫌いな理由」
「……昔両親を殺されました。犯人は未だ見つからず、時効を迎えるのを待とうとしています」
一旦言葉を切り、彼女は息を吸い込んだ。
「使い物にならない警察が大嫌いです」
それは研一をも拒絶したようだった。