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三日月は眠る  作者: 詩音
13/24

Chapter:12




「珍しい光景ですね」

 クレセントの事務所に入って早々に、明日香は呟いた。

 目の前ではシワだらけのワイシャツを着た葵がぱたぱたとはたきで埃を落としている。滑稽そのものだ。

「見てる暇があるなら手伝えよ」

「何で今大掃除なんです?」

 年越し前と言えばそうだが、去年も一昨年もそんな行事をここで見たことがない。

「明日はクライアントが来る日だからな」

「吉沢佐和子は葵さんと面識なんかありませんよね」

 すでに書類の中身を頭に叩き込んでいる明日香は言った。

 自嘲気味に葵が笑う。

「やっぱお年寄りは大事にした方が良いだろ?」

「……意外な台詞ですね」

「失礼だろお前」

 悪態をつきながらも彼は手を止めなかった。

「確かにこんな埃っぽい部屋は不健康でしょうね」

「うるせぇ」

 さっさと手伝えと葵に命令されて明日香も作業に加わる。

「あれぐらいなんだよ」

 黙々とやっていた掃除の手を止めて話し出した上司を見た。

 陰りのある物憂げな表情に明日香は言葉を詰まらせた。

「俺の母親の年齢。本物はもういねぇけどな、やっぱかぶるだろ面影みたいなのが」

「……私は小さいときに両親とも亡くしてますから、よくわからないです」

 それは触れてはいけないところだったらしい。葵ははっとした後に話を変えた。

「そういえば吉沢佐和子は軽い認知症らしい。たまに独身の若い自分になって過去のことを急に話し出すそうだ」

「ご家族はそれを知ってるんですか?」

「あぁ。吉沢佐和子自身もはっきり自覚がある」

 ため込んでいたインスタントの空き容器を乱雑にゴミ袋に入れていく。

 掃除機がここにないことをこのときばかりは疎ましく思う明日香だった。

「お前が話すのは数十分だし問題はないだろうがな」

 葵は埃に塗れた雑巾を親指と人差し指で嫌そうにつまむ。

 古くなったタオルを使ったのか、黒ずんだ記事にどこかの会社名が印字されていた。それは洗われずにゴミ袋の中へ。

「もし突然暴れたりしたら?」

「俺呼べ。押さえ込むくらい出来る」

 先程の敬老とは違う乱暴な考えに明日香が僅かに顔を曇らせた。

「そんな顔すんなよ、好きでやるんじゃねぇんだから。……おとなしくしててくれるとありがたいな」

 呟く彼は、酷く無機質な表情を浮かべていた。




「あら、香ばしい匂い」

 くんくんと鼻を鳴らして白髪の老婆は目尻を下げる。

 吉沢佐和子は老人ホームの所長と共にクレセントを訪れていた。

「玄米茶です」

 老若男女、様々相手にお茶を淹れてきた明日香。三年で培った技術は本物だ。鮮やかな黄緑色のそれはふわりと湯気を漂わせていた。

 吉沢佐和子が口に含む。

「美味しい……。淹れるの上手ね」

「ありがとうございます」

「それでは、私はこれで失礼します」

 神経質そうに眼鏡を人差し指で押し上げた所長は手荷物を抱えて立ち上がる。

 スーツで固めた姿は老人ホームに携わる仕事をしているようには見えなかった。

「ご苦労様でした」

「いえ。宜しくお願いします」

 葵が軽く言葉をかけると彼は恭しく一礼した。吉沢佐和子の肩に手を乗せて、耳元で囁く。

「元気でね、佐和子さん」

「はい、ありがとうございます」

 座ったまま彼女は所長に深々と頭を下げる。どこかぼんやりしたその表情からは真意が読み取れそうもなかった。

「桐原」

「わかってます」

 明日香も重い腰を上げた。反動で黒髪がさらりと揺れる。

「行きましょうか」

「えぇ」

 杖が必要な吉沢佐和子に注意しながら事務所からブラックルームへ移動する。

「昼間なのに薄暗い部屋ねぇ。壁も床も真っ黒だわ」

 物珍しさにきょろきょろと顔を動かす度、彼女のラベンダー色のロングスカートが波打った。

「電気、点けますか?」

「あら必要ないわよ。もうすぐ死ぬんだから」

 当人にとっては何気ない言葉に、明日香の心臓が跳ね上がった。

「貴方、何か迷ってる?」

 くりくりとした吉沢佐和子の真ん丸の目が形容しがたい表情を浮かべる明日香を映した。

「目を見るとね、色々わかるの。この人は今怒ってるなぁとか、悲しんでるなぁとか」

「迷ってなんかいませんよ。私が進む道はもう一本しか残ってないですから」

 曖昧な微笑みをしていた老婆はしゅんと肩を落とした。

「それは悲しいわね……」

 明日香はその憐れむ視線をつっぱねるように乱暴に机にあったファイルをつかむ。

 同情をされたくないのだろう。

「始めます。よろしいですか」

「勿論よ」

「吉沢佐和子さん。貴方は何故死にたいんですか」

 いつものようにファイルを片手に一通り形式をこなす。

 家族の欄を見て明日香は言葉を付け足した。

「お孫さん、いるようですけど」

「いてもねぇ……病気なんだよ」

 老婆は諦めたような力ない表情をしていた。明日香が椅子に座らせた彼女の肩は妙に下がって見えた。

「簡単には治らないと言われたらしくてね。娘がたまに持ってきてくれる写真を見るとどんどん痩せて弱ってるんだ」

 ブラウスの胸ポケットに入っていた写真の束を一枚一枚めくっていく。

「それでも孫は諦めてない。目に輝きが残ってる」

 胸元にそれを押し付けて感慨深くため息を吐き出した。

「依頼人が死んで家族がそれに気付けば国から口止め料が入るんだろう?」

 明日香も先日知ったばかりの情報を知っている老婆は国からの見舞い金を、孫の手術費用にあてようと考えているのだ。

「惚け始めた婆さんより、未来のある孫に長く生きてほしいじゃないか」

 少し悩んだ素振りを見せてから、明日香は内線の電話に手を伸ばす。

「どうしたんだい?」

「口止め料目当てだと、私には色々と判断しかねます」

 金目当ての自殺は初めてのことだった。ただ単にはっきり言われるのが初めてなのかもしれない。

 その場合は依頼を中止するケースがあると葵に言われたことがあったのだ。

「それなら、今私が話したことは貴方の胸にしまっておいてくれないかしら」

「私に黙認しろと?」

「貴方が良ければ」

「それは」

 明日香は言い淀む。交渉を持ち掛けられることのない彼女は明らかに困惑していた。

「狡いわね、私。こんな言い方したら貴方に黙認を強要するようなものなのに」

 吉沢佐和子は表情を堅くしてなおも続ける。

「でも決断は早い方が良いわ。いつ惚けて暴れ始めるか自分でもわからないんだもの」

「お孫さんにとって、それは幸せなことなんでしょうか」

 しばしの沈黙の後、ようやく明日香が絞り出した声は、いつになく弱々しかった。

「貴方が犠牲になって助かることを本人が喜ぶとは思えません」

 むしろ悲しむはずだと告げる。

 ふっと力を抜いた老婆は自嘲的に顔を崩した。

「確かに、自己満足の話だわ」

「それなら」

「でも私には名誉ある死だから」

 もうすでに決めたことだとはっきり言っているようだった。

 恐らくする気はなかった説得など、始めから無意味。

「決意があるのなら、こちらにサインをお願いします」

 それは黙認することを表していた。少しばかり目を丸くした老婆はやや申し訳なさそうにペンを取る。

「辛い思いさせてごめんなさいね」

 書きながら吉沢佐和子が呟く。明日香はただ黙っていた。

「あちらの部屋で担当者が待機しています」

「ありがとう」

「どうか来世もお幸せに」

「貴方も、ね」

 杖を頼りに真直ぐ死への扉へ向かう老婆。

 扉が閉ざされたのを見届けてから、ファイルを壁に投げ付けて明日香はクレセントを飛び出した。

 事務所でその物音を聞いた葵が明日香とぶつかる。

「桐原!」

 しかし彼の制止を聞くことなく、彼女は階段を駆け降りていった。




 外は小雨が降っていた。鈍色の空がより一層重苦しく感じる明日香は傘を差さずにただひたすら歩く。

 まばらに歩く人々は、ずぶ濡れの明日香を一度見てすぐに目をそらす。

 異質な明日香は道の隅に寄ってしゃがみ込んだ。

「桐原……さん?」

 黒い傘を差したスーツの男が、ぎょっとした顔で明日香を見つめている。

 それは海野研一だった。

「ちょっ、待って!」

 逃げ出そうとする明日香よりも先に腕をつかむ研一。

 行き交う人は何事かと視線を送るが、痴話喧嘩と処理されてまた視界から消えていく。

「離してください」

「どうしたの、泣きそうな顔して」

「何でもありません」

 うつむいて髪が顔を覆う。心配そうな研一に明日香は冷たく言い放った。

 その間にも彼の手から抜けようとじたばた抵抗する明日香だが相手は男であり一応警察官、無駄に終わる。

「これ以上構わないで」

「何があったか知らないけど、風邪ひくよ」

 ハンカチで濡れた頭を拭かれる。その優しさに我慢していたが涙腺が緩んだ。明日香の視界がじわりとぼやける。

「悩み聞くくらいは出来るから、ね?」

「どうして」

「ん?」

 研一は最後まで明日香の言葉が聞き取れずに小首を傾げる。

「どうして、人は他人の命を奪うくせに誰かのために死ねるの」

 雨が強くなった。








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