Chapter:10
それは昼休みのことだった。美穂に昼食を誘われた明日香は七緒手製の弁当を手に立ち上がる。
一階の隅にある非情階段近くの段差に腰掛けて、さて食べようと弁当の蓋を開けた瞬間に、美穂は言い出したのだ。
「クレセントって知ってる?」
「……何それ」
動揺を押し殺して明日香は興味なさげに問う。
「パソコンで色々ネタ探ししてたら見つけた。自殺したい人を代わりに殺してあげる政府公認の特別組織だって」
人の寄らないそこは昼間でも薄暗かったが、美穂の瞳は好奇心により輝きを放っていた。
「ほとんどの内容が非公開で謎に包まれてるんだけど……面白そうだと思わない?」
「興味ないな」
胡椒のきいたポテトサラダを無理矢理喉に流して短く答える。
これ以上彼女に知られては色々とややこしくなり迷惑なのだ。
「そっかぁ。明日香なら興味持ってくれる気がしたんだけどなぁ」
「何で?」
「さぁ、わかんない」
曖昧に笑う姿は、十夜とどこか似ていた。
「とりあえず調べてみる。色々情報わかったら教えてあげるね!」
ころころと変わる美穂の表情を眺める。ふと浮かんだ疑問をすぐ目の前の相手にぶつけた。
「美穂。それ他の人に言った?」
「まさか、気味悪いって嫌われるのがオチじゃん。明日香はそういうの平気っぽいから」
それを聞いて明日香はほんの少し安堵する。これ以上クレセントに関わる人間が増えるのは避けたかった。
伊沢颯がまた彼女の脳裏をかすめていく。
「……自殺したい人を殺すって、どうなんだろうね」
呟いた独り言に近いそれは美穂の耳に届いていた。
「あたしは難しいことわかんないけど、依頼して死んじゃった人の家族はクレセントを恨むんだろうね」
「……そうだね」
クライアントの大半は孤独な人間だ。しかし中には家族がいたケースだってある。そのときは、政府から見舞金としてそれなりの大金が動くらしい。
それで解決してしまう大人達の闇にどっぷり浸かってしまった明日香は自分を疎ましく思うこともあった。
「さて。頑張ってスクープ見つけなきゃ!」
未来に向かって進む人間に接しているとより一層感じるのだ。自分に輝かしい光を見る術がないと。
「明日香はこの後どうするの?」
今日は上級生の進路面談で授業は半日のみ。美穂が首を傾げると茶髪がふわりと揺れた。
「真直ぐ帰るよ。下宿先の手伝いしなきゃいけないから」
「そっか、頑張ってね!」
「美穂もね」
笑顔で別れて真直ぐクレセントの事務所へ行こうとした明日香だが、十夜が同級生と話す様子に身を隠した。
「流石について来られると困るんだけど……」
「ごめんなさい、それは謝る。でもあたし本気なの」
明らかに付き纏っている様子の女は押し付けがましい視線を十夜へ浴びせた。
明日香のいる位置からは十夜本人の表情がよく見えない。
「気持ちは嬉しいけど、今はそういうの興味ないんだ」
静かな十夜の拒否。はっきりとした言葉を聞いたのは初めてだったらしい。
ショックを受けた彼女は放心状態でふらふらと来た道を戻っていた。
「盗み聞きに盗み見なんて趣味悪いよ桐原」
「あんたが堂々と道のど真ん中で話すのが悪いんでしょ」
「それもそうだね」
開き直る態度の明日香に十夜が笑う。進む彼らの会話はテンポが良かった。
十夜の数歩後ろを明日香は歩く。
「蓮見さんて、新聞部だっけ」
「……そうだけど」
急な話題に怪訝な顔をする明日香。
「それがどうかした?」
「別に。ただリストに載る気がしてさ」
事も無げに言う彼に、彼女はぴたりと足を止める。
氷のように冷たい風が二人の距離を通り抜けていった。
「友達だよね。何か知ってる?」
十夜の問いに首を左右に振る。
決定的な証拠があるのか、それともただの当てずっぽうなのか。どちらにせよ明日香にとって悪い状況だった。
「そう。でも今ならまだ間に合うかもね」
彼特有の含み笑いに明日香の表情が一気に険しくなる。
「知ってて聞いてるんだ」
十夜は肩をすくめて笑う。
「僕がそういう性格ってわかってるでしょ?」
「悪趣味」
「何とでも。……どうするかは、桐原次第だよ」
先に行ってしまう自分より大きな背中を見つめ、ぐっと拳を握り締めた。
「桐原さん?」
「そんなところで何してたの」
新井鈴香だった。彼女が後部座席に座る黒い車は鈍く輝きを放っている。
歩道にいる明日香の脇に停車した黒い塊が口を開ける。
「これから仕事でしょう? 乗って。事務所の前まで送るわ」
十夜と同じ道を歩きたくなかった明日香は軽く頭を下げてから乗車した。
走り出してすぐに新井鈴香が口を開く。
「あたし達、嫌な仕事仲間よね」
嘲るように彼女は唇を歪める。
運転手がバックミラー越しに二人の姿を見ていた。
「知ってる? この空の下で今も人が死んでるの。医者が必死に助けてる患者の倍近くが、生きることをやめようとしてる」
「たまに思うんです」
しばしの沈黙の後、明日香がぽつりと呟く。
「こんなどす黒い世界、消えればいいって」
「……思うことは結局、皆同じなのかもしれないわねぇ」
車で流れる景色を眺める明日香は、何も言わなかった。
「ずいぶん大人びた子ですね」
事務所に下ろして再度走り出す車内で、低い声が紡いだ。先程まで無言を貫いていた運転手だ。
「あの子はもう充分大人よ」
広い後部座席で新井鈴香は足を組み替える。
「でもまだ大人になりきれてない」
運転手にはせせら笑う彼女の真意が読み取れなかった。
「また仕事が入った」
事務的な上司の声に、気乗りしない明日香が言葉をかぶせる。
「今回のクライアントは?」
「吉沢佐和子、六十五歳の女性。現在は老人ホームで生活してる。噂で聞いたのを老人ホームの所長に頼み込んだらしい」
慣れた手つきでネクタイを緩め、書類を自らの机に放り散らす葵。
そこまで歩み寄り書類に目を通す。決行は一週間後だった。
「その所長は、クレセントを知ってたんですか?」
「いや。言われてから調べたらしい」
「じゃあ政府に」
「深く立ち入る気はないらしい。大丈夫だ」
明日香が不安げに見えたらしい。力強く彼は頷いた。
「それに、老人ホームも今は人員削減を目指してるところが多いからな。丁度いいとでも思ったんだろう」
追い出す必要のあった人間が一人減ったということか。
顔を曇らせた明日香は何も言わない。
「無理なら代わりに俺がやる」
「出来ます、問題ありません」
「そう。じゃ静谷にも知らせてやって」
「……わかりました」
ブラックルームに移動しようとドアを開けると何かに阻まれた。
「次は老婆か」
考え込む動作をする十夜の手だ。
後方に座る葵はそれにまったく気付かず呑気に歌を口ずさんでいた。
「立ち聞き?」
開閉しようとドアに力を入れるが微動だにしない。明日香と十夜の力は歴然の差だった。
嫌味っぽく尋ねる明日香に彼が笑う。
「偶然ね。蓮見さんのこと、決めた?」
「……あんたに関係ないでしょ」
それがほんの一時間前の出来事。
「明日香?」
「え、あ……」
「考え事でもしてた?」
「ごめん」
「いいよいいよ。それで、何の相談?」
ファーストフード店で向かいあって二人座る。美穂はストローをいじりながら明日香に聞いた。
「美穂さ、クレセントを調べてるって言ってたじゃない?」
「うん、でもほぼ謎。パソコンでサイトまで見つけたんだけどパスワードがいるみたいでさ。概要が全然見えないの」
お手上げと言わんばかりにテーブルに突っ伏す美穂。
「私も、色々調べた」
「え?」
意外な言葉に美穂がぱっと明日香へ視線を戻す。
「あんまり良い話は聞かない。……詳しく調べたら駄目だと思う」
そこまで言って明日香は顔を伏せた。
「嬉しい」
「え?」
今度は明日香が目を丸くする番だった。
照れながらも満面の笑みを見せる美穂は続ける。
「心配してくれてるんでしょ? ありがとう!」
しかし美穂はふっと笑顔に影を落とした。
「でもごめん。調査はやめられない」
「どうして?」
「諦めたら真実がうやむやになっちゃうから」
「……そう」
真直ぐな瞳に明日香は情けない相槌を打つしか出来なかった。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
「うん」
姿が見えなくなったのを確認してからテーブルに顔を沈める。
脇にずらしておいたオレンジジュースの氷が涼しげに鳴いた。
「……第一段階は失敗か」
明日香はすでに次の策を練り始めていた。嫌いになれないただ一人の友人を、クレセントから遠ざけるために。