公園にふたり、影ひとつ
木谷くんと私は、たいてい一緒に下校する。
それは帰る家の方向が同じだからということもあるけど、学校にいる間はあんまり話せないからでもあった。
クラスの子たちも最近はなんとなく察しはじめているみたいで、
「仲いいの?」
「前から一緒にいたっけ?」
などと聞かれることがぽつぽつ増えた。
そういう質問に悪気がないのはわかるけど、冷やかされたりからかわれたりするのはやっぱりちょっと、得意じゃない。
木谷くんとふたりでいる時が、最近は一番ほっとできた。
だから私たちは一緒に帰る。ちょっとの間でも話ができるよう、帰り道は一緒に歩く。どちらかが遅くなることがあれば、できるだけ相手を待つようにしていた。
「俺、今日、日直だから」
黒板消しを手にした木谷くんの言葉に、私は小さくうなづいた。
それで彼は控えめに笑って、声を落として付け加える。
「すぐ行くから、待ってて」
放課後のざわめきに吸い込まれそうな声を拾って、もう一度私は顎を引く。
そしてみんなの目を気にしながらも、木谷くんにちょっとだけ手を振って、教室を出る。黒板の一番上まで楽に届く木谷くんの姿を、目の端でだけ確かめた。
どちらかが遅くなる時は、いつも学校近くの公園で待ち合わせていた。
それほど大きくない児童公園は、私たちの下校時刻にはひと気がなくて、静かでとても居心地がよかった。私ひとりの時は、ベンチに座って本を読んだり、ぼんやりしているだけで十分に時間を潰せた。遮るもののない夕暮れの陽射しが暖かくて、木枯らしの冷たさもそれほど気にならない。
陽が落ちるのが早い季節で、公園はいつもよりも濃いオレンジ色をしていた。今日もやっぱり人の気配はなく、ブランコも滑り台もベンチも全部、両手を広げて私を待っている。
私はいつものように公園に踏み入って、ベンチへと足を運び――かけて、ふと、足元に視線を落とす。
乾いた地面に影が伸びていた。
ちびの私の、長い影。
それは本当にびっくりするほど長くて、私の足元から目の前にあるベンチの背凭れまでくにゃくにゃしながら架かっていた。
変なの。
思わず、ちょっと笑った。クラスで一番小さい私が、こんなに長い影を持っているだなんて、不思議だ。
誰も見てないのをいいことに、少し後戻りしてみる。乾いた地面を後ずさると、濃い色をした影は黙って私の動きについてくる。するするとベンチから下り、地面へと落ちる。
真っすぐ伸びた影は長く、まるで背高のっぽに見えた。背丈だけじゃない、手の指も、腕も、提げた鞄もみんな長い。無理やりに伸されてしまったみたいに長い。
こんなに背が高くなったら、どうなるだろう。
もう整列の時に一番前に立たされることもなくなる。クラスの子たちから見下ろされていたのが、今度は見上げられるようになるんだろうか。
木谷くんもきっとびっくりする。この影なら、木谷くんよりも背が高いかもしれない。見下ろしてみる木谷くんの顔は、どんなふうに見えるんだろう。
このくらいじゃなくてもいいから、背が高くなりたいな。
高い方がいいこともいっぱいあるし、何より木谷くんの隣にいるのにぴったりだと思う。ちびの私だと木谷くんは話し掛けづらそうだ。そんなふうに言われたことは一度もないけど、やっぱり木谷くんも、私がもうちょっと背が伸びたらいいって思ってたりするんじゃないかな。その方が、並んで歩く時に格好よく見えるから。
だからこのくらい、この長い長い影くらいじゃなくてもいいから、もうちょっとだけ背が高くなれたらいいのにな。
本当にちょっとだけでいい。木谷くんが私に話し掛けやすそうな、私が木谷くんをぐんと見上げなくても済むような背丈になれたら、私たちはもうちょっとたくさん話ができるかもしれない。
その他にももっと、いろんなことが変わるかもしれない。
乾いた地面に伸びる影は、私の身体と同じように動く。
私の思ったとおりに動くのに、私自身にはならない。こんなふうに背が高くなったりしない。私はちびのままで、影だけが背高だ。いいなあ。
思わずもう一度笑ってしまった、その時だった。
私の影の隣に、別の影が伸びてきた。ゆっくりと近づいてきて、頭の高さが並ぶ。頭の高さは並んだのに、手も足も、私よりずっと長い。背高のっぽになったはずの私の影よりも、ずっと背が高い影。
振り返ると、公園の入り口から木谷くんがこっちを見ていた。オレンジ色の夕陽の中で、彼は静かに告げてくる。
「遅くなってごめん」
「ううん」
私はかぶりを振ってから、木谷くんの足元に目をやった。
やっぱり、木谷くんの影は長い。私よりずっと背が高くて、大きくて、私の後ろに立っていてもあのベンチまで届いてしまう。
ちびの私の影がどんなに長く長く伸びても、木谷くんの影には敵わない。木谷くんの背の高さを、私がどうしたって追い越せないように。
「寒くなかった?」
木谷くんが私に近づく。
傍まで来ると身を屈め、私の顔を覗き込もうとする。
影がくっつきそうな距離に、どきっとした。
「頬っぺた、真っ赤だ」
そう言った木谷くんは、優しい顔で笑った。でも窮屈そうな姿勢に見えた。
こんなに近くで顔を見られるのは慣れてない。木枯らしに真っ赤になってるらしい頬を見られるのも、すごく恥ずかしかった。
「平気だよ」
慌てて私は答えた。それから目を逸らしたくなって、地面へと視線を向ける。
公園の乾いた土にふたりぶんの影。私の影は、木谷くんよりも小さい。こうして隣同士でいるとよくわかる。
思わず、呟いた。
「やっぱり、木谷くんは影が長いね」
「え?」
木谷くんの影が少し動いた。同じように地面の影を見たみたいだ。
「いいなあ、背が高くて」
私が言うと、木谷くんはいつも決まった言葉を答える。
「背が高くて得することなんて、あまりないよ」
確かに苦労することも多いんだって、前に言っていた。私がちびで困ったことがあるのと同じくらい、背が高いと困ってしまうこともいくつかあるのかもしれない。
でも私、背が高くなりたかった。
「私が小さいから、木谷くんが大変そうかなって思って」
ぐんと首を伸ばして、見上げてみる。
隣で影を眺めていた木谷くんの横顔は、夕陽の色をしている。その顔がこっちを向く時、少し窮屈そうにしてみせる。
「私がもうちょっと背が伸びたら、木谷くんも屈まなくてすむよ」
さっき、私の顔を覗き込もうとした時みたいに。
あんなふうに不意打ちで屈まれるとどきどきする。でも背丈がこんなにも離れてなかったら、相手の顔を覗き込むなんて造作もないことなんだろうし、すぐに慣れてしまうと思う。顔が近づいたくらいで驚くのは、私たちの顔が近づくことが滅多にないからだ。
「別に、大変じゃない」
木谷くんはすぐに言った。
距離が近づいても動じることなく、極めて冷静な眼差しをしている。
「私の背がもうちょっと高かったらって、思うことない?」
恐る恐る聞いてみると、ほんの少し笑われた。
「ない」
「そう……なんだ」
間近で見る木谷くんの笑顔に心臓が速くなる。
「でも、木谷くん、何だか窮屈そうだから」
私の高さに合わせるのって木谷くんは大変なことだと思う。
だけど私がそう言ったのは、別の理由からでもあった。
近づかれると、どきどきする。
いつもは一緒にいるとほっとする木谷くんが、こうして顔を覗き込まれただけで落ち着かない、上手く話せない相手に変わる。
たぶんこれも、私の背が低いからだ。
こんなふうに傍まで近づけることが、本当に珍しいからだ。
「窮屈じゃない。好きでやってることだから、いいんだ」
ほとんど吐息のような微かな声で、木谷くんは言った。
その時、彼の眼差しが珍しく泳ぐように揺れた。
「並川さんの顔、近くで見たい。そういう時だってこうして、俺が屈めばいい話だから」
「え……」
私は言葉が出なくなる。
だって、そんなふうに言われたことなんて今までなかった。おでこがくっつきそうなくらいに近づかれたこともなかった。木谷くんの傍にいて、こんなにもどきどきして、逃げ出したくなることも――ううん、こんなことが前にもあった。
一番最初に私の気持ちを伝えた時。
私が木谷くんを、好きだと言ってしまった時。
木谷くんを困らせてしまったから、私は逃げ出したくなる衝動を必死で抑え込んで、本当の気持ちを伝えたんだ。
いつの間にか木谷くんは、一緒にいてほっとできる人になっていた。でもこうして近づかれるだけで、またあの時のどきどきが戻ってくる。忘れていたつもりでもちっとも忘れられていなかった、逃げたくなる思い。
逃げるわけにいかないのは、今だって同じだ。
だって、好きな人だから。困らせたくないから。
でも、どうしてこんなに近づいてくるんだろう。
窮屈そうにしながら、木谷くんの顔しか見えないほどの距離にまで――。
「並川さん、あの……」
木谷くんがふと、ためらった。
彼の足元から伸びる長い影は、私の影と重なっている。ひとつにくっついて、ベンチまで届いている。小さな私の影は、まるで木谷くんの影に包み込まれてしまったみたいだ。
私は木谷くんに視線を戻して、彼がゆっくりと呼吸をするのを見た。
「目を、閉じてて欲しいんだ」
その瞬間、ようやくわかった。
逃げたい衝動はまだあった。足が竦んでいた。きっと木谷くんの影の中、私の影は少し、震えていたと思う。
だけど木谷くんが近づいてきてくれたんだから、次は私が勇気を振り絞る番だ。
震えながらも、何秒も時間をかけながらも、言われたとおりに目を閉じた。
最後に見えたのは薄く開いた、少しかさついた木谷くんの唇だった。
木谷くんの手が、私の肩にそっと置かれて、それからしばらく間があった。
その間もずっと、私は目を閉じたままでいた。何も見えない世界で心臓がどきどきとうるさかったけど、木谷くんの手に支えてもらって、どうにか倒れずに済んだ。
かさかさした部分が触れてきた時、肩がひとりでにびくりとした。
唇がふさがれたのは一瞬だけで、温いとも冷たいとも言えない、だけど柔らかい感触はすぐに離れた。
長く溜息をつくのが聞こえてきて、ようやく、こわごわ目を開ける。
目映い夕陽の中で、木谷くんは珍しくあわてたように言った。
「だから、背丈なんて気にしなくても」
不自然に途切れた言葉の後で、また息をつき、それから私の手を取る。
いつもよりも唐突に、だけど温かい手で握る。
「……帰ろう」
その言葉の後で、背の高い影が歩き出した。どんなに長く伸びても小さなままの影は、手を引かれて、後をついていく。
しっかりと手を繋ぐ影に寄り添われて、私たちは公園を出る。外も木枯らしが吹いていたけど、寒いどころか熱いくらいだった。
私は木谷くんの背中と、後ろに伸ばされた手を見ながら、ずっと忘れかけていた呼吸を思い出す。
逃げなくてよかった。ちゃんとわかった。私、木谷くんの気持ちがわかったから。
――小さいままの私でもいいって、思ってくれてるんだ。
そのことが何より、一番うれしかった。