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視線を結んで

 日曜日が来ると、私は再び木谷くんの部屋へとお邪魔することになった。

 借りたCDと、今朝焼いたばかりのプリンを持って出かけた。朝早くに起きてお菓子作りをする私に、お母さんはちょっと不思議そうな顔をしていたけど、友達の家にお邪魔するからと言って、何とか誤魔化した。

 この間と同じ場所で待ち合わせをしていた。木谷くんは今度は、道を間違えなかった。私も道順を覚えようと頑張ってみた。次は一人でも来られるかもしれない――もちろん、木谷くんがおうちにいる時じゃないと、意味ないけど。

 

 木谷くんのおうちには、今日も木谷くんしかいなかった。そういうところもこの間と同じだった。

 静かな部屋に案内してくれた彼が、ためらいがちに笑ってみせる。

「来てくれてよかった」

 その時の声がどことなく力ないものに聞こえて、怪訝に思う。今日の木谷くんは元気がないみたいだ。笑う表情もほんの少し弱々しく見える。

 私をちらとだけ見て、すぐに視線を外して、それから木谷くんは呟いた。

「もしかしたら、来てくれないかと思ってたから」

 らしくない気弱な言い方。

 はっとして、私は言葉を返す。

「どうして? 約束したのに、来ないはずないよ」

「約束も、無理にさせちゃったんじゃないかって、心配だった」

 だけど木谷くんはそう呟いて、私よりも先に床へと座った。力の抜けたような座り方だった。待ち合わせ場所からこの部屋まで、そんなにたくさん歩いてないのに。

 約束させた、だなんて。そんな口ぶりもやっぱり木谷くんらしくない。この間からずっと様子が変だったけど、今日が一番変だった。

 それも私のせい、かな……。

 私は落ち着かない気持ちで、ぺたんと座り込んだ木谷くんを見下ろしていた。見下ろすのはもしかすると初めてかもしれない。不安そうな、寂しそうな顔が高い位置からでもうかがえる。背中も、手も足も私よりずっと大きいのに、こうして見ると奇妙なくらいに小さく映った。大きいはずなのに、小さく見えてしまう、木谷くん。


 しんと、音のしない時間がしばらく続いた。私はプリンの入った紙袋を抱えたまま、掛ける言葉を探していた。

 もし私のせいなら、謝りたいと思った。ごめんね、木谷くん。ずっと不安にさせたままで、本当にごめんなさい。そう告げるのはそんなに難しいことじゃない。

 でも違うような気がする。木谷くんを安心させてあげられるのは、不安がらせずに済むのはもっと違う言葉だ。きっとそう。今の私には『ごめんなさい』よりももっとハードルが高くて、容易く口に出来ないような言葉。その言葉を告げられない限りは、木谷くんはいつまで経っても不安なままなのかもしれない。

 好きって、たった一言。口にするのがどうして難しいんだろう。

 不安がらせているのが私なら、安心させてあげられるのも私だけ、なのに。


「――あ、ごめん」

 ふと、木谷くんが顔を上げた。

 いつもと違う形で目が合う。見上げる木谷くん、見下ろす私。とっさに視線は逸らせずに、ゆっくりと結ばれる。

 木谷くんは一瞬、驚いたように目を瞠った。その後で軽く笑って、床を示した。

「座って、並川さん」

「ありがとう」

 私は紙袋を揺らさないように、慎重に腰を下ろす。座ってしまうと、たちまち視線はいつもの差に落ち着いた。

「お客さんを立たせたままじゃ、悪いから」

 木谷くんは言うと、済まなそうに眉尻を下げた。

「もっとも、お客さんをもてなすようなものは何もないんだけど……麦茶でいいかな」

「あ、えっと、お構いなく」

 すかさず、私は抱えてきた紙袋を差し出した。この間は何も持って来れなかったから、今日こそはと思って用意してきたんだ。お土産。

「これ、よかったら食べて」

 紙袋を見て、木谷くんは目をぱちぱち瞬かせた。

「これ?」

「うん。プリンって平気?」

「好きだよ」

 木谷くんはさらりと言ったけど、私はちょっとどきっとした。――プリンの話なのに。

 動揺したのがばれないように、素早く言葉を継ぐ。

「ええとね、今日、作ったの。私が」

「並川さんが? へえ……」

「あんまり見映えはよくないけど、味見してきたから、大丈夫だと思う」

 大丈夫って言い方も変かな。まだどぎまぎしながら、私は木谷くんに紙袋を手渡した。

 受け取ってすぐに、木谷くんは紙袋を開いた。大きな手が、白い陶器を掴んで取り出す。木谷くんの手が持つと、プリンの器も小さく見えた。

 カラメルが部屋の中で香った。

「美味そう」

 一言、そう呟いてもらえて、ほっとする。あんまりきれいには出来なかったんだけど、美味しそうに仕上がっていたならうれしい。もちろん木谷くんの口に合えばもっとうれしい。

「並川さんってお菓子作りとか、するんだ」

「するって言うか……あの、たまになんだけど」

 私が答えると、木谷くんが笑った。

「偉いな」

「そ、そんなことないよ。自分で食べたくなった時だけだもん」

 本当に気の向いた時だけ。家族の為に作ったりとか、それこそ友達の家にお邪魔する時に作っていくなら偉いって言ってもらってもいいかもしれないけど……誉められるほどのものじゃない。

「偉いよ」

 重ねて木谷くんは言ってくれた。

「それに、優しいよな」

 告げられた言葉に、かえって気後れがした。優しい? 私が?

「……そうかな」

 ためらいながらも尋ね返す。私、優しく出来てるかな。そんな気はちっともしないのに。今日だって木谷くんの為に出来たことと言えば、プリンを作ってきただけなのに。

「並川さんは、すごく優しいと思う」

 息をするような自然さで、木谷くんはそう言った。


 そう言ってくれた、木谷くんの方が優しい気がした。言葉も、口元に浮かんだ微かな笑みも、私へと向けてくれている眼差しも。今、お互いに結んでいる視線も。この部屋の中で、カラメルの香りと一緒に漂っている空気も、静けさも。

 私は声を出せずに、目の前の笑顔を見つめている。いつもの差を意識しながら、視線を結び続けている。

 木谷くんは優しい。でも、私はそのことを、上手く言葉に出来ない。木谷くんが言ってくれたように自然には言えないと思う。緊張してばかりの声じゃ恥ずかしい。つっかえて、引き攣ったようになってしまったら、恥ずかしくて逃げ出したくなってしまう。

 でも、少し前まではこうして見つめ合っているのも恥ずかしかったんだ。……今でもちょっと、恥ずかしい。頬が熱くて、喉が渇いていた。何も声を立てられないくらい。だけど、視線を外さない。逸らさない。そうしてしまったら、木谷くんを不安がらせてしまうってわかっているから。木谷くんのことを、ちゃんと見つめていたいから。


 いつの間にかお互い、黙り込んでしまっていた。

 視線だけは確かに結んだまま、静かな部屋の中で向き合っていた。


「これ、いただいてもいい?」

 不意に木谷くんが、小さな声で沈黙を破った。

 声の出し方を忘れてしまっていた私は、とりあえずぎくしゃくと頷く。それで木谷くんは、空っぽになっているはずの紙袋を覗いて、直後に言ってきた。

「じゃあ、スプーン取ってくる」

 あ。そうだ、私、スプーンを忘れてきちゃった。プリンを作ってきたのはいいけど、一体何で食べる気だったんだろう。恥ずかしい。

「ごめんね、忘れてた」

「並川さんが謝ることじゃない」

 木谷くんが言ってくれた。優しい。

 うれしいような、でもやっぱり恥ずかしいような気持ちで私が俯きかけた時、膝の上に置いていた手に、大きな手が重なった。

 驚く間もなく、握られる。

 もう一度顔を上げれば、木谷くんは困ったような顔をしていた。目が合った。

「その、……一緒に、来てくれないかな」

 遠慮がちな申し出を、私は戸惑いの中で聞く。続く言葉はさっきよりも更に微かで、かすれていて、静かな室内でも拾うのがやっとだった。

「離れていたくないんだ」


 今日の木谷くんは元気がないみたいだ。どことなく、寂しそうだった。

 私は何だか胸が痛くなって、手を引かれるまま木谷くんの部屋を出た。木谷くんの為に出来ることを、臆病な心で考えながら。

 ――これ以上、不安にさせたくなかった。

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