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エンキリさん

作者: 玉城霞

エンキリさん。

いちゃついているカップルの前に突然現れて、その名の通り縁を切るからエンキリさん。

なるほど、いかにも中学生が付けたらしい、単純で簡潔な通り名だと思う。

なんでもそいつに出くわしたカップルは、百発百中別れたのだという。

エンキリさんは、街中でたまに見かける風呂もろくすっぽ入っていないような、勤めに出ている様子もない汚いおじさん、つまりはホームレスの中の一人らしい。

年の頃は四十代後半、いつも薄汚れた緑色のジャンパーを着ているという。

ここまでならなんてことない住所不定無職の流浪人なのだが、エンキリさんの特徴は異様な眼力。その眼に見入られた者は、束の間一言半句も言葉を発すことができなくなる。

蛇に睨まれた蛙しかり、しばらくは身動きも取れなくなるそうだ。濁った水晶体が限界まで見開かれ、黒の虹彩が瞼の一番上にぴったり張り付くらしい。

「おれも見たけどよぉ、あれは人間の眼じゃなかった。獣でもあんなにギラギラしてねえって。目で殺される、っていうの? 力の込めようがすごくてさ、もう少しで眼球が出そうだった。」

そう語る友人、翔斗はつい先日エンキリさんの呪いにかかって彼女と別れたばかりなのだった。そもそもその彼女との馴れ初めが廊下でたまたますれ違って、なし崩し的に仲良くなった、というだけなので、俺はそんなカップルすぐに別れて当然だと思うのだが。

翔斗たちだけじゃない。中学生で付き合ってる奴らなんて、呪いなんかなくても「飽きた」とかくだらない理由ですぐ別れるのが普通だ。エンキリさんの容貌からしても、ただの偶然だろう。

「お前も気を付けろよ。北村さんとのこと。」

俺は翔斗の忠告を話し半分に聞き流した。そして彼女との待ち合わせ場所にいくために教室を立ち去った。そんな噂に振り回されているようじゃ、本当に好きだなんて言えないと思った。エンキリさんの被害に遭ったのは、所詮ノリか勢いで付き合っていた輩だ。俺はそんな奴らとは違う。絶対に本気であいつのことが好きだ。あいつも俺のことが好きだ。まだ若いとか安っぽいとか、言いたいやつには言わせておけばいい。年齢や付き合っている年数なんて関係ない。大事なのは気持ちの強さだ。それこそエンキリさんに屈しないくらいの。

俺はそういう心で優実と接している自信がある。他の軽くて頭の弱い奴らと一緒にして欲しくなかった。


優実とは一年のとき同じクラスだった。

北村優実という名前も、例えば「田中花子」みたいに平凡すぎて逆に浮くこともなかったし、奇天烈なこともなかったので、特に変わっていない、普通の名前だ。

顔立ちはのっぺりした弥生人顔で、目が細かったがとりたてて細すぎることもなく、鼻が少々高かった気もするが目立つほど高いわけでもなく、美人か? と言われれば答えに詰まり、かといってブスか? といっても失礼な気がする、という要するに普通の顔だ。間違っても一目ぼれ、なんてあり得ないと思う。現に俺も初めて会ったときは何とも思わなかったのだから。

しかし一緒にいればいるほど、愛着が湧いて可愛く見えてくるのが不思議だ。


「ねえ神埼くん、この間の武将の話、また聞かせてよ。」

隣を歩いている優実が、珍しく俺に話しかけた。川のほうから吹いて来た冷たい風が彼女のさらりとしたボブヘアを撫で上げた。十一月の河川敷はやはり少し冷える。

だけど、優実と俺はいつも一緒に帰る。クラスメートに見られるのは恥ずかしいから、学校から少し離れた川のそばで待ち合わせをして。二人とも、徒歩で家と学校が近いからこそできることだ。

優実はいつだって俺のくだらない話を相づちを打ちながら聞いてくれる。ただの友達や家族には笑われてしまいそうな未来予想図や、大概の女の子は興味がない戦国時代の話。

彼女から話を振ることはめったにないけれど、俺が話していることを笑顔で、しかも興味深そうに頷きながら聞いてもらえるのは気分が良かった。

わずか十分足らずのこの時間が、一日のうちで一番輝いている。しかも今日は、母親が用事で遅く帰るというのだからゆっくりできる。

「武将たちが領地より欲しがったのが茶器だって話は昨日したよな? 室町幕府が崩壊した時、歴代将軍が集めていた名物茶器を織田信長が無理やり奪って、天下の名物茶器のほとんどが信長のものになってしまった時期があったんだ。それが名物茶道具狩り。で、信長は家臣たちにそれを分け与えて……。」

優実はときどき驚いたように目を見開いて、へぇ、なるほど、と呟く。俺はまたその声が聞きたくて、ますます熱く話つづけてしまう。それを繰り返しているうちに、気が付くと家についているのだった。さすがに親に見られるわけにはいかないから、渋々俺達はそこで別れる。いつもあっと言う間に過ぎてしまう時間だ。

思えば優実のことが気になり出したのは、中学生女子が普通は読まないようなマニアックな歴史書を彼女が休み時間に読んでいたからだった。そのときは「へぇ、気が合いそうだな。」くらいな感情だったが、彼女の口からポロッと日本史の知識が出てきたり、社会の時間にふとしたことで波長があったりして、そんなことが幾度も重なって、いつの間にか気になる存在になっていた。


けれど決定打は、偶然見かけた、彼女のあの誠実な姿だ。

その日がいつかは忘れたけれど、確かに雨の日だった。

うちの学校は築数十年も後半のオンボロで、ろくに修繕もしていないためにあちこちで雨漏りがしていた。だからその下にはその場しのぎのバケツが置かれていたのだが、好んで換える者もおらず、いつも満杯だった。

彼女は放課後、誰もいない教室でそんなバケツの全てを換えて回っていた。誰からも言われず、誰からも見られていないのに。ただ黙々と、中の汚い水を流してすすぎ、また元あった場所に戻す、ということを繰り返していた。

しばらく見ていると、彼女はやがて視線に気づき、俺のほうを向いた。当然俺と目が合った。少しの間戸惑っていたようだったが、優実は口を開くと、「誰にも言わないで。」と言った。

「いい子ぶってるとか思われるの、嫌なの。」

彼女は照れくさそうに視線をそらしながら呟いた。

その瞬間俺は、恋に落ちた。


こんな関係の築き方をした俺達なら、きっとエンキリさんに会っても負けない。絶対にだ。そんな呪い、弾き飛ばしてやる。他の軽々しいカップルなんかじゃないんだ、俺たちは。実際はエンキリさんのことなんて取るに足らない噂話だろうが、今まさに優実と一緒に歩いていると、翔斗から聞いた話が脳内をちらついて仕方がなかった。全く厄介な感情だ。失うのが怖いなんて。


「……ねえ、神埼くん……。」

彼女はいきなり、俺の袖を引いた。嫌な予感が胸にせり上がった。すぐに立ち止まって、彼女に向けていた視線を前に移す。瞬間、古びた緑色の上着が目に入った。眼前に立っているのは、日に焼けて顔にシミが増殖している中年の男だった。

……奴だ、エンキリさん。

さっきから吹きつけている冷たい風に乗って、汗と古い脂の入り混じった臭いが漂ってくる。男の目は北風にも負けず、カッと見開かれて俺達を射抜いていた。

噂に違わぬ、異常な眼力だった。無造作に生えた眉毛が眉間にぐっと落ち込み、黄ばんだ白目が剝かれていた。俺達をその場に縫い付けるような、少しでも身じろぎしたら殺すぞというような絶対的な威力だった。

俺は動こうとしたが、金縛りにでもかかったように身体が言うことを聞かなかった。

仕方がなかったので、俺は、エンキリさんを睨み返した。

鋭く、突き刺すような視線で。絶対に俺の気持ちも、二人の想いも変わらないという強い意思表示を込めて。

……しばらく経った後、エンキリさんのほうから視線を逸らした。

その瞬間金縛りも解け、俺は優実の手を掴むと走り出した。一刻も早く逃げなきゃいけない。優実を、恐ろしい目に遭わせているのが堪えられなかった。


「……怖かったね、あの人、ホームレス……なのかな。」

優実はどうやらエンキリさんの噂を知らないようだった。わざわざ知らせる必要もないと思ったので、俺も黙っていた。そしてただ、行くよ、とだけ囁いて、以前からの日課のように彼女の手を取った。初めての出来事に優実はたちまち頬を赤くした。


――エンキリさんの噂は本当だった。

それに気づいたのは、数か月後のことである。

親が留守だから家に遊びに来ないかと優実に誘われて、まだ早いよなあとかまあ何もしないし、とか色々と不健全な考えを巡らせた結果、俺は彼女の自宅に行くことにしたときのことだった。

歓迎されて、最初のうちはごく和やかに会話が弾んでいたのだが、彼女がトイレに立った途端、ふと興味が湧いて、自室に取り付けられていた本棚を覗いてしまった。これが終了への予鈴だった。

後のことは思い出したくない記憶というか、優実に抱いていた幻想が崩れた瞬間なのだが、そこにあった女の子らしい雑誌の特集には、異性にモテるコツとして、話を興味深そうに聞くことや意中の男子の趣味をよく知ることなどが例として挙げられていた。おまけに、ご丁寧にも「誰も目につかない所で頑張っていると、男子はときめく。」という俺にピンポイントで的中することも。

優実がやっていたことは本心からではなく、話し方教室で習うような、相手に好印象を与える姿を見せていただけだったのだ。それに気が付いた俺は、自然と優実に対する気持ちが冷めていった。

結局は俺達も、翔斗たちのような軽々しいカップルと同じだったのだ。それに気が付いたときは相当なショックだったが、時間が経てばそれも癒えた。

俺の優実に対する気持ちは、その程度のものだったのだ。


今の俺は、母親が連れてくるという新しい父親を、期待と不安を抱きながら待っている。

俺の実の父親とは性格の不一致で別れたらしい。俺が物心ついたときにはもういなかった。

今回の相手がどんな人かは分からないが、俺の父親になるのだから良い人物であって欲しい。

ガチャッ

いきなり玄関のドアが開いた。母親が新しい父親を連れて入って来た。

一体どんな人なのか、緊張が走る。



――母親と一緒に入って来た男性の、羽織っているジャンパーの緑を見た瞬間、俺は思わず叫んだ。

「……エンキリさん!!!」

どうやら俺は母親に似たらしい。















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― 新着の感想 ―
[良い点] エンキリさんがオチになっているところには笑った。 [気になる点] エンキリさん、別に縁切りに関わってない……。 [一言] 良くも悪くも、エンキリさんの使い方には関心を引かれた。
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