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リリアナ・クルス

 


 わたしの母様の話をしようと思う

 使用人達から聞かされる昔の母様は、純真無垢で清らかで慈悲深い、まるで聖母のような人。我が家に仕える使用人は、殆どが母様に拾われて教養を身につけられたのだとそれはそれは誇らしげに語るのだ

 母様が幼い頃から見守り続けた使用人が言うには、幼い頃の母様は、お転婆だったとのことである。いつも笑っていて、絵を描く為、と木に登ってスケッチをしたり、かと思えば村の子ども達に混ざって鬼ごっこをしていたり、使用人達は肝を冷やしたことが沢山あったらしい。けれど、それを語る彼の顔は、いつも笑顔で、嬉しそうで、過去を懐かしみ、慈しんでいて。きっと、愛というものはこういうものなのだろうと思った

 使用人や商人への感謝の心を忘れず、道端に咲く花や空の色に心を震わせ、小鳥や迷い込んだ動物に挨拶をし、街の人々の近況に一喜一憂し、手の届く範囲の人全てを救おうとせずにはいられないお人好し。そんな母様が変わってしまわれたのは、わたしを身籠っていた頃だという

 政略結婚ではあったけれど、母様は父様を愛していた。けれど父様はあまり母様を愛しておらず、あまり家に寄り付かない人だったという。外に妾がいるのだという噂もあった

 それでも母様は、父様の事も、情婦の事も、憎く思う事も、探し出そうとすることもしなかったという。そんな事をしても誰も幸せになれないことを、彼女は知っていたのだろう

 毎日、帰っても来ない父様の分まで食事を用意し、ベッドを整え、部屋の掃除も、母様が買って出ていたらしい


「きっと帰ってらっしゃらないことはわかっているの

 それでも部屋を綺麗にして待っていたいのは私の我がまだから。それにみんなを付き合わせるなんてできないわ」


 そう言って微笑む母様を見る度に、その場にいない父様に歯痒さを感じたものだと、使用人達は笑うけれど、きっと当時の心境はそんなものじゃなかったことだろう

 そんな父様が、ある頃から家に帰ってくるようになる。何事もなかったかのように帰宅し、何事もなかったかのように母様を愛した。母様も何事もなまったかのように父様を愛し、献身的に尽くす日々が続いたと言う。そして、母様はわたしを授かることとなる

 わたしを身篭ってからの母様の生活は、地獄そのものだったらしい。3ヵ月で医者に宣告され、5ヶ月の頃には、体の変化についていけずに、部屋にいることが多くなった

 その間父様は、家には居たけれど母様を労る事はせず、昼間は仕事や妾のところの足を運び、夜になると母様の部屋にほんの数分滞在して自室に帰り、眠る

 そして、わたしを身篭って7ヶ月、2月の寒い日の事。父様はは再び帰って来なくなる。妾の子である、ソフィアが産まれたのだ。母様は、既にベッドから動くことも殆ど出来ず、ベッドの中で父様にその話を聞かされた──身重で苦しんでいる中、情婦に子供が出来たから、と捨てられたのだ

 母様はその日から、お腹の中の子どもを大事にすることをやめ、食事も摂らなくなり、部屋に誰も入れたがらなくなってしまう。結局母様を慕う使用人や医者のお陰で、わたしは産まれる事となったのだけど

 3月27日。春の日差しの麗らかな、よく晴れた日のことだった…………本来よりも4ヶ月も早く生まれたばっかりに小さく生まれてきてしまったわたしを見ても、産声を聞いても、眉一つ動かさなかったという。ただ、目を開いたわたしの、父様の色を譲り受けたわたしの瞳を見て、たった一言だけ


「あの人の色ね…………」


 と、小さく呟いたそうだ


 母様はわたしに興味を抱かなかったけれど、本質が、使用人たちの語る、リリアナ・クルスのままだったのだろう。わたしの世話はしっかりしたし、泣いていれば出来うる限りを尽くして泣き止ませたり、同じ月齢のほかの子どもよりも小さいわたしを、よく病院に連れて行っていたらしい。それでもそこに愛はなく、わたしの記憶の中に、母様の笑顔は存在しない。わたしの知っている母様の笑顔は、肖像画や、古い写真だけ。父様に至っては、お顔すら直接見た事もなかった

 そして、わたしが14歳の誕生日迎えてすぐ、中等部3年生に上がる直前、母様は天国へと旅立って行った。早すぎる旅立ちだと屋敷中が暗い雰囲気に包まれ、使用人たちが涙にくれた。そんな使用人たちに、トドメを刺したのが父様である

 母様を火葬して埋葬し、母様との別れを終えて家に帰ると父様がいた。リビングで、待ちくたびれた様子で座っていたのだ。今更どの面下げて……というのが本音であったが、使用人たちは大慌てでお茶の準備をし始める。そんな使用人たちに父様がかけた言葉は、「当主を待たせるとは、教育のなっていない者は嫌だな」というものだった

 こちらから来て欲しいと言った時には拒否した挙句、火葬も終わったあとに予告なく現れ、ショックから立ち直っていない使用人達を働かせて罵倒するような男に、わたしの中の父親のイメージが崩れ落ちていくのを感じた。いい人だとか期待していた訳では無いけれど、最低限人としての配慮くらいできるのではないかと思っていた

 父様が使用人やわたしを集めてした話は、新しく妻を迎え入れるというものだった。母様が亡くなったばかりだとか、そもそもいきなり現れて何をだとか、言いたい事は山ほどあったけれど、誰もそれを言葉にすることはなかった

 家の中を徘徊して周り、母様の持ち物を勝手に処分していき、母様が大切に飾っていたアーデルハイド家の妻の証のネックレスを懐に入れた。きっと、新しい妻に渡すのだろう

 そして、わたしの首にかかって居た、アーデルハイド家の長女に贈られるペンダントも奪い取られた。ペンダントに手を伸ばす時の父様の顔を、わたしは一生忘れないだろう。軽蔑や憎しみの篭もったような、それでいて無関心さが窺える顔

 乱暴にペンダントを引っ張られて、無理やり取り上げられた


「これは長女が持つものであって、お前のものではない」


 酷く冷たいその声を聞いた時に初めて、自分に姉がいるのだと知ったのだ。そう、この時まで、父に愛人とその子どもがいる話は聞いていたけれど、まさかその子どもというのが、自分の産まれる1ヶ月前に生まれているとは思いもしなかったのだ

 そしてこの日の夜、父様が帰ったあとで、わたしは母様がわたしを生むまでの経緯を聞かされたのだった


 写真に写る母様は、いつだって楽しそうに笑っている。ドレスも顔も泥だらけにしている時もあれば、木の上でスカートをボロボロのしている時もある、降り積もる雪の上に転んでいる写真ですら、母様は笑顔を絶やさない

 母様の笑顔。使用人からも、村の人からも愛された母様の笑顔。

 わたしが産まれて来なければ、母様は今でも笑っていたのだろうか

 わたしを身篭らなければ、身重の時に見捨てられる事もなかっただろう。わたしさえいなければ、母様は他の、母様を大切にしてくれる人と幸せになれたのかもしれない

 わたしがいたから、母様は逃げられなかったし、みんなは母様を逃がすことが出来なかったのではないだろうか

 突如突き付けられた事実は、わたしにとって抱え続けるには重すぎて痛すぎるものだった

 鋭く突き刺すような痛みと、重たく溜まっていく罪悪感に似た何かが、胸を締め付ける

 わたしが母様から笑顔を奪い、命を奪った

 わたしがみんなから母様を奪った

 わたしは、どうすればいいのだろう・・・・・・


その日、夢を見た

どこまでも続く草原

見渡す限り草原と青空だけが続く場所

あたたかく居心地がいいのに、どこか不安になる程、何も無い場所

そんな場所で、わたしは歩いていた

周りには誰もおらず、ただ緑と青が支配する世界で、ひとりぼっち

どちらに進めばいいのかもわからない、方角も何もわからないその場所で、ただただ真っ直ぐに歩いていた

何かを探して、必死で足を進める・・・・・・その何かが、何なのかもわからないまま

しばらく歩き続けて、足を縺れさせて転んでしまう

その瞬間、絶望感に襲われた

誰もいない、何もない、景色が変わっているのかさえもわからない

ただただ不安で、どうしようもなく、涙が滲んだ

その時、遠くで声が聞こえた気がして、景色は一変する

顔を上げると、そこは見知ったお屋敷だった

幼い頃、何度も連れて行って貰ったお屋敷

そこで、わたしと同じくらいの年の頃の女の子が遊んでいた

地面に円を描き、その円の中を片足ずつ入れて飛び跳ねて遊んでいる

雨上がりの庭は、水を吸い、足場が良くない

飛び跳ねる度に泥がはね、水溜りに足を入れては靴を汚し、遂には泥で足を滑らせて転んでしまう

思わず飛び出して声を掛けると、わたしはその時初めて、その少女の姿をきちんと認識した

ふわふわと波打つホワイトアッシュの髪、幼さの残る顔立ち

鏡を見る度に視界に入る自分の容姿とそっくりだった

唯一相違点をあげるとするなら、空の色を写したようなブルートパーズの色の瞳・・・・・・

わたしは、この人を知っている


「母様・・・・・・?」


写真で見た、私を産むよりずっと前、父様に出会う前のリリアナ・クルスがそこにいた

彼女はわたしの顔を見て柔らかく微笑み、口を開いた


「エレノア、笑って?」


ああ、そうか、簡単な事だった

忘れていた・・・・・・ずっと前に決めたんだった・・・・・・

わたしが口角を上げて目を細めると、彼女は満足そうに頷いて、そして消えていった

眩い光に包まれて、目を閉じる

次に目を開いた時、わたしは自分の部屋で、ベッドに横たわっていた


「母様・・・・・・」


わたしはこの夢を、何度も何度も繰り返し見てきた

わたしが、忘れてしまう度に、夢に見て、思い出した

・・・・・・笑っていよう

母様と同じこの容姿で、笑ってしまえば瞳の色なんてわからない

母様と同じように笑ってさえいれば、そこに母様はいるのだから

わたしにできることなんて、それしかないのだから

だからわたしは、笑っている事を決めたんだった

・・・・・・もう二度と、忘れないようにしないと・・・・・・








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