第1章 〜生誕〜 第2話
「今の御婦人は・・・どこかで・・・いや、まあよい。ザヴェナ、中に入ろう」
ヨシュアに肩を叩かれ、ザヴェナはようやく頭を切り替えた。キリエが待っている。
ルツ家の3人は、正門扉前で待っていた教会の修道士に導かれ、静謐とする教会の敷地に足を踏み入れた。
「さ、ザヴェナ。自分の精霊名を覚えているかしら?」
正門から入ってすぐの場所にある外室の拝廊の一画で受付を済ませ(精霊名を含めた戸籍名を台帳に記載する。)、側壁に設置された聖水盤の水に二本の指をつけて、神と自らの守護精霊の名を唱えながら顔の前で月十字を切るのがカダルタ派の習わしである。
この拝廊から教会堂の中の様子を見て取ることはできない。拝廊と教会堂祭壇に続く身廊との境には大きな扉が設けられているためだ。
誰をも受け入れる教会の扉は、鎖錠されることは決してない。だが、今この時、この祝義が終わるまでに限っては誰も開くことは許されない。
ザヴェナは、拝廊内を見渡してその壁に掛けられた様々な盾を見た。一つ一つに異なる模様が描かれている。色鮮やかだが、薄暗い中ではどこか古めかしく見えた。
「母上。あの盾はなに?」
「あれは外の国の紋章盾よ。この場にお越しになった国の人は、あのように自分の国の盾を掛けてここにいることを皆様に伝えているの。ほら、あの一番上に掛けられているのが、ディケロニア国の盾よ。ツノがあるお馬さんの頭が二つあるでしょう。あれは、烙王と教皇という二人の偉い人たちが仲良くしてる姿を示しているの」
「ふーん、びっくり!ディケロニア国王様も教皇様もお馬さんなのね。盾は1、2、3・・・13個ある」
この儀がいかに重要なものであるかが窺い知れよう。
テサロ聖鍵公国は、広く見れば宗主国たるディケロニア烙皇国の属州国の一角にすぎない。その領主の子の御産といえ、各属州国はもとより、本国からの立会いを受ける名誉に浴するは、やはりこの度の儀が大聖人の誕生を予感させる降臨出産という特異性を持つがゆえにほかならない。
偶然か運命か。四柱貴族と称された大貴族の中で、こと本国との結びつきに置いて、テサロ公マタイエが頭一つ抜きん出たといっても過言ではなかった。
「やあ、ルツ君。扉が開かれていないということは、まだその時ではないようだね」
今しがた到着したのか、雪を払いながら恰幅の良い壮年の男が歩み寄ってきた。
「これはオズワブル様!遠路はるばるのお運び恐悦至極に存じます。卿は堂内には入られないのですか?」
「うむ。壮健そうで何よりだ。諸侯は堂内で座っておられるようだが、遠い親類の儂などは外様扱いというわけよ。流石に陛下はお越しではないようだが、名代のグラマイオス大臣とは昨日城で挨拶を交わしたよ。教皇庁からはヨゼン司教がお見えのようだね」
「はい。本国からも来訪いただけるとは我々も身の引き締まる思いです」
ヨシュアは教会堂に向けて直接の挨拶ができない代わりに月十字を切った。
「さて、妻のナザリは以前お目にかかったことがございましたな。あれは娘のザヴェナといいます。さあ、2人ともこちらに来て挨拶なさい。ルコン公の叔父上にあたられるベオルズ様だ」
「お久しゅうございます」
「ザヴェナです。ごきげんうるわしゅう」
「よしよし。ナザリ殿。覚えておるぞ。以前お会いした時は本国の内乱で陣中見舞いに来られた折であったかな」
「そのとおりでございます。もう10年近く前でしょうか。あの頃はまだザヴェナも生まれておらず」
「利発そうなお子だ。将来有望そうな顔立ちではないか。さすがはルツ君と細君の血を引いておる」
ベオルズは、当国の北東に位置するルコン金羊公国領主オズワブル家の血縁だ。圧政を好むオズワブルの家系の中でも彼らを抑制し立場を異にする姿勢から、その人徳を領民は“オズワブルの良心”と呼び、敬愛していた。
また、彼は当儀の主役マグダレナの叔父でもあった。つまり、マタイエ家とオズワブル家は彼女を通して家系図に繋がりを持つ。
「楽しみだね。カダルタ=ハギアトスの再来になり得る者の誕生か。慎んで御迎えせねばならん」
「御意にございます」
「・・・鐘だわ」
「何?」
会話を遮ったのはザヴェナだった。
少女はスゥと真上を見上げた。拝廊の上は吹き抜けになっており、二階の空間に設置された巨大な鐘が3つ、拝廊内の僅かな灯りを受けて真鍮で造られた金鉢のような胴体の淵を鈍く光らせている。
釣られて大人3人が視線を向けたまさにその時、天井の絡繰歯車が軋む音を立てながらゴトリと動き出した。きっと拝廊の壁の向こう側に設置された操作部屋で、雇われ人が滑車に掛かる鎖を引き始めたのだ。
吽吽と唸る機械仕掛けの力学が静謐の空気を歪ませ、天使の鐘が澄んだ甲高い音を鳴らし立てた。
カラァァン・・・カラァァン・・・カラァァァン・・・
聖なる子の生誕を告げる百合の天使の祝報。
屋外から沸き上がる歓声。
教会堂からは、重厚な風琴の音色に合わせて歌われる賛美歌。
「おお、鐘が鳴ったぞ!」
「我らが栄光よ!」
「ああ、マグダレナ!貴女が友であることが誇らしくてならない。ほら、ザヴェナもー、ザヴェナ?」
ナザリは感動に打ち震えながら、娘を抱きよせようとしゃがみ込んだ時、不意にその顔を曇らせた。
娘は魂が抜けたように口を開けて立ち尽くしている。
ザヴェナはこの時、自分がどこか得体の知れない、超自然的な何か、教会神父の言葉を借りれば「霊天使の交信」を受け取ったことを自覚していた。
《始まったか。この儀に立ち会えることを主に心より感謝いたします》
隣の父の声が遠のいた。
突如周囲の景色が白く塗りつぶされていく。残ったのは目の前の大扉だけ。
扉が不意に開け放たれ、その勢いで開閉を繰り返した。
そして、教会堂の中から一陣の突風が空気を裂き、吹き抜けた。
ザヴェナの白髪が逆立ち、箒のように真後ろにぴんと張った。まるで教会そのものが呼吸をし、生命の吐息を吹きかけたかのようだ。
ザヴェナの睫毛が小刻みに震え、両の目から大粒の涙が一粒ずつ流れ落ちた。それは歓喜の玉か、悲哀の雫か。
今、生命の炎が燃え盛った瞬間だった。
赤ん坊が、キリエが、生まれて初めて呼吸をしたのだ!
少女の視線は、扉をくぐり、身廊を抜け、内陣を辿り、祭壇に至った。そして、その目が捉えたのは、赤子が、母体共々松明のように燃え盛っている姿だった。
はっと気を取り戻すと目の前にはヨシュアの顔があった。
「どうした?ザヴェナ?」
何も知らぬ父の怪訝そうな顔が不安を誘った。
「どうしよう!?赤ちゃんが燃えてるわ!燃えてるの!」
「お前、何を言っている?」
ゴォォーン・・・ゴォォーン・・・ゴォォォーン
そして、第二の王の鐘が知らしめる。
その重厚なる響きは、今まさに与えられた命の重み。公国はさらなる活気に包まれる。
「ついに御生まれに!」「おお、聖なる時よ!」「預言に狂いはなかった!」
拝廊内でも口々に感嘆の言葉が漏れ出た。
風琴の固定的な音色に強弱の彩りが宿る。そして、聖歌隊の歌声にも熱と甘美さが増し・・・
不意に途切れた。
続いて、子ども達のようなまとまりの無い歓声と不作法な喧囂が鳴り響いた。
少しばかり顔をしかめたくなるが、教会堂内の列国に名だたる紳士淑女といえど、奇跡の生誕を真近に見ては、どうにも心の昂りを留められず、取り乱すほど喜びに包まれているのだろう。
赤ん坊を迎える諸氏の少し過激な祝福の声、誰もがそう思った。
最初に違和感を口にしたのは、扉近くに立つオズワブル公ベオルズだった。
「何かおかしくはないかね?」
続いてヨシュアが眉を顰めた。
「ベオルズ様、何か変な音が・・・」
続いてドンっ、と扉に何かがぶつかる音がした。
何事かと人々は一斉に教会堂扉に目を向ける。続いてガラッガランッ、と金属物が盛大に倒れる音が彼らの身を竦ませた。
ベオルズが扉の取手を握ると、一層騒めきが強まり、傍から諌める声も聞こえた。
「皆々様、ご安心召されい。責任は儂にある」
いよいよ怪訝が募ったベオルズは、もはや掟破りを承知で取手を握る腕に力を込め・・・拝廊の一同の表情をひとしきり確認すると、一つうなづいてグイと扉を内側に押し開けた。
くぐもり聞こえていた内部の喧騒が熱気とともに解放された。
人々は呆気にとられた。中で一体何が起こっているのか、瞬時に理解できた者は一人としていなかったに違いない。
過激な祝福??とんでもない!
扉の向こう側にいた人々は、どこか喜劇を演じる道化師めいて手足を宙に投げ出すように振り回して踊ったり、床に身体を擦り付けるよう転がり回ったりしていた。
名だたる諸侯が見せるあられもない巫山戯っぷりに、一同は顔をしかめるか、あるいは腹から笑って済ませられたなら、それはどんなに良かったことか。
ある貴婦人は、全く周りを気にせず踊り狂うものだから、腕を列柱や座席にぶつけ、無惨にへし折った。
ある公子は、壊れた玩具のように自らの頭をひたすら列柱に打ち付けている。
床に倒れてしまったばかりに飛び跳ねる幾人もの重みに潰され、動かなくなった子どももいた。
堂内はまさに別世界だ。耳を覆いたくなるほどの絶叫が途切れることなく飛び狂い、煉獄の聖歌隊が悪魔の指揮のもと輪唱を繰り返すかのように、人々は自傷行為に熱を吹いているのだ。
地獄の釜を開いたとはこのことか!!
理解が追いついたところで心は置き去りのまま。誰もが手足を封じて喉だけを鳴らしている。
そんな者たちの都合など構うはずもなく、秘匿されていた暗黒はたまらず外界に溢れ出た。
いきなり扉にぶち当たった真っ黒な塊が出口に立ち尽くすベオルズにざぶりと覆い被さった。
空間を墨で塗りつぶしたように真っ黒で歪な形をした何か。それらは2つ、3つと劈き声とともに続けざま勢いよく飛び出てきて、人々の恐怖を煽った。
「ベオルズ様!!」
「なんだ!これは??」
拝廊の中では目立った混乱はまだ生じていない。人々はただ黒に染まった得体の知れない塊と、それに圧し潰されたベオルズを凝視したまま、いまだ身動きが取れずにいた。
理解の範疇を超えている。それは百戦錬磨のヨシュアにとっても同じだった。
「人・・・?黒い・・・火・・・?」
誰かが呻いた。それは確かに炎のように燃えていた。黒く蠢く炎が一定の強さを保ち、ねっとりと、人間にまとわりつくように燃えていたのだ。
いや、撥撥と燃える音は無く、燃えているという表現では不適切かもしれない。ただ、そこからは確かに魔女焚きの時と同じ人肉が焦げ立つ臭いが漂ってくる。
黒い塊がその体積をすり減らしていく。炎が需分需分と五体を呑み込んでいるのだ。まるで幽霊が生者を隠世に引きずり込むが如く。
ついに一人を平らげた黒い炎は、貪欲にも、続いて下敷きになっていたベオルズの下半身まで浸食し始めた。
連続する悲鳴が拝廊内に反響し、遠巻きにする人々の胸を恐怖で掻き乱す。
「グァェェッッ!火を!火ヲォォ!!はやクゥ!!」
恐るべき苦悶の形相に涙を浮かべながら、ベオルズはなりふり構わずナザリの脚を掴んで倒した。
ああ、悲しや。黒ずんだ炎は、勢いなく、じっとりと、膨よかなオズワブルの良心をすり減らしていく。
犠牲者はあまりの苦痛のため床に頭突きを繰り返している。床に拡がる夥しい血が皆を漸く現実に引き戻した。
「な、中の狂乱ぶりはこれが原因か!」
一同はその言葉に改めて戦慄した。
「や、やめて!離して!?お願い!!ヒィ!」
ベオルズが道連れにせんとばかりに、ナザリの足首を潰す勢いで握り締めるものだから、ナザリは恐慌のあまり取り乱す様を隠しもせず、夢中でベオルズの顔を手を幾度も蹴り払った。
「あ、あなた!?なにして、早く助けて!!」
「あ、ああ!ベオルズ様!くそッ」
我を取り戻した夫と数人が駆け寄り、ベオルズの手を強引に引き離し、やっとのことでナザリは保護された。
「グウァァッ!ヨ・・・ヨシュ・・・ヒュウゥゥゥ・・・ヒュゥ・・・」
もはやベオルズの意識は苦痛に覆い尽くされ、その喉を痙攣させながら惨たらしい音を絞り出すだけ。
ずっと続くかと思われた断末魔も炎が卿の肺を吞み込むまでに至ると、彼の喉からは次第にひゅうひゅうと失敗した口笛のような音が漏れ、やがて、命の終わりを告げるように途絶えた。
「はぁ、はぁ。あ、あなた・・・」
「なんて・・・ことだ。一体これは」
ベオルズがいた床には人の姿を象った黒いシミが無秩序に重なっていた。
赤ちゃんが燃えている。
娘の言葉が不意に父親の脳裏をかすめた。はっとしてヨシュアは教会堂の扉の向こうを瞻視した。
先程までの喧囂が嘘のように静まり返っている。
いや、ある。聞こえる声がある。
ヨシュアはナザリをその場に座らせようとすると、彼女は拒んで扉の向こうを指差した。幼い娘が黒いシミを跨いで、人の名を呼びながら身廊を突き進んでいるのだ。
「あのたわけ!」「私も行きますとも!」
夫婦は声を合わせて立ち上がった。
扉の向こうは瘴気の悪臭に満ちていた。
所々にシミを残す身廊は、姿無き焼死者の暴れた後が散乱している。壊れた座席。千切れ飛んだ聖書。中央路に並んでいた金の燭台は、倒れに倒れへし曲がっている。
「列国の諸侯が軒並み・・・とんでもないことになった・・・」
「マグダレナ様は無事ご出産なされたのでしょうか・・・」
シミの数は10や20ではない。ここには本国をはじめ近隣諸国から招かれた王侯神官貴族が参列していたのだ。言わずもがな前代未聞の損失である。
ナザリは、ひっ!と切れの良い悲鳴を迸らせ尻餅をついた。ヨシュアが近寄ると自らの手を見て戦慄いている。列柱に寄りかかって身体を支えた時だろう。こびりついた血脂に手を滑らせたのだ。
「大丈夫だ。行こう」
「ザヴェナは怖くないのかしら?この悪夢のような光景・・・」
暗闇の中、2人は前襟に鼻を押しつけ、足下に気をつけながら駆け足で進んでいく。
「あ、赤ちゃんの泣き声・・・」
良かった。生きていた。この阿鼻叫喚の中で。
「ああ、マグダレナ・・・どうか無事で」
ナザリは、安堵するのはまだ早いと分かりながらも、止め処なく溢れる涙を止めることができなかった。
内陣の前でザヴェナは立ち尽くしていた。聖なる子と囃された赤子は、今死臭の漂うこの場所で助けを求めている。
駆け寄ろうとしたところで、爪先で何かを蹴飛ばした。空空と響く音。硬い感触・・・硝子瓶だろうか。
「キリエ・・・今助けてあげる」
出産後の儀はこの内陣の奥、主祭壇の空間で行われたと見て取れる。両脇には暖炉が焚かれ、赤い火がまだ揺らめきながら周囲を照らしていた。祭壇の上には、講壇机に取って代わって寝台が設置され、周りに掛け巡らされていた簾は無残に剥ぎ取られて床に打ち捨てられたままだ。
ザヴェナは祭壇に登り、寝台の上を覗き見た。そこには全身を濡らした、まさに生気漲る赤ん坊が手足を捩って泣き喚いていた。
「ああ、良かった」
「ダメだ!危ない!下がりなさい!」
突如、主祭壇の周歩廊の奥から怒気を含んだ男の声がして、ザヴェナを飛び上がらせた。すると今度は身廊側より自分を安じる父の声が聞こえた。
「ザヴェナ!大丈夫か!」
「ヨシュアか!あの娘はお前の子だな。お前は近づいてはならん!すぐに娘を戻らせろ。この悪魔から遠ざけろ!すぐにだ!!」
ヨシュアは驚き、声のほうを見る。姿は見えねど祭壇の向こうから届いた声を聞き間違える筈が無い。主君だ。
「ご無事でしたか、リュベク様!よし、ザヴェナ、こちらに来なさい」
「でもお父様。この子を」「聞かん!主の命ぞ。疾く動け!」
ザヴェナは、理由も分からず声を被せられたことにカッと頭に血を上らせた。この子は濡れている。いつまでもこのままだと風邪を引いてしまうのに。
「ザヴェナ!!」
「うぅぅ・・・あたしは、あたしはキリエを助けるのー!」
ザヴェナは束の間の逡巡の挙句、わめいて赤ん坊を抱き寄せた。
ヨシュアは、ナザリを見た。既に妻は前を向いて祭壇を上っている。
「よせ、そやつから離れるのだ」
実の子に対し、何故かリュベクは危機感を抱いている。その子を憎むほどの鬼気迫る声が、逆に聖なる子の守護者に使命を与えた。
ザヴェナの頭には、あの不思議な女性の声が聞こえていた。そして彼女と交わした約束の言葉も。
(あたしはルツなんだから、守ってあげなきゃ)
「リュベク様、マグダレナ様は何処に?」
ナザリは青ざめた顔で問うた。
「奥は・・・死んだ。この赤子の炎で、も、燃やし・・・尽くされた!!」
主君の忿怒を絞り出すような悲痛の声がルツの心に突き刺さる。
「炎とは、あの黒い・・・リュベク様は、あ、あれを和子様の仕業だと申されるか!」
「・・・そう、だ!信じられん。信じたくない、が・・・この目で見てしまった以上、神の前で偽りを口にはできぬではないか!」
ナザリは目に溜めた涙を振り払い、娘を見据えた。
「ほら、ザヴェナ。いい子だから父上の言うことをお聞きなさい。あの火がいつ貴女を襲うか」
「大丈夫よ。キリエはそんなことしないわ」
「・・・なぜ、あなたはこの子の名前を知っているのかしら?」
「だって・・・」
ナザリは小さな娘の頰を撫でた。今の問いの答えなどどうでも良い。赤子に意識を向けさせないよう・・・
「私の愛しいザヴェナ。心配させないでくださいな」
ナザリが涙の跡を拭った仕草を見て、ザヴェナはどうしようもなく謝りたい気持ちと、母にもキリエを守る使命に同調して欲しい気持ちとの間で揺れ動いた。
悲しげに眉を寄せる我が子を、その子が抱く神子を、ナザリは優しく包み込んだ。
「ごめんなさい。お母様がキリエを守ってくれるならー」
その時、降雪が途切れ、雲は千切れ、外から銀の月光が場を照らした。それは同時にステンドグラスを通して寝台を赤に緑に青に染め上げ、色彩の魔法陣を描き出した。
「キレイな光」
ザヴェナは頭を上げて晴れやかな声を響かせた。
陰になっていたザヴェナの頭が退いたせいで、赤子の開ききらぬ目はじかに光を浴び・・・大きく見開いた。
「オギャァァ!!」
その瞬間をルツ家の母娘は目撃してしまった。赤ん坊の見開いた右目の眼窩には眼球がなく、代わりにあったのは、目紛しく球状に渦巻く白金の炎だった。
その金色の瞳は、見た者の瞳に宿る。
「いかん!赤ん坊を見せるなーーー!!」
リュベクは、がばっと外套でその頭を隠した。察したヨシュアも瞬発的に祈り机の影に身を潜める。
「ああ。世界が金色に・・・」
次の瞬間、ナザリの眼球に宿った炎は、中から爆ぜ、その身体を包み込んでいった。
(ザヴェナ、あなただけでも!)
母親は反射的に赤子を奪い取り、娘を突き飛ばした。
「え?お母様!?お母様ー!」
「ナザリィィーー!!」
ナザリは悟った。
(この炎は・・・。マグダレナ、あなたもー)
彼女は、金色の瞳に微かな別離の哀しみを浮かべると、娘に語りかける間もなく、まるで天に昇る霊魂のように、炎とともに此の世の何処からも消え去ってしまったのである。
「ナザリ、そんな」「くっ・・・!」
「お母・・・様?・・・あ、れ??」
自分を取り戻したザヴェナは、すべてを理解するとたちまちどす黒い後悔の念に頭を撃ち抜かれ、気絶した。
「ナ・・・ザリ・・・」
二人の男は自分の非力に打ち拉がれた。
寝台に転がり戻った赤ん坊は、聖なる夜も地獄の夜もご無用とばかりに、一つ二つ寝返りを打つと、充足した顔で、すやすやと寝息を立て始めるのであった。




