第1章 〜生誕〜 第1話
ー神聖暦1326年ー
燭台の上に立つ蝋燭は細々として背は高く、揺らめく燈明が持ち手の面貌を浮き彫りにしている。人々は、誰もが同じように燭台を手にしながら、列なり寄り添い、冷たい針葉の並木道を進んでいた。
沈沈と降る雪は、聖夜の重みを伝えようとするかのように、頭や肩に真白を残す。
時折凍てつく風に吹かれ、粉雪が宙を舞った。
白は神聖な色。5歳になったばかりのザヴェナ=ルツは、そう信じていた。その祈りにも似た心情は、少女の一風変わった風貌に由来していた。
連れ添う父と同様、少女の髪は、今まさに木々や大地に積もる新雪にも負けぬほど、その白さを湛えているからだ。
また、この闇夜の中で方々の橙光を宿し、さながら夕陽を湛える夏の常緑葉を思わせる無垢なる翠眼は、周囲の人の多さに眩んで虚路虚路と所在なく動き、その様子は栗鼠のように可愛らしい。
ザヴェナは胸を躍らせていた。こんなにも夜更かしするのは初めてで、こんなにも張りつめた空気も初めてで、辺り一面は大好きな色で、まるで自分はそんな世界に招かれた白い妖精のようで・・・。
幼い少女は微笑みを止められず、目を瞑って夢物語を思い描いた。
ーー空から降り立つ天使様。
その手を差し伸べる相手は、白雪と戯れる妖精の踊り子!
銀世界の樅の木は、空と大地を結ぶ深緑のはしご。
踊り子は、樅の木に抱き上げられて、てっぺんで天使様の手に触れる。それから一緒に葉っぱの間からひょっこり顔を出して、目一杯世界を見渡してみるの。夢のようなひととき!
下には無数に煌めく灯の橙が丘の上まで延びている。まるで大地に映し出された天の川のようで、それは流されるがまま、見知らぬ運命に導かれるかのよう。ーー
ザヴェナは父に肩車をせがんだ。
空想を僅かでも成就したいらしい。隣で少女の手を引く母は「はしたない」と叱ったが、5歳の少女は、豪放磊落な父がその手の子どものあやし方が好きなことを知っていた。
案の定、父はにやりと笑い、片手でザヴェナを引き上げると放り投げるように肩に乗せた。
ザヴェナは、身軽に父の両肩に足を乗せて立ち上がり、予想以上の光景の素晴らしさに寒さを忘れた。
暫くそうして惚けていたが、ふと思い出したかのように両の手を眼の前に持ってきて、左右の指で小さな四角の枠をつくった。
そして、片目を閉じる。
ザヴェナは、視界を区切って風景を絵として観ることが好きだった。前に父から教わった方法だ。幼い彼女に美学の蘊蓄が分かろう筈も無いが、どうでも良いことだ。人が“美しさ”を知覚することに見識など、必要ない。
枠の中に閉じ込められた景色は、この道の先に広がる丘陵の頂上を納めていた。そこには闇夜の斑模様に負けぬ濃い影があった。
ここは、ベルヘルベム丘陵。
領主マタイエ公が治めるテサロ聖鍵公国の公都ロイヨ近郊に位置し、「龍の背中」とも呼ばれるなだらかな丘だ。そして、この丘に構えられしは本国屈指の歴史を誇る木造建築の教会である。名をエルフェンゾ教会といい、国教エヴォヤ教会カダルタ派を宗派とした。
当教会には正三角形の頂点を成す位置に三つの鐘が設置されている。上方を「父なる神」の鐘、左方を「子たる王」の鐘、右方を「奉ずる天使」の鐘という。
人々はこの鐘が順に鳴り響く時を待っている。白百合の天使が誕生の時を告げ、王の発令が無事なる誕生の報を届かしめ、神の声が祝福するのである。
聖人カダルタが生誕したノムトリエル月の25日。この日に出産を迎えることを「降臨出産」と云い、その予言を受けた子は、神より大いなる宿命を託されていると信じられていた。
聖なる子に吹き込まれる神の息吹に肖ろうと、諸人は挙ってその手に命の依り代たる蝋燭を握り、祈りを捧げている。
鐘が鳴り終えるまでに蝋燭の火が絶えなければ、次の代には幸福が訪れると信じられている。
この列を作る者に身分の境はない。貴族も、僧侶も、兵士も、商人も、農民から貧民まで等しく繁栄安寧を求めるため、こうしてこの地に集っている。
今宵、名家マタイエの第三子がその魂を肉に絆す。
この預言が外れることなど、ここに参列する者は微塵も考えていなかった。
その子がいかなる偉才を備え、世の讃美を受けるのか。この凍える寒さの中で待つ衆庶の思惟は、取りも直さず降臨の立会人となる名誉にあるのだ。
マタイエ領主の近衛騎士を務めるルツ家もその例外ではなかった。
現ルツ家当主ヨシュアは、この祝儀において、近衛騎士でありながら教会の中で来るべき時を待つマタイエ公護衛の役目を授かってはいなかった。
ルツ一族の出自は、諜報を得手とする部族であった。一昔前の内乱の際にその能力を買われ、公国間諜方の頭首を拝命し、以来常にマタイエ家の側を離れることをしなかった。
マタイエ公リュベクのヨシュアに対する信頼並々ならぬことは、公国貴族の間では周知の事実であった。だからこそ、リュベクは、ひとえに友としてヨシュアに参列して欲しいと願い、彼をあえて護衛の任から遠ざけたのである。
そして、ヨシュアは主公の厚情に深謝し、今教会が開く時を妻、娘とともに待っている。
「静かな夜ね。ザヴェナ、それぐらいにして降りなさいな。父上の肩をいつまでも汚していてはいけませぬ」
ナザリは娘を軽く嗜めた。少し不満げに頰を膨らませる様子はやっぱり栗鼠の仕草そのままだ。
「本当はお留守番のところを、あなたがどうしても、と言うのでお父様は共を許してくださったのよ」
「はーい。お母様」
諦めたのか、少女は音も無く地面に飛び降りた。
「じゃ、あたし、先に教会を観に行ってきますから!」
じっとしていることが苦手な娘は返事を待つまでもなく、器用に掏掏と人混みをくぐり抜けて行ってしまった。我が子の素早さに半分苦笑しながらナザリは腰に手を当てる。
「もう!あの子ったら全然わかってないわ。やっぱり連れてくるべきではなかったかしら」
「ハッハハハ。まあよいさ。そろそろ教会の中の支度も終わり扉が開くだろう。我々は主公のご厚意により中に入ることが許されている。ともに和子様の誕生を拝み奉ろうぞ」
ヨシュアは妻の肩に手をかけ微笑んだ。
「はい。マグダレナ様はやはり天命のお方でございましたね。できることならば、お側に侍り力付けて差し上げたい。私がザヴェナを身篭った時にそうしていただきましたように」
「そうだな。君の親友はこの国一の賢妻であるよ。君も負けてはいないと思うがね。だが、リュベク様が一番近くにおられるのだ。そう案ずることもあるまい」
ナザリは、今まさに聖なる偉業に挑まんとする親友に心の中で敬意を払い、出産の無事を神に祈った。
少女は、すんなりと列を抜け切ると、簡単な木組みで誂えた背の低い柵の前でふと止まり、聳え立つ教会を見上げた。
古ぼけた黒塗りの厚板が幾十に打ち付けられた外壁は厳めしく、それは建物全面に及んでいる。
正面扉の周囲は積木を迫持型に組み置いて構えられており、扉の真上にはエヴォヤ神教の月十字紋と薔薇精霊紋。この教会が神精混淆(神教と土着の精霊信仰を統合させる意)のカダルタ派宗旨であることが窺い知れる。
それゆえに外周には今にも脈打ちそうな蛇蔦が絡み合った形状の高浮き彫り細工がぐるりと廻らされ、神の家を守護する森の精霊を示唆していた。
建物としての大きさだけなら、ザヴェナは圧倒的な存在感を誇る都内の大聖堂を知っている。しかし、不思議なことにこの教会の佇まいからは独特の霊妙な気配が感じられ、やんちゃな5歳の少女をして畏敬の念を引き寄せたのである。
「まるで教会そのものに精霊が宿っているかのようですね」
頭上から聞き慣れない女性の声がし、はっと我に返り振り向いた。
「こんばんは。ザヴェナさん。素敵な夜ね」
「あ、こんばんは・・・」
まるで知らない顔だ。だが自分の名を知っている。親族か、父母の知人か、はたまた・・・。
「教会ではまだマタイエの一族が無灯奉神礼を行っているようですね。明かりが点くのを待つべきでしょう」
女性にしては低い声。ある種の威圧感を覚える。いや、この緊張がそう思わせるのか。
そう。ザヴェナはこの女性の金色の瞳を見た瞬間から得も言われぬ不安を覚え、身体を硬直させていた。暗殺者の血族としての本能がそうさせたのかもしれない。
(綺麗な髪・・・)
ザヴェナはなぜかしらその女の髪に目を奪われた。
見たところ歳の頃は30歳近くだろうか。波打つ赤黒い長髪が腰近くまで伸び、女性の背の高さを強調している。そして、知性的な切れ長の目と蠱惑的に吊り上がった唇を同居させた端麗な面貌には、どこか作為的な笑顔が貼り付いていた。
さらに服装まで言及すれば、これはもう表情以上に怪しげだ。黒々と染色した羊毛の外套の下には、なお深い黒地の絹織に銀の縁飾りを織り交ぜた礼服を纏っている。まるでこの聖誕祭を皮肉った喪装のようではないか。
まともではない。だが、敵でもない。少女はそう感じると、不意に何か答えなければ、と妙な義務感に駆られた。
「・・・マタイエ様の赤ちゃんがもうすぐ産まれるの」
「ええ、喜ばしいことですわ。皆が待ち望んでいること。でも、一番素敵なことはその子のためにあなたがここにいて、お祈りしていることでしょう?」
女性の笑顔に赤みが差し、この一瞬だけ本物になった気がした。
「うん。もちろん!あたしはルツだから、赤ちゃんを守ってあげるのよ」
女性の心の動きに釣られ、ザヴェナに笑顔が戻る。ザヴェナは自分がここにいて良いのだと肯定されたことが嬉しくて、所在なげに柵にもたれかかると、はにかむ仕草を見せた。
「ザヴェナさんはとてもしっかりしてるのですね。頼り甲斐がありますこと。きっとキリエレヒトの良いお姉さんになれるわ」
「キリエレ・・・?」
「もうすぐ生を授かるマタイエの赤ちゃんの御名です。キリエレヒト。親しみを込めてキリエと呼んで差し上げるといいわ」
「ふーん、どうして知っているの?」
「んふふ。私もキリエの遠い親戚だからですよ。そんなことより、ここからがとても重要なこと」
女性がザヴェナの目の高さまで屈みこむと、その赤黒い髪が積雪に流血の模様を描き出した。だが少女の瞳は地を追うことを許されず、女性の不思議な輝きを秘めた視線に瞳を縛り上げられた。
ザヴェナの中に再び出会い頭に感じた緊張が甦る。
女性は言葉を続けた。
「キリエはとても大きな運命を背負った子。波乱の人生を歩むことになるのです。それはとても困難で、堪え難いものとなるでしょう」
「マタイエ様の子なのに、幸せじゃないの?」
「幸せ・・・。そうね、それは幸せを見つける人生の旅と言えるのかもしれない。まだ小さなザヴェナさん、貴女にこんなことを頼むのは酷なことだわ。でも・・・」
「お姉さん、まるでキリエのお母さんみたい!大丈夫よ。あたし、お父様にも言われてるから。どんなことがあってもルツはマタイエを守る家だって!」
女性は、そう聞くや少女を愛おしく抱きしめ、何度も頭を撫でた。
はらりと雪が舞った。
「有り難う。貴女が一緒なら、きっとキリエは幸せを見つけられるわ」
少女は力強くうなづく。
「ザヴェナさん。私にできるのは貴方達の旅の加護を祈るだけ。ごめんなさい。少しだけ眼を閉じてくださるかしら」
言われるがまま、ザヴェナは眼を閉じた。
「決して開けてはダメですよ・・・」
その時、教会の窓に明かりが反射した。部屋中の照明に火を入れたのだろう。
同時にザヴェナの閉じ切ったまぶた越し、眼裏に光が見えた。それはすぐに全身に行き渡り、身体の中心に暖かみをもたらした。
「もう目を開けて」
「・・・なんかいい気持ち。あ、明かりがついてる!」
ザヴェナは振り返って確認する。
「んふふ。これで貴方は火に脅えることはありません。いつかきっと・・・あら、ご両親がお越しになったようですね」
言葉を飲み込み、女性は踵を返した。
背けた顔に何か企みを終えたような笑みが一瞬走ったことに少女が気付くはずもなかった。
「ザヴェナさん、キリエのことを頼みましたよ」
「え?えーーと・・・お姉さん!」
「私は、ユスティノア。いつかまたお逢いしましょう。和子の守人よ。貴女にも幸多からんことを」
黒衣の女性は、ザヴェナに凍えるほどの緊張と、不可思議な愛情と、数え切れぬ謎を残して去った。
この出会いが少女の行く末に重大な爪痕を刻みつけたことなど今は知るべくもなく、未来のことを考えたことも無かったザヴェナは、暫く女性の足跡を呆っと数えながら身体の芯に灯った熱の余韻に浸っていたのだった。




