五章 悲しき口づけ 後編
城がビリビリと震え、悲鳴と怒号が上がる。
「なにっ? なにが起こったの?」
「姫様、そ、外が!」
侍女が震える指で窓を指差す。そこから見える黒煙にミュラは窓に走りよった。下に見えたのは庭園に怒涛の勢いで攻め込む馬と、炎が上がる城門だった。
「そんな、カムルクが……?」
火のついた矢が城に向かって飛んでくるのを見て、ミュラは愕然と後ずさった。立て続けに破壊音がして、焦げた匂いがしてくる。おそらく近くで新たな火の手が上がったのだろう。逃げ場をなくしミュラを追い詰めるようなこの行動は、愛しい人を裏切った自分に与えられた罰だろうか。
──貴方は私の死を望んでいるの?
「姫様逃げましょう! ここに居ては城と一緒に焼かれてしまいます!」
「炎が迫っております! どうか姫様っ」
「……いいえ、私はここに留まります。どんな理由があろうと最初にカムルクを裏切ったのは私です。罪は償わなければ。貴方達は逃げなさい。逃げて、自由に生きなさい」
「そんなことは出来ません! 姫様も一緒に────」
「私は一国の姫です。ここから逃げてもけして自由にはなれない。だから、私の分も貴方達が自由になって。──さぁ、行きなさい!」
毅然とした態度で下した命令に、侍女達は啜り泣きながら一人ずつミュラの前で一礼して慌しく部屋を出ていった。
誰一人いなくなった部屋でミュラはゆっくりと椅子に腰掛ける。ドアの隙間から煙がうっすらと立ち込め、焼ける匂いと熱い炎の気配が近づく。
「カムルク、貴方と共に生きたかった……」
このまま焼け死ぬのが罰ならばそれでもいい、そう思った時、窓ガラスを突き破って大きな影が飛び込んできた。
ミュラは椅子から立ち上がり、思わず口元を両手で覆った。
痩せてますます鋭くなった眼光と怜悧な面差し。血塗れた剣を片手に、薄汚れた軍服を赤く染めて、男はうっすらと笑みを浮かべた。
「遅参で、申し訳ありません……お迎えに上がりました、我が姫……」
「カムルク!」
夢にまで見た愛しい人の姿にミュラは走りよって男の首に抱きついた。カムルクの体臭には汗と血と煤けた匂いが混じり、ここまでくるのにどれだけの苦戦を強いられたかが察せられた。脈打つ鼓動に男の確かな生を感じ取り、ミュラは琥珀の瞳から大粒の涙を零す。
「逃げてと、生きてほしいと言ったはずです! それなのにどうして……っ」
「この先十年一人で生き延びるより、貴方と一瞬でも共に居たかった。たとえ行き着く先が地獄でも、貴方を一人では死なせない」
優しく抱きしめられて、ミュラの喉から堪え切れない嗚咽が漏れた。信じられなかった。酷い裏切りをした自分を、カムルクは危険も省みず助けに来てくれるほど想っていてくれたのだ。
首からそっと腕を放すと、ミュラは涙に濡れた目で男を見上げる。カムルクのささくれだった親指がこぼれ続ける涙を拭っていく。
「私は貴方を裏切ってしまったのに、恨んではいないのですか?」
「……恨んでいますよ。ですから、貴方の一生をかけて償って下さい。国を捨て、姫の立場を捨て、ただのミュラとして、私と共に生きてください!」
掻き口説くカムルクから一歩距離を取ると、ミュラは必死に顔を上げた。賢い生き方ではないかもしれない。けれどこれが本当に最後なら、せめて自分の気持ちをわかってほしかった。
「私は、姫です。どんなことがあろうと、王族としての責任を、放棄は出来ません。だから、貴方と共に──んぅっ!?」
突然、言葉を封じられて、ミュラは驚きに目を見開く。カムルクが強引に口づけたのだ。それはミュラにとって、生まれて初めての口づけだった。
黒い瞳が狂おしく燃えている。後頭部を支えられ、逃げられないまま、二度、三度と角度を変えて強引な口づけは止まらない。上手く呼吸が出来ずに思わず口を開くと、さらに濃厚な口づけをされる。足が震えて立っていられなくなったミュラから唇を放し、カムルクが囁く。
「出来ることなら、貴方の意思で私を選んでほしかった」
「カムルク……?」
「だが、もういい。拒むのなら無理やりでも連れていく」
愛した騎士の端正な顔に狂気を見いだし、ミュラは震えた。悲しいほどに真っ直ぐな男の激情に呆然と力を抜く。
「貴方だけは、誰にも渡さない!」
高潔な騎士を狂わせたのは、姫に捧げられる一つの愛だった。