三章 苛烈なる皇帝
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シラナミ帝国への道のりは山を隔たる国境を直線で越えさえすれば、僅か半日でたどり着く。国から出たことのないミュラにとって、道中を馬車の中で過ごす時間はとても疲れるものだった。
森を抜けると、高い石壁に囲まれた白い城が目に入るようになる。一刻も早くとせかされて到着した時には、深夜となっていた。
ミュラにとって幸いだったのは、深夜のおかげで皇帝と会うことのないまま、上品な調度品で整えられた部屋に案内されたことだ。そこは本来なら王妃が与えられる特別な部屋だと帝国側の侍女には教えられた。
そして、翌日の朝。ミュラは護衛という名の見張りに囲まれながら、帝国から用意された水色の清楚なドレスに身を包み、皇帝の元へ向かうことになった。
初めての謁見に緊張を隠し、ミュラは姫の立場を意識して背筋を伸ばす。
先導していた兵士が両開きの扉の傍で立ち止まる。
「皇帝陛下! ユーランス王国、ミュラ姫様のお越しでございます!」
「通せ」
「はっ。どうぞ、お進みください」
その言葉と同時に両側から兵士によって扉が開かれる。
「失礼いたします」
ミュラは震えそうになる足に力を込めて、優美に見えるように意識しながら室内へ踏み入った。
広い室内には執務机とソファが一式。無駄な装飾は一切ない。執務机の前には書類を手にした男が一人。
無造作に散る銀髪と丹精な顔立ち。細められた青い目には恐ろしい程の吸引力がある。この男こそ、シラナミ帝国が皇帝ラザック・エスニア。別名、殺戮王と呼ばれる男だ。
それはラザックの要求を断った国が、一夜にして滅ぼされた事実から付けられたものだ。己の欲望を満たすために手段を選ばない冷酷さは、ミュラの耳にも届いていた。
ミュラは皇帝の前で腰を折る。
「ユーランス王国が姫、ミュラと申します。停戦の証として貴方様の元に参りました」
「顔を上げろ」
命令に従い、ゆっくりと顔を上げる。ラザックに全身を舐めるように見られても、ミュラは表情を動かさず、毅然と視線を返す。
「ふん……なかなか愛らしく育ったようだな。それにオレを見て顔色一つ変えないとは、姫ながら胆の据わった女だ。貴様なら、俺の王妃も務まりそうだな」
息を詰まらせかけ、慌てて吐き出す。側室ではなかったのか。思わぬ言葉に、ミュラは声を張る。
「お待ちください! 身に余る光栄ですが、私のような弱小国の一姫に帝国の王妃が務まるはずもございません。どうかこの身は捨て置きくださいませ」
「誰をもがオレに媚びを売り、奴隷のように額づき、喉から手が出るほど欲しがる妃の座を、貴様は欲しくないと言うのか?」
「私は弱き姫に過ぎません。こうして貴方様の前に立つだけで、手を震わせる。そんな私に王妃の器がありましょうか?」
小刻みに震える手を翳し、思いとどまってほしいと半ば懇願する。しかし、はっきりと伝えた途端に殺気のような威圧感が霧散した。
「ほぉ……面白い。自らの弱ささえ武器にしてみせるか。美しく強かな女だな。久しぶりに愉快な気分だ。やはり側室では惜しい。貴様は王妃となれ、そして俺の子を生め」
男はまるで獲物を甚振る猛禽類のようだった。向けられる獰猛な笑みにミュラの身体に震えが走る。
恐ろしい。ただひたすらに目の前の男が、皇帝が恐ろしかった。男の目には暗い欲望が灯り、その闇はミュラを呑み込んで、深い絶望へ叩き落そうとしている。
ミュラは握り締めた手を胸に押し当てて、胸にわだかまっていた疑問を吐き出した。
「ご無礼を承知でお尋ねいたします。どうして私なのですか……っ?」
ユーランス王国は大きな力があるわけでもない。わざわざ小国の姫であるミュラを選ばずとも大きな国からいくらでも美しい姫を娶れるはずだ。それなのに、なぜ?
ミュラの問いかけに、男は書類を机に放り投げる。そして椅子からゆっくりと立ち上がり、ミュラに近づいてきた。足音もなく迫るラザックの雰囲気に圧倒されて、動けない。
「知りたいか……?」
目の前に立った男がミュラの顎に手をかけて、無理やり上向けた。それでも随分とある身長差に、足元が自然とつま先立つ。
「お、お止めください」
恐怖のあまりに掠れた声で抵抗するものの、男の体はびくともしない。自分の無力さを痛感させられてミュラは瞳を惑わせる。男は喉の奥で低く笑うと、まるで睦言でも囁くように耳元へ言葉を吹き込んでくる。
「幼い頃、俺は親父に連れられてユーランス王国へ出向いたことがあってな。そこでお前の母親を見た。その瞬間のことは今でも覚えている。凛とした美しい顔、そして琥珀の瞳──あれは実にいい女だった」
吐息に混じる熱に、ミュラは震え上がった。おぞましい予感に胃が竦みあがる。
「な、にを、おっしゃりたいの?」
敬語が抜け落ちたことも気付かず、ミュラは呆然と男を見上げた。ラザックの青い目が奇妙な熱を宿して酔ったように細まる。
「あの姿を一目見て、欲しいと思ったのだ。だが、その時の俺には力がなかった。だから親父を追い込み王の座を手に入れた。欲しいものを手に入れるためにな。しかし俺が力を手に入れる前に、あの女は病であっけなくこの世を去ってしまった。あの時ばかりは随分と荒れたぞ。だがそれも、貴様の存在を知るまでだったが」
男の一言一言に、頭の中が引っ掻き回されていく。頬を撫でる無骨な指に、全身が粟立った。目を見開き、歯の根が合わないミュラに男は鼻先まで顔を寄せる。
「喜べ、あの女の代わりに貴様を存分に愛してやるぞ」
「そんなっ、似た顔立ちや目を持とうとも私は母ではありません! 私は……っ」
顔を逸らして身をよじると両手を取られる。手首を強く握り締められて、ミュラは痛みに小さく呻いた。
「まだ逆らうか。抵抗すれば貴様の愛しい者が死ぬことになるぞ。それでもよいのか?」
「……っ」
「選ぶがいい。俺に全てを捧げることを誓うか、それとも元婚約者の処刑か」
示されたのは、残酷な選択肢だった。カムルクを選べば彼は死に、選ばなければミュラの心が死ぬ。どちらを取ろうとも、ミュラはカムルクを裏切らなければならなかった。
「──二つだけ願いがございます。我が国のために戦い捕虜となった者達に、一目合わせてください。そして、貴方様との婚姻の祝いとして、その者達の解放してはくださいませ」
「仮にも敵国の兵士だ。再びオレに牙を向かぬとも限らん」
「私が説得します。失敗しても貴方には不利益にはならないはずです」
「そうだな……よかろう。愛しい王妃の願いだ。叶えてやる。その代わり、その者達の前でオレに全て捧げると誓ってみせよ」
「わかりました。願いを叶えてくださるのなら、私の全てを差し上げます」
傲慢な笑みを浮かべる男に、文字通り全てをくれてやろう。そう、心以外の全てを。これが王女として生まれた、ミュラの戦い方だった。