第8話 女の子の身体
朝の喧噪に深い眠りから引き起こされる。
リズミカルな包丁の音色と一緒に漂ってくる味噌汁のいい匂いが食欲を誘う。
「ん、んん……」
差し込む朝日のまばゆさに薄目をしばたたかせ、温もりを名残惜しげに布団を抱きしめる。
あくび混じりに呻いた自分の可愛らしげな声に、朔也は一気に目を覚ました。
(あ、お、オレ。そっか、女になっちゃったんだ……)
ぼやけた頭に記憶がよみがえる。
疲れのためか昨日は、床に就くなりあっという間に眠ってしまった。
(しかも、犬神と同じ布団で寝ちゃって……)
布団が一つしかないからと、断る間もなく引っ張り込まれ、彼女のぬくもりにドキドキしながらも、疲れの為かあっという間に眠りに落ちてしまった。
いまさらのように身を起こして俯き見ると、性別が変わってしまった証拠に膨らみが二つTシャツの胸を押し上げている。
(うう、お、おっぱい。オレの胸に、付いてるし)
肉体的には女の子と並んで寝ても問題のない姿になってしまった。
自分の胸に悩ましい膨らみがある事実に、顔が赤らむ。
生唾を飲み込み、そっと触れようとした瞬間、
「おはよう」
「ひうッ!!」
いきなり声をかけられ、慌てて誤魔化すように両手を泳がせ、視線を宙に漂わせる。
「あ、おはよう、犬……神、うぃっ!?」
狭い台所に立ち、料理の手を止めぬまま声だけを掛けてくる儚げな少女。
その姿を目にし、女体化少年が固まった。
手足の長いすらりとした痩身。その肢体に清楚な純白のエプロンをつける。
いや正確には、その肢体に清楚な純白のエプロンだけをつける。
引き絞ったように括れた細腰にエプロン紐を蝶結びに結ぶだけで、後側は一糸まとわぬ裸身に等しい。
撫で肩の透き通るように色白な背中へ、青みがかった黒の三つ編み髪がはらりと垂れて、ゾクリとするような色気を醸し出している。
その下ではあろう事か、胸に比べて幾分小さめなお尻が下着も無しで、キュッと弾力的に引き締まった形を露わにしていた。
「朝ご飯、もうすぐ出来るから。顔洗ってきて」
慌てて目を伏せると、靴下も穿いていない素足が妙に艶めかしくてますますドキドキする。
さすがに身体の前面は白い布地に隠されており、振り返る彼女にホッとして顔を上げるが胸の部分がやたらと肉感的に盛り上がっていて息を飲む。
しかもエプロンの丈が思った以上に短くて、ほんの少し捲れただけでその中が見えてしまいそうだ。
「あ、あああ、あの、それ! ふ、服ッ!! その、料理、するとき、犬神って、い、い、いつも、そんな格好、なのっ!?」
しどろもどろになってしまう。声が掠れて震えている。
それでも目を逸らしながらも悲しいかな、男の習性でついちらちらと蠱惑的な姿を盗み見てしまう。
身体が女に変わっても、朔也の精神は男のままだ。
「ううん。いつもは服着てる。でも今朝は如月くんがいるので。男の子って、こういうの好きだって聞いたから」
確かに好きか嫌いかでいえば当然好きに決まっている。
裸エプロンは男のロマン! などと力説する野郎がクラスにもいる。
けれどもこうして実際に目の前で可憐な女の子がエプロン一枚だけを纏っていると、直視すら出来ずただ狼狽えるだけだった。
妄想の中だったらいくらでも大胆な振る舞いが出来る。
しかし彼女いない歴=年齢のありふれた男子高校生にとって、現実の壁は余りにも分厚すぎる。
「そ、そんなの、嘘だからっ! 服、着てよ、風邪ひいちゃうしっ!! あ、あの、オレ、顔洗ってくるからッ!」
心の奥底ではなんともったいないことを、と男の本能が騒ぎ立てていた。
でも、じゃあ、裸エプロンをありがたく受け入れるとしてどうすればいいというのか?
彼女が扇情的な姿で料理する様を、ニヤニヤと締まりの無い顔で観賞してればいいのだろうか。
それとも、勇気を振り絞りケイを後から抱きすくめて……。
(でッ、出来るわけ無いってば、そんなことっ!!)
一瞬の間に暴走する妄想に、頭がのぼせてくらくらしてきた。
きょとんとする彼女から逃げ出すように、朔也はトイレの中へと駆け込んだ。
「ふぇ〜、び、びっくりした」
後ろ手に鍵を掛けたドアへ寄りかかり額の汗を拭う。
早鐘のような心臓が鳴り止まない。
白いエプロンからさらけ出された白い膨らみが、昨晩背中に押し当てられたむっちりな感触と相まって、脳裏に何度も浮かび上がる。
「い、犬神って、こんな性格だったんだ」
クラスではいつも寡黙で、誰かと親しげにしている様子もない。
それ以前に、存在感が希薄で朔也自身一々気に留めたこともない少女の思いがけない言動に驚きを覚えていた。
(天然……なのかな、それともからかってるのか?)
性格的にはさっぱり似ていないと思ったが、そういう所はやはりあの生徒会長の妹だからなのだろうか。
(やっぱり、なんだかよく分からない娘だよなぁ)
小さく溜息を吐きながら、とりあえず朝の支度を済ませようと気を取り直す。
用を足すため洋式の便座を上げて、いつものように股間に手を持って行く。
「あれ? あ……ン……」
その指先がトランクスの窓の内側で空振りした。
慌ててまさぐろうとして、ぷっくりなだらかに盛り上がった股部分をなぞり、ジンと軽い疼きが走る。
「そ、そっか。もう、ちんこも、なくなっちゃったんだ」
妙な呻きを漏らしてしまった恥ずかしさに頬を赤らめ、一瞬失念していた現実を思い出した。
もうこの身体には、毎朝威勢良く放尿の飛沫を迸らせていた男の象徴は無いのだ。
それより甲高く変わった女の声で男の局所名を発音するのが、妙に気恥ずかしい。
「うう、ま、まいったな」
昨晩には翌朝目が覚めれば、何事もなく男に戻っているのではという淡い期待があった。
しかし現実にはそんな都合良く物事が進むわけ無いと思い知らされる。
人間としての自分はあの人外の少女に襲われた瞬間失われた。
ここにいる自分は、身体の構造を黄昏の眷属という人に在らざる者と同じに変えられ性別も転換された、異質の存在なのだ。
一晩明けて改めて確認した己の状況に気が滅入った。
少し顔を俯かせれば、嫌でも胸の膨らみとなだらかな丸みを帯びた体つきが目に入って来る。
しかしいまここで落胆し続けている余裕はなかった。
いまの朔也には何よりも切実な問題が差し迫っていた。
(と、とりあえず、おしっこしなくちゃ)
尿意だった。ほんの少し前まではさほどではなかった尿意が、わずかな間にかなり切実なものへと高まってきている。
(なんで、こんな急に? やっぱり、これも女になったから?)
早く排泄しなくては。しかし、どうしよう。
(立ったままで、なんてできないよな)
いったいどこから出るのかが自分でも見当付かない。
もし試してみたら、とんでもないことになりそうだ。まさかこんなことケイに訪ねるわけにもいかず途方に暮れているうちに、尿意はもう退っ引きならないレベルに達してきた。
「く、うっ、もう、ダメだっ!」
ためらっている場合ではなくなった。
女性化した尻にはいくらか窮屈なトランクスを一気に脱ぎ下ろす。
自分の下半身を極力見ないようにしながら、朔也は下ろした便座の上に座った。
「――ン、ぬ、ぅ」
間一髪だった。じょわんと熱を帯びた股ぐらから、堰を切って飛沫が溢れかえる。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜」
放尿の解放感に思わず溜息が漏れた。
気のせいだろうか、いつもよりずっと気持ちいい気がする。
(なんか、おしっこはおしっこなのに、変な感じ)
尿道が短い分、身体から直に迸っている感が強い。
緊張を解いた途端、一瞬の間も置かずに溢れ出ていた。
もしあれ以上我慢していたら、服を着たまま漏らしちゃっただろう。
顔を赤らめながら用を足し終え、立ち上がろうとして朔也はハッと固まった。
(あ、そ、そっか、女の場合は、)
股間が飛び散った尿でびしょびしょに濡れている。
このまま下着を穿けば汚してしまうのは確実だ。当然のことだが拭かなければならない。
「うう〜」
いままでなら先っぽを振ってしずくを払えばそれでお終いだった。けれど……。
男に比べて女の小用はやたらと面倒臭い。
朔也はトイレットペーパーを多めに出して右手に纏めると、放尿の済んだ自分の股間へ押し当てた。
深く考えたら躊躇ってしまいそうだ。頭を空にして勢いに任せる。
(な、なんか……、これ……。うう、意識しない、意識しないッ)
男の身体とは何もかも違う。何というか、ちょっと、キモチイイ……。
その感触に戸惑いつつ素早くしずくを拭き取ると、朔也は焦る手で下着を引き上げ、逃げ出すようにトイレから飛び出した。
「やあ朔也くん、おはよう。昨日はよく寝られたかい?」
収まらない火照りを顔を洗って冷やしていると、軽い調子の声が呼びかけてきた。
良い香りのするタオルで顔を拭いながら振り返ると、開けっ放しの窓から青白い炎を立ちのぼらせる狐が軽やかな身のこなしで飛び込んでくる。
「あ、生徒会長。お、おはよう、ございます」
くるりととんぼを切ると、その獣は整った顔立ちをした細身の少年の姿に変わった。
昨日もその不思議を目の当たりにしたのだが、面食らってしまう。
「色々と手間取ったけれど何とか間に合ったよ。はいこれ、新しい制服」
立ち尽くしているとビニールでパッケージされた衣服を手渡された。
「制服?」
「うん。君の場合性別が変わってしまった訳だし、君のことを知っている人が誰もいない他の学園に転校させた方がいいのかもとも思ったんだけど、それだとぼくらが十分に君のサポートを行えなくなってしまう」
「一緒に転校できればいいのだろうけれど、ぼくもケイもちょっと訳あって戻橋学園に通い続けなくてはならなくてね」
確かに身体が変わってしまった状態で、まったく新しい環境に一人で放り込まれるのは流石に心細い。
「変質した身体が君にどんな影響を及ぼすかまだ未知数だし、龍姫がまた文句を言ってくる可能性も大いにある」
小柄で気の強そうな、長い金髪をツインテールに纏めた拳銃使いの少女。
忍とケイがいない状況で彼女と接触したら恐らく文句だけでは澄まないだろう。殺気を込めて睨み付けてきた青い瞳を思い返し、朔也の背筋に寒気が走る。
「何よりも女の子になったことで色々と困った時に、ケイが側にいたほうが良いでしょ?」
「それは勿論。で、結局、オレはどうすればいいんですか!?」
中々本題に入らない回りくどさに少々苛つきながら尋ねると、忍の軽薄な印象を与える美貌があっけらかんとした笑みを浮かべた。
「うん、そんな訳で、キミにはいままでのクラスにそのまま通ってもらうことにしたから。もちろん、女生徒としてね♪」
「ああ、性別が突然変わっちゃったことに関しては大丈夫。これまで男性として暮らしてきたけれど、実は遺伝子的には女性だったということが判明して身体も本来の性別に変化してきたってことで、教員たちには説明しておいたから」
「希なケースだけれど実際にもそういう人っているみたいだし、説得力もバッチリでしょ?」
「ああ、そうそう、戸籍とかの問題もあるからこの事はキミのお母様にも連絡させてもらったよ。電話で話しただけなんだけど、楽しい人だねぇ」
「『うひゃ、朔也が女の子? 嘘〜〜。そ、それでどんな感じっ!? 美人? 当然あたしに似て美少女よねっ!? ああもう、仕事が修羅場じゃ無ければ今すぐ飛んでいって、可愛い格好とかさせて一日中デートするのに〜』って大喜びだったよ」
「まあとにかく、これでキミが女性になった事に関して手続き上の問題はクリアーしたから。この女子の制服に着替えて、通い慣れた教室で新たな性別での学生生活をエンジョイしてくれぼはぁあああああぁッ!」
「何てことしやがるんだ、この野郎っ!!」
気がついたら全力で忍を張り倒していた。
「あいたたたたた、酷いなあ」
拳がヒットした途端、狐の姿となって吹っ飛び壁に叩き付けられる。
「か、母さんに知られた? いや、それよりも」
目を回しながらよろよろと起き上がってくる忍に尚も怒りの眼差しを注ぎながら、朔也はへなへなとへたり込んだ。
「この姿のまま、元のクラスにだって? 冗談じゃ無いぞ、そんなこと」
たった一人の肉親でありながら、常に多忙なため離れて暮らしている母親に知られたのは問題では無い。
昔から頭のネジが一本どころか全て弛んで外れかけているような母ならば、反応もそんなものだろう。
それよりも、どんなツラ下げてクラスメイトたちの前にこんな姿をさらせばいいのだろうか?
「こんなんじゃ、一人で他の学校に転校した方がまだマシだ」
ケイが作ってくれた朝食の美味そうな香りが漂ってくる。
しかし不安の余りまったく食欲が湧かず、朔也は愕然と視線を宙に漂わせていた。