第7話 黄昏の深淵
耳をつんざく喧噪の中、何かの間違いではと立ち尽くしてしまう。
「かあちゃん、はらへった〜」
「うるさいねっ! 父ちゃん帰って来るまで我慢しなっ!!」
子供の泣き声や、遠慮のない大声がそれぞれの部屋から溢れ出てくる。
「おや、ケイちゃんおかえり! 今日は男前のあんちゃんも一緒かい。そっちのべっぴんさんはお友達?」
「ただいま」
「こんばんは。妹がいつもお世話になってます」
立て付けの悪い薄戸を乱暴に開けて出てきた、割烹着姿の中年女性に軽く会釈する二人。
朔也もつられてぎこちなく頭を下げる。
一足ごとにギシギシと軋む床板。廊下を照らす裸電球。
まるでタイムスリップしたような気分に惑わされる。
いったい築何十年なのだろうか?
ケイに連れてこられたそこは、存在していることが奇跡のようなレトロ感漂うとかそんな表現では追いつかないほど古びた木造二階建てのアパートだった。
静寂に満ちた硝子張りの部屋で孤独に読書を嗜む。
そんな様子が似合うような美少女の居所が、騒々しいにも程があるボロアパートという事実に理解がついて行かなかった。
口をぽかんとさせる朔也に構わず、ケイは某有名RPGのアイテムそっくりな無骨な鍵を取り出し、ベニヤ板を貼り合わせたような粗末な扉の解錠をする。
立て付けが絶望的に悪いらしく、変な軋み音がするだけでビクともしない戸を、ケイは爪先で乱暴に蹴りつけながら一気に引き開けた。
「コツがあるの」
無表情のまま得意げに言う彼女に呆けた顔で頷きながら、朔也はいざなわれるまま部屋へと足を踏み入れた。
四畳半一間。入り口の脇に申し訳程度の台所が備えられている。
日に焼けて黄ばんだ壁が所々ひび割れた、お世辞にも上等とはいえない古めかしく時代がかった部屋。
当然風呂無しトイレも共同と思いきや、ユニット式のバストイレが設置されている。
「ええと、いい部屋だね……」
家具らしきものがほとんど見あたらず、小さなちゃぶ台がぽつんと真ん中にある。
薄っぺらい座布団を勧められおずおずと座りながら、朔也は心にもないおべっかをいった。
「うん。この部屋は好き」
ケイが頷いた。無表情な美貌が何となく嬉しそうに綻んだ気がする。
どこかの部屋から夕餉の香りが漂ってきた。
ぐう、と微かに腹の虫が鳴ってしまい、自分が空腹だったことに気づく。
それを見計らったかのように、ノックも無しに部屋のドアが元気よく開かれた。
「けい、これかあちゃんがつくりすぎちゃったから、みんなでくえって」
まだ小学校低学年くらいの腕白そうな少年だった。
恐らく先ほど廊下ですれ違った女性の子供なのだろう。顔立ちがよく似ている。
彼は朔也の顔を横目に伺いながら、美味そうな野菜の煮物がてんこ盛りになった深皿を抱え、慣れた様子で入ってきた。
その後ろから少年の妹らしいさらに小さな女の子がちょこちょことついてくる。
「いつも、ありがとう」
「べつに、き、きにするなって! それより、めしくいおわったらいっしょにゲームしようぜ!! こづかいためてあたらしいソフトかったんだ。おもしれえぞ!」
料理を受け取りながら無表情をほんの微か綻ばせて黒髪の美貌が礼を言うと、少年はほんのりと頬を赤く染めてわざと威張った口調でいう。
「なあ、おまえけいのともだちか? それならいっしょにゲームやってあげてもいいぞ」
突然話を振られて朔也が面食らう。
「う、うん、ありがと」
しまりの無い笑みを浮かべると、少年の顔がさらに赤みを帯びた。
(ん、なんで……?)
まじまじと見返すと男の子は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
人見知りな感じではないのに変だなと思い、はっと思い当たる。
(あ、オレ、女の姿だから、この子、照れてる……?)
確かにあのくらいの年頃なら、高校生の美人なお姉さんに見つめられたら顔の一つも赤くなるだろう。
しかしその対象が自分となると困惑してしまう。
少年は照れを誤魔化すように、傍らで女の子の方の相手をしている美少年を睨み付けた。
「あたし、おっきくなったら、しのぶくんのおよめさんになってあげる」
「それは嬉しいなあ。――痛ッ!!」
胡座の中にほっこりとはまって楽しそうな幼女の求婚を、気障な笑みで受ける。
その背中に少年の蹴りが容赦なく入った。
「いもうとになにいってんだ、ろりこんのへんたいやろうっ! そんなのおれがゆるさねえからっ!! ここはけいのへやでおまえんちじゃないんだから、さっさとかえれ!」
妹の手を引き寄せ、険しい眼差しで睨んでくる男の子に、美少年の胡散臭い笑顔が情けなく引きつった。
「おまえも、へんなおとこにひっかかるなばか! あんなかおだけのおとこは、かせぎもなくておんなのひもになるのがせきのやまだって、かあちゃんもいってたぞ!!」
「えー、びんぼうなのあたしやだ。ごめんね、しのぶくん。あたしやっぱりおよめさんになるのやめる」
「ひ、ひも……。ボクが……?」
もう美少年は心底がっかりだ。
「おまえにはにいちゃんがいいおとこみつけてやるからしんぱいするな。――じゃあな、けいとともだちのおねえちゃん。またあとでな。しのぶ、かえれっ!」
来たときと同様の唐突さで少年は妹の手を引いて、部屋を出て行った。
「ごはん、支度するから」
呆気に取られる朔也と、部屋の隅っこで膝を抱えて悲しい歌を口ずさみ始めた忍を横目に、ケイは相変わらずの淡々とした調子で台所に向かった。
(これから、どうなっちゃうんだろ……?)
この場の雰囲気のせいかようやく緊張が和らいだ気がする。
けれどふと目を落とすと、女らしく膨らんだ自分の胸が嫌でも視界に入る。
(悪夢だ……)
女性化した自分の身体に溜息をこぼし、朔也はますますの不安を募らせた。
「学園の事とか、これからの事は全てぼくに任せてよ。今までと遜色のない快適な暮らしが送れるように手配するから」
「はい……」
人ごとだと思って呑気な安請け合いをする忍に、気のない返事をする。
親身になってくれているはずなのに、忍を見ていると何だか調子の良いことを言って小金をむしり取ろうとするちんけな詐欺師を連想してしまう。
根拠の無い自信に満ちた薄っぺらい笑顔が、全く頼る気を起こさせない。
中性的な輪郭の細い顔立ちは、かなり美形な部類に入る筈なのに、何故だろうか彼からは残念な印象しか伝わってこなかった。
「愚兄の虚偽工作は天下一品。口から出る言葉の八割方が嘘なだけの事はある」
訝しげな眼差しで忍を見詰めていると、台所でガスコンロに掛けた鍋を掻き回しながら彼の妹が言う。
全然褒め言葉ではないのに、忍はどうだといわんばかりの得意気な表情を浮かべる。
これ以上彼を相手にする気になれず目を逸らすと、黒いタンクトップとスパッツの精悍な格好の上にエプロンを着けた姿で、ケイが料理を運んでくる。
「カ、カレー?」
スパイシーな香りが食欲を刺激する。
お裾分けにもらった煮物と味的にはミスマッチ感はなはだしいが、彼女は気にした様子もなく食卓に並べた。
差し出された皿に大盛りにされたご飯。その上に大きめの乱切りにされたじゃがいも、にんじん、タマネギと、鶏もも肉がタップリ入った熱々のルーが掛けられている。
思わず朔也はぐびりと生唾を飲み込んだ。
「わたしの手作り。厳選された三十八種類のスパイスが決め手。召し上がれ」
「犬神、料理得意なんだ。すごいな……」
あまり食には興味を示さない印象だが違ったらしい。
教室での姿とも、戦っている時の様子とも違う、新たな彼女の一面に感心していると、
(あれ? さっきは左右の目の色が違っていたのに……)
人間離れしていた彼女の右目が、先程と違うことに気付く。いまはどっちも同じ、深い緑色だ。
状況によって変化するのだろうか?
「熱いうちに食べて」
料理を前に彼女の瞳を見詰めていたら急かされてしまった。
気がつくと忍はどこかに電話を掛けていて、先に食べてくれと仕草で促している。
「あ、うん、じゃあ、いただきます」
スプーンを口に運ぶと、
「――――こホぁあッ!!」
カレーが舌に触れた途端、何もかが吹っ飛んだ。
(な……に、これ……。カレー、って……。激、辛い。いや、これはもう……痛いッ!)
舌に無数の画鋲を押し付けられたような、壮絶な痛辛さに否応なく全身が痙攣する。
意識が一瞬飛んだのだが、焼けるような激しい痺れに舌を攻め続けられすぐ目が覚めた。
いっそそのまま気絶していたかった。
冗談じゃなく辛い。辛すぎる。
しかもその辛さが収まる気配もなく持続している。
カレーは兵器。そんなフレーズが脳裏に浮かんだ。
「味はどう?」
ケイが感想を求めてくるが、唇も舌も一瞬で麻痺して言葉なんか発せられない。
ただ首が意思に関係なくカクンカクンと激しい縦揺れを繰り返してしまう。
「そう、よかった。いっぱいあるからおかわりして」
カクンカクン。誰か止めて、オレの首。
「なるほど、やはりぼくが直接いかないとだめだな。これからすぐに向かうから待っていてくれ」
ようやく忍が電話を終える。
というか、気のせいじゃなければいま閉じた携帯、始めから電源が入っていなかったように見えたのだが……。
「ああ、すまないねケイ。折角夕食を作ってくれたのに。朔也君の今後のことで、大急ぎで出掛けなくてはいけなくなった。カレーはまた今度の機会にごちそうになるとするよ」
兄だけあって当然このカレーの殺人的辛さを知っていたのだろう。
あからさまにこの場から逃げだそうとしていた。
しかも朔也に関する事柄をダシにしてだ。
具体的にどういう用件で何故彼が直に赴かなければならないのか教えて欲しい。
電源を切ったままの携帯で、存在するのかも分からない誰かと交わしていた、その話の内容を聞かせて欲しい。
異様なほどの素早さで帰り支度を整え、部屋を後にしようとした忍だったが、
「愚兄も、カレー食べていって。たくさん作ったし、お隣に煮物も頂いたから」
それ以上の素早さで妹が立ちはだかっていた。
しかも忍の首筋に出刃包丁が突き付けられている。
「は、はい……。――今日は無事に帰れると思ったのにッ」
恨めしげに呟きながら腰を下ろすと、忍は震える手でスプーンを手に取った。
「ううう……いただきます……」
もはや涙声だ。
カレーを小さくひとすくい、口に運ぶ。
「――むぎひぃっ!!」
奇声を上げて、全身を硬直させた。
水を一気に飲み干し、それでも全然辛さが治まらぬと見えて煮物の野菜を慌てて頬張る。
他の味付けの料理でいくらか緩和させようという作戦だ。
「んがぐぐっ!! うぐぐぐぐぐぅううっ!」
しかし焦って丸ごと口に放り込んだせいか、喉を詰まらせてのたうち始める。
(うわぁ……)
朔也もまだ口中の痺れが治まらぬままで、忍の狂態を青ざめて見守る。
「けい〜、メシくいおわったか? ゲームやろ……ぎゃぁあっ、けいのカレーだっ!」
先ほどの少年が部屋に飛び込んでくるが、食卓の料理を目にして大慌てで逃げ出した。
「うわぁあああぁんっ! けいちゃんのカレー、こわいぃ、しんじゃうよぉおおおっ!!」
彼にくっついてきた幼い妹も、泣きじゃくりながらあたふたと兄の後を追う。
「後で煮物のお返しに、お裾分けするから」
その兄妹に殺人予告にも似た言葉を投げかけると、ケイは自分の皿のカレーを小さな口いっぱいに頬張った。
「今日は辛さ控えめ。このくらいが一番味わい深い。カレーの美味しさがよく分かる」
一口食べただけで朔也も忍も顔面蒼白、全身汗びっしょり。
二人が朦朧と見つめる中、少女は無表情な美貌を微かに楽しそうに綻ばせ、人知を越えた辛さのカレーをあっという間に平らげた。
しかも二杯目を早くも山盛りによそりながら、責めるような眼差しを注いでくる。
何故食べぬのか? 味に不満でもあるのか? と。
何故と言われても食えません。
味とかそういうこと以前に、身体が全力で拒否してます。
こんな辛いの食べたら死んじゃうって。
それでも無表情な顔立ちの妙に迫力ある眼差しに耐えかねて、朔也も忍も仕方なく爆辛カレーを口に運び続ける。
そのたび悶絶しながらどうにか一皿は完食してのけた。
「人間、やへばれきりゅものなンれしゅね」
「ああ、れもね、ほのカヘー、何度食べへも、れンれン慣へないひょ。口にしゅる度、死の淵が見へうはら……」
唇をタラコのように太く腫らし、血走った目に涙をいっぱいためて、呂律の回らぬ口調で互いを哀れむ。
しかも、んの発音がカタカナっぽくなってしまう。
その二人の前に、
「食後のチャイ」
「――ひいっ!」
「うへぇっ!!」
ホカホカと湯気を立てる熱々のカップが差し出された。
スパイスとミルクが混ざり合った、甘く刺激的な香りが鼻孔をくすぐる琥珀色。
そこには入れ立てのインド風紅茶が、なみなみと注がれていた。
「こ、これは……」
思わず呻き声が漏れる。
本来ならば食後の一時を穏やかにさせる至福の一杯になるはずだ。だが今は……。
自分の吐息さえも熱風に感じるほどデリケートになった口中に、こんな熱い飲み物を一滴でも含んだらどうなるのかは目に見えている。
極度の辛みは熱い液体をマグマのごとき灼熱へと増幅させる。
「がんばって練習して美味しく煎れられるようになった。飲んで」
物静かな無表情美少女に勧められて、断れる男など存在しない。
「ふぉぎぇぇええええええぇっ!」
「つぉごはぁあああぁ――――っ!!」
どうせなら苦しみを一瞬で終わらせようと思ったのだろう。
浅はかにも一気に飲み干す二人のこの世の物とは思えない悲鳴が、老朽アパート中に響き渡った。
「はひょはへふぉへんふぉふっへ、ひょんへふンは。ほふはは……」
「はい……?」
しばらく経ってダメージも癒えたのだが、少し気を抜けば呂律が回らなくなってしまうらしい。
眉間にしわを寄せた真剣な顔つきで口を開いた忍の言葉はさっぱり分からない。
「失礼……。黄昏の眷属。人の姿を取りながら人に在らざる彼の存在を、ぼくらはそう呼ンでいる」
氷水を一口含み、麻痺した舌を和らげると今度ははっきり聞き取れるように言う。
どうやら、このあり得ざる状況へと至った原因を説明してくれるらしい。
これまで知るのが恐ろしくて尋ねられなかった、しかし知らなければならない事柄。
「黄昏の……眷属……」
「そう。妖怪、化け物、あやかし、鬼、悪魔、魑魅魍魎、そして……、神」
「古来より伝説やお伽噺などであるときは畏怖を以て、あるときは面白おかしく語り継がれてきたこの世ならざるモノ」
「現実には存在しないとされ、しかしみな心の奥底で恐れおののいてきた。人の知る理から外れた者ども」
「そのなかでも最も忌まわしい、人を喰らい、喰らった身を器として纏う。人の姿を奪い真似るヒトに在らざるモノたち」
「ぼくらは奴らを呼ぶ。黄昏の眷属、と」
軽薄な態度から一転して、犬神忍が重々しい口調で語る。
自分がいままで信じて過ごして来たごく当たり前の世界。
その日常の裏に潜んでいた超常の存在に、朔也は改めて息を飲む。
もし一日前にこんなことを聞かされていたら、よく出来た作り話と笑い飛ばしていたに違いない。
自分自身がその黄昏の眷属に襲われ、性別が変わるという経験が無ければ、俄には信じられなかった。
(まてよ、じゃあ、いままでにもあんなことが……!?)
脳裏に浮かぶ赤黒い光景。
目映い夕暮れの中、血塗れで折り重なった骸の山。
人を喰らい、肉体を奪った人外の者たちの遺骸。
その中で鮮血の刃を携え佇んでいた、物静かな少女の顔を瞬きもせず見つめる。
これまでにもケイと、そしてあの拳銃使いの少女は沈みゆく夕日の光の中で、人を喰らう魔の者たちとの人知れぬ戦いを繰り広げてきたのだろうか?
朔也の視線に気づくとケイは、表情に乏しい顔立ちで少し不思議そうに小首を傾げた。