第3話 人喰らい身を奪う者
赤く焼けたような西の空が闇に浸食され、頭上に広がる夜空に月が朧に輝く。
鼻腔に染みついた血生臭い香りを清めるような、涼しい風が頬を撫でる。
野晒しでひび割れた屋上の石畳の上へ、朔也は無造作に投げ落とされた。
「男の身体か……。でも選り好みしてる余裕はないわね。ガンスレイヤーのヤツ、すぐに来るだろうし」
大量の出血で少女の顔は死人のように蒼白だった。
手足を一本ずつ立て続けに失うという重傷である。
それなのに少し苛立った口調にそれほどの苦痛は表れていない。
さっきからまさかと思っていたが、いまハッキリと確信する。
(この娘、人間じゃない……)
震える脚でへたり込んだまま、朔也は大怪我を負って平然としている少女の異様な姿を見上げた。
乾いた喉から声を絞り出す。
「ガ、ガンスレイヤーって、さっきの女の子……? 死んじゃったんじゃ」
目の前の人外少女が放った何か強烈な攻撃を頭部に受け、巨大な銃を両手に握ったまま仰向けに倒れピクリとも動かない様は、即死したように思えた。
だが片手片足の娘は、朔也の問いに冷笑で答える。
「ふん。あの程度で最悪の化け物が殺せれば苦労しないわよ。ほんの時間稼ぎ程度にしかならないわ」
どう見ても普通の人間とは思えない少女が、化け物と恐れる。
金色のツインテールをなびかせるあの彼女もまた、人外の存在なのだろうか?
ほんの数十分前までなんの変哲もない日常のなかにいたというのに、悪夢としか思えない世界に紛れ込んでしまった。
「だから一刻も早く、お前の身体をいただかなくちゃ」
言葉を失う少年へと、人に在らざる少女が心を凍てつかせるような笑みを死相に浮かべて屈み込んできた。
「男にしては可愛い顔してるし。きっと女の子になっても違和感ないと思うわよ。気に入ったら、このリリアムがしばらくの間使ってあげるから、光栄に思いなさい」
「な、なにを!? う、うわ!! あ、ああぁ」
唇を重ねられた。
(えっ! う、嘘ッ!? こ、これって……キス!?)
女の子との口づけ。
それは朔也にとって初めての経験だった。
状況が状況ならば、なによりも嬉しい。そのはずだ。
しかし、片手片足を壮絶な銃撃に吹っ飛ばされ、それでも平然と行動する少女が相手。
その彼女の口腔に溢れた吐血が流れ込んできて、鉄錆のような血生臭さでいっぱいにされる。
ねっとりと密着したその娘の唇は屍のように冷たかった。
全然気持ち良くなんか無い。最悪のファーストキス。
それなのに、拒めなかった。
尋常ではない危機感に逃げなくてはと思うのだが、触れられた瞬間身体の自由が奪われて指一本動かせなくなった。
そして、
ぞわりと、一斉に沸き立つように、身体中の細胞がおぞましい変異を開始し始めた。
(な、なんだっ? これっ! から、だ……、おかし、い……)
奇妙な感触だった。
苦痛を感じている訳ではない。
ただ、身体の全てが自分の物ではなくなるような……。
何か全く別の存在へと細胞の一つ一つが書き換えられてゆくような、壮絶な違和感に支配される。そして……。
(くぅ、あ、あああぁ……。は……入って、来るなぁあっ!)
異質な言語。
異質な思考。
異質な記憶が、
無理矢理に脳を蝕んでゆく。
リリアムと名乗った少女の精神が、中へと押し入って来て、朔也の精神を暗黒の無へ追いやってゆく。
いま、この段になってようやく、彼女の言葉の意味を知る。
『新しい身体に乗り換えるから……』
この少女はいまの自分の身体を捨てて、朔也の肉体を乗っ取ろうとしていた。
その過程で、人間としての朔也の肉体を、彼女本来の存在である人外のものへと作り替えている。
(い、やだ……。こんなの……ッ! で、出てけ……っ!!)
叫ぼうとするが呻き声さえ上げられない。
血糊を粘つかせて濃密に重なり合った唇から容赦なく流れ込んでくる存在に、自分が奪われてゆく。
もしかすると、
見る見るうちに生気が失せてゆくこの少女の肉体も、
本来の持ち主から奪い取られたものなのだろうか?
今度は自分が、
彼女、リリアムと名乗った何か異質な存在に、
身体を好き勝手に使われて、
そして傷を負って使い物にならなくなれば乗り捨てられてしまう。
(いやだっ! 嫌だッ、嫌だッッ!! イヤだぁあああぁ————ッ!)
薄れゆく意識。
身体の感覚が無くなってゆく。
「た……すけ……て……」
最後の力を振り絞り、掠れた一言を搾り出す。
それがやっとだった。
如月朔也という人格がこの世界から跡形もなく消滅しようとしたその刹那に、
「——ッ!?」
音もなく、気配もなく、漆黒の影が出現していた。
逆手に握った大振りのナイフ。闇のように黒いその刃が一閃する。
「がっ!! あ、あ…………」
魔の口づけから解放された。
驚き見開く目の前、
ゆっくりと転げ落ちてゆく。
驚きに目を見開いた口づけ少女の頭部が、胴体から。
切断されていた。首が、すっぱりと。
鋭利な切り口が何かの冗談みたいだ。
ぐしゃっ、と床に落ちたその頭を、頑丈そうなコンバットブーツが踏みつぶす。
遅れて倒れる片手片足の胴体は、もうぴくりとも動かない。
当たり前だ、頭を切断されたのだから。
その光景をぼんやりと眺めながら、朔也は少女の意識に侵食され消えかかっていた自分の意識が、元に戻っていることに気がついた。