第29話 発動
刃が心臓を貫く寸前、硬直したかのように二人共に動きを止める。
「ちからが欲しいっ! オレに、力をっ!! 戻って来いっ、この身に芽生え育った、叡智の果実ッ! オレの、知恵の実!!」
身体を苛む喪失感が、無力を嘆き力を渇望する激しい感情と結びついた。
奪われ、いまは他者の胎内に収まってしまった愛しきモノへと命じた刹那、
「なにを? ああっ、うそっ!」
驚愕美貌を強張らせるハストレアの、色香を溢れさせるプロポーションの下腹部から、穏やかに鼓動する真紅の球体がゆっくりと現れ出た。
眷属の姫の肉体を得ることとなってしまった朔也から、主に恋慕を抱く護衛者、ハストレアが我が物として奪い取った超常の果実。
主の妃となるものの証である、
“知恵の実”。
「あ、ああ、あぁ、は、入って、来る……ッ。はぁうッ」
在るべき箇所に戻ろうと、自ら朔也の下腹部に埋まり来る。
その全ての細胞が甘露で潤いゆくような至福の感覚に、朔也の喉から少女の声での悩ましげな溜息が溢れ出る。
男の肉体にはあり得ない、女の身体となって有した器官へとその輝きがたどり着き、収まった瞬間に得も知れぬ甘美が沸き立ち、身が震えた。
「も、戻った。オレの中に……」
その身に収まった輝きに導かれるかのように、両手を掲げる。
封じられたこの場から、出たいと心に願ったその刹那、
薄氷が砕けるように、教室を取り巻き外界から遮断していた結界の壁が崩壊した。
だがその事態にも気がつかぬ様子で、ハストレアは爪を収めた両手で下腹を押さえ、愕然と立ちすくんでいた。
「ひう、あ、あぁあああああああああああああぁっ! 知恵の実……がっ、私の知恵の実がああっ!! な、無くなって……、あああああああぁッ!」
悲痛な叫びを迸らせ、耐え難い喪失感に身悶える。
「返せ、それは、私のものだぁあっ!!」
狂乱の眼差しで取り乱し、奪い返さんと女体化の少年に躍り掛かる。
「だめ」
その背後、血溜まりに伏していた少女が気配もなく立ち上がっていた。
蒼白となった美貌を血に染めて、息も絶え絶えに呟く。
しかしその声も耳に入らぬ様子で朔也に迫り行く女眷属の背中へと、両手でしっかりと握り締めたナイフを身体ごとぶつかるように突き刺した。
「うぐぁっ!! アビスウォーカーッ」
突然の激痛に膝を着き、今初めて気がついたらしく驚きの表情で振り返る。
「い、犬神ッ」
息絶えたかと思っていた。
(生きててくれた)
夥しい血を流し倒れ伏す姿を目にしたときに心を染めた絶望が、安堵へと変わりゆく。
だがハストレアへの奇襲で力尽き、彼女もまたその場にへたり込んでしまった。
「しぶとい、目障りな、暗殺者め」
今度こそ確実に仕留めようと、女眷属の指先に刃が煌めく。
「や、やめろおおっ!」
朔也が駆け寄ろうとするが、
「ばかっ!! 何するつもりよ!?」
「えっ? うわあっ!」
龍姫に襟首を捕まえられた。返事をする間もなく腰に手が回された。
遙かに小柄な身体だというのに片手で朔也を脇に抱え上げると、金髪ツインテール娘は素早い跳躍でハストレアの頭上を飛び越す。
着地と同時、剣呑な爪刃が儚げな少女を切り裂く寸前に、もう片方の腕でその細腰を抱え上げる。
「逃げるわよ!!」
小柄な身体で両脇に朔也とケイを抱えたまま、ガラスを蹴り割って窓から外へと身を躍らせた。
「おわっ!! ああああ!」
地上四階。
錬気を操る者にとっては例えそのまま着地してもどうということない高さだが、普通の人間の感覚が強い朔也は焦ってしまう。
結界が消えた今、その叫びと硝子が砕けた音が校庭で部活に励む生徒たちの注意を引く。
しかしそれを叱る暇も無く、空中で龍姫が意識を集中させていた。
外界と遮断され枯渇しかけていた錬気が、淡い輝を放って一斉に彼女に集まり来る。その輝きが背中に集まり、
「舞え! 銀揚羽!!」
銀の鱗粉を輝かせる巨大な蝶の羽となって開いた。
「歯を食いしばってしっかりと掴まりなさい。全力で飛ばすわよ!」
「へっ!? おわぁあああああっ!!」
警告と同時に、凄まじい衝撃が朔也の全身を見舞った。
追撃してきた女眷属の攻撃を受けたのかと思った。
しかし伺い見た龍姫の顔に焦った様子は無い。
いつの間にか、眼下の景色が学園の校庭からまったく違うものとなり、もの凄い速度で後ろに流れて行く。
遙か後方で、ドゴーンと重々しい轟音が鳴り響いた。
「あ、あれは?」
「音の速度の壁を突破した衝撃波よ。更に加速するから、舌噛まないように黙ってなさい」
押し寄せる空気が轟音を奏で耳を聾するなか、龍姫の声が微かに届く。
「音の、速……度……? ぐはああっ!!」
全身を軋ませる凄まじいGが更に増した。
押し寄せる空気の壁が更に激しくなり、息が出来ない。
(助け……て……。死……ぬ……)
眷属に捕らえられた時よりも、鋭い爪を突き付けられた時よりも、朔也は龍姫の腰にしがみつくいまこの瞬間に、命の危険を最も感じていた。




