第19話 龍姫と忍
いつもと変わらぬ人混みが眼下で忙しなく流れゆく。
ビルの屋上。
落ちればひとたまりも無い鉄柵の外側。
常人であれば高さに目が眩むような場所に腰掛けて、一条龍姫は町を見下ろしていた。
(あたしは甘いのかな? 何があっても絶対に討滅してやるって決意したはずなのに。結局はヤツの存在を許してしまった。襲来した眷属共々、撃ち倒してやるべきだったのに!)
「錬気の操り方教えるなんて、無理に決まってる」
何を考えているのさっぱり分からない無表情女。
妙に自信たっぷりなあいつの態度を、思い返しただけでむかむかしてくる。
こんな気持ちのまま家に帰るのが嫌で、一人になれるこんな場所で時間を潰していた。
「まあいいわ。どうにもならずあいつが正気を失ったら、そのときは確実に護砲童子の餌食にしてやる。もう絶対に邪魔させない!!」
イチゴ牛乳の空になった紙パックを握りつぶす。
蕩けるような甘さでもこの憤りを和らげてはくれなかった。
手のひらを開くと、淡い錬気の輝きが炎のようにその潰れた紙パックを包み込み、一瞬で跡形もなく燃やし尽くす。
「そこをどうにか見逃して、力を貸してくれないかな」
背後の空間が揺れた。
何もない虚空から前触れもなく美貌の少年が現れ出て、背中で束ねた長い黒髪を屋上の強い風になびかせる。
「冗談じゃないわ。なんであたしが、いつ人を喰らうようになるかわからない変転者に手を貸さなくちゃならないのよ?」
その忍へと振り返りもせず、すげなく言葉を返す。
ほんの少し踏み外しただけで地上へ真っ逆さまな狭い足場で、何かに掴まることもせずすっくと立ち上がると、制服のスカートを翻し柵を跳び越える。
小柄な体つきから威圧的な気配を溢れさせ、宝石のように鮮やかな青の瞳で忍を睨み付けた。
「あたしの仕事は眷属を討滅すること、それだけよ!」
不機嫌に吐き捨てると、少年の傍を通り過ぎて立ち去ろうとする。
「同じ変転者の君なら……。眷属に受肉されかかり、身体を人に在らざるものへと変えられた君ならば、朔也くんを救ってあげられるんじゃないかな?」
擦れ違う瞬間に、忍が絞り出すような声で尋ねる。
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龍姫の歩みが止まった。
「そうよ。あの苦しさを知っているから、あいつには無理だってわかるのよ! あたしに何も出来る事なんて無い!! そんなに助けたければ、あんな無表情女なんかに任せておかないで、あたしの時みたいにあんたがっ。忍……に、兄さまが、晶姉さまと一緒に助けてあげればいいじゃないの!!」
狂おしい記憶。人としての命が尽き、人に在らざるモノへと肉体が変転したあの日。
いまでも、思い返す度に胸が締め付けられるように苦しくなる。
その時にさしのべられた手の温かさは、いまでも忘れられないというのに……。
生まれた国も違う自分を妹として受け入れてくれた。
その少年へと背を向けたまままで声を荒げる少女の、細い肩が震えていた。
「龍姫……。ぼくはもう一条の人間じゃない。君に兄と呼んでもらえる資格なんて無くなってしまった。それに晶は家を捨てて出て行ったぼくを決して許してくれないだろうから、頼みごとなんか聞いてもらえ無いさ」
バツの悪そうな顔で囁く。
その言い訳じみた口調に、龍姫はツインテールに纏めたブロンドを跳ね上げて振り返った。
憤りを宿した碧眼が、美貌の少年をキッと睨め付ける。
「なん、で……。どうして一条の家から出て行ったのよ!? しかも、犬神の! あんな外道な式術使いの家に入るなんてっ!! 晶姉さまだけじゃ無い! あたしだって怒ってるんだから。忍兄さまの頼み事なんか、あたしだってっ!!」
感情的に声を荒げ食ってかかる。その時だった。
「——!! な、なに?」
「これは……」
錬気。
人の体内を循環し生命を司る気の力を、森羅万象が有する気の流れと同調させ練り上げることで超常の現象を意のままに行使する能力。
その強烈な波動が、駅向こうの住宅街から激しい勢いで押し寄せてきた。
一つは敵。人に在らざる怪物、黄昏の眷属のもの。
そしてもう一つは、
「アビス、ウォーカーっ!」
「ケイ……。まずいな、これは」
存在感を極限まで薄れさせ気配を無にすることで敵を翻弄する。
そういう戦い方を得意とする無表情な少女の自分の居場所を喧伝するかのような行為に、二人は顔を見合わせるとビルの屋上から飛び立った。




