白き鎧 黒き鎧 二次 《星影の慕情》
本作品は、つづれ しういち様の作品『白き鎧 黒き鎧 外伝 《黒焔の王》』の二次創作です。
ご本人の許可を得て書かせて頂いておりますので、よろしくお願い致します。
詳細はお手数ではありますが、小説情報よりあらすじをご確認ください。
深夜。ノエリオール王宮の尖塔。
その頂きへと続く螺旋階段を、傲然と――ともすれば駆け上がるかの如き勢いで、長めの黒髪を躍らせながら少年、サーティークは歩いていた。
この塔へ来る時は、誰の目にも留まらぬよう、気配を消してのことが常である。
しかし、このときの彼は、己の胸中に渦巻く感情から逃れるように、焦燥に駆られるまま足を早めていた。
……何故だ。
柳眉はさかだち、口は真一文字に引き結ばれている。ちりちりと焦げ付くように灯を宿す黒い瞳は、ひたすらに前を見据えていた。
……どこで間違えた。
手にした燭台を握る手に力がこもる。か細い光は戦慄き、階段に並ぶ小窓から微かに差し込む「兄星」の輝きとともに、暗い道を心細げに照らしていた。
……手抜かりなどはなかった、はずだ。
足を進めながら、彼はその聡明な頭の中でこれまでの経緯を振り返る。しかし、幾度となく考えに考えたが、思考は袋小路から抜け出せなかった。
やがて、最上階への入口が見えて来る。そこを抜ければこの暗い迷路から抜け出せるのではないかと、埒もない予感に突き動かされるまま、彼はとうとう最後の階段を駆け上がった。
そして、階段を上り切ったところで、はたとサーティークは立ち止まる。
広く開いた窓辺に、こちらに背を向けて立つその人の姿を見つけたためだ。
取り決めがあったわけでも、約束をしていたわけでもない。
いてくれなくてもよいとは思っていた。ここに来れば、この胸の疼きも少しは鳴りを潜めてくれるのではないかと期待してのことでしかない。
しかし、彼はそこにいた。
上着の代わりに羽織ったマントをきりりと伸ばした背に流し、穏やかな気をまとっている。
「やあ、こんばんは」
そして、サーティークが声を掛けるまでもなく、その人は温かみのある低い声を響かせると、緩りと振り返って優しく包むような微笑みを見せた。
気配を隠すでもなく乱暴に階段を上って来たのだ。そうでなくても、とっくに彼は少年の気配を察していたに違いない。
無条件にこちらの全てを受け止めてくれるのではないかという気さえする彼の笑顔を目の当たりにして、サーティークの胸の狂騒は、にわかに鎮まった。
彼のその立ち姿は、サーティークの父である国王陛下ナターナエルそのものである。しかし、今はその中身――人格は別人だ。
夜着の上に羽織ったガウンを胸元に引き寄せ、サーティークは背筋を伸ばして一礼を返す。
「……こんばんは、ムネユキ。少し考え事をしたいと思ってな……邪魔をしてもかまわないか?」
父の姿をしたその人を、サーティークは父ではない名で呼んだ。言葉遣いも砕けたものである。
彼の声を受けた宗之は、にっこりと笑みを深め、「もちろんだとも」と頷いた。
「実を言うと、そろそろ君が来るのではないかと思っていたところでね」
言いながら、宗之は窓辺に置かれた長椅子に腰を下ろし、空いている隣を軽く叩いた。
ふと、サーティークの頬が苦笑に緩む。何となく見透かされた風がしないでもないが、悪い気はしなかった。
宗之の誘いを受け入れ、サーティークは彼へと歩み寄ると隣へと腰掛けた。燭台を脇に置いて膝の上で両手を組み、その横顔をそっと盗み見るように視線を動かす。
何かこれといって話すわけでもなく、宗之は優しげに茶色の瞳を細めているばかりだった。そこに含みのようなものはなく、彼の側にいるだけでサーティークの心に穏やかな波が広がっていく。
……しかし、何故だ。
だが、それも長くは続かず、また彼の胸中には堂々巡りの思考がふつふつと浮かび上がり始めた。
今日開かれた新年を祝う宴の席でのことである。
それは、宴と並行して行われていた既に定例行事と化している、王太子殿下のお妃選びの「夜会」が終わる時でもあるはずだった。
父母の前で、各地から我よ我よと群がる貴族どもの前で、他ならぬ己が宣言することで、このくだらない「夜会」に終止符を打つつもりであった。
雛壇に上がる、自分が送った橙色の髪飾りをした少女に手を差し伸べ、彼は言った。
――俺の、正妃にならないか。
誰にも文句は言わせぬよう、最大限に手は尽くした。
逢瀬を重ねる中、少女から自分を恐れる心の「障壁」とでも言うべき部分は、取り払っていたはずであった。
互いの気持ちが寄り添っていることも感じていた。
後は当人が首を縦に振りさえすれば、それで事は成立する。
そのはずであったのに。
石のように固まり、見つめる鳶色の瞳に微笑みかけた――次の瞬間。
石化の解けた瞳が震えたかと思うと、ぱっと踵を返して少女は桃色のドレスの裾を振り乱し、恐ろしい勢いで走り去ってしまったのである。
誰もが唖然としている隙に、止める間もなく彼女の姿は広間から消え失せた。
水を打ったような静けさに包まれていた広間は一転、壮絶な喧騒に支配された。
やれ、あの娘は誰なのか、ただちに追えとか、ひっ捕らえろだの――物騒な言葉が飛び交う中、少女を隣で見守っていた彼女の兄が一瞬目を合わせると、誰よりも先に疾風のごとく駆けて出した。
かっと燃やされたその目は、「お前はこの場の事態を何とかしろ」と言っていた。
その後、暴徒と化しかけた広間の来賓たちをなんとか形の上では鎮めたものの、サーティークは宴どころではなくなった広間を早々と辞することになった。
そうして自室にて頭を抱えて煩悶し、今に至る。
……何故、逃げてしまわれたのだ……レオノーラ嬢!
口から鉛のような吐息が零れる。あれはもう、誰の目から見ても明らかであろう。
王太子殿下はかの少女婚姻を迫り、袖にされた。
まさか、彼女がそのような醜聞を目当てに自分を翻弄していたのかとまで考えたが、そんなことは万が一にもありえまい。
女の強かさ、その胸の内に潜ませた野生の獣の如き狡猾さとでも言うべき部分を、サーティークは「夜会」において嫌と言う程見せつけられていた。
そして、彼女の純朴さはそんなものとは無縁である。でなければ、ここまで自分が惹かれることはなかったのだから。
もしも仮に、億が一にでも彼女に謀られていたというのであれば、女というものに関わるのは金輪際御免こうむりたいところだ。
と、そこまで思考を巡らせたところで、サーティークは隣から微かな笑い声を耳にした。
一瞬耳を疑い、顔を横に向ける。すると、父王の姿をした彼が、口元に手を添えて忍び笑いをしているのだった。
「何がおかしい?」
彼は敬愛する御方ではあるが、これは流石に見過ごせない。サーティークはむっと半眼になって詰問した。
「いや、すまない。大人びてはいるが、君も若いのだなと改めて思ってね」
宗之が何を言いたいのかサーティークは判じかね、首を傾げる。決して馬鹿にされているわけではないのだろうが、胸に靄が掛けられたようで気持ちが悪かった。
「サプライズは……失敗したときのことを思うと考えものだね」
「サプ……なんだと?」
おそらく彼が過ごしていた「向こうの世界」の言葉なのだろう。聞いたこともない単語にサーティークは眉を顰めたが、大凡の意味は掴めた気がする。
失敗した。要は、その手の告白を指す言葉ということか。
「まあ、なんというか……大変だったね」
「ふん、大変で済めばよい方だと思うがな……」
苦笑を浮かべる宗之に慰めにもならない言葉を掛けられ、自嘲気味に呟き項垂れる。
「それで、考えはまとまったのかい?」
「わからん。しかし、もうしばらくは、妃選びなどはできる気がしないな。父上には申し訳ないことだが……」
近ごろでは父王が「謎」の頭痛に悩まされる頻度が上がり、体調の優れない日が多くなっていることはサーティークも知るところだった。
その「謎」の原因を知っている以上、こうしてこの場で彼と話せる機会もそう多く残されていないのだろうと否が応でも思わされる。
サーティークはただ一人の嫡子である。側室を持たぬ父王にもしものことがあったときのために、王太子である自分に早くお世継ぎをと望まれるのは無理からぬことだった。
その方々からくる圧力を煩わしく、下世話でつまらないことだと個人の感情で断じることはできない。父の耳にも、そうした心配の声は届いているはずだ。普段からおくびにも出さないが、その心労は自分の比ではないだろう。
だからこそ、この婚姻が上手くゆけば、少しでも父のお心の負担が取り除けるのではないかという思いもあった。
「まったく……ムネユキの言う通り、失敗だな。もういっそのこと、妃など誰かが適当に選んでくれれば手っ取り早いものを」
王太子として、この件が国の存続に関わる最重要事項であり、避けては通れぬ問題であることは承知している。さりとて、では次の候補をすぐさま探そうなどという気には到底なれない。
寄って来る者が望むものは、あくまでも王太子の妃としての地位であり、サーティークの心ではない。
寒々しく、胸の疼きは止めようもなく続いている。
臣下たちも心配しているのはあくまでも国のこと。ならばいっそ、嫡子が欲しければ側室でも何でも設け、種だけでもくれてやればこの騒ぎも収まるのではないのか。
「……そう短慮を起こすものではないよ。生涯の伴侶とは、君の人生を左右する大切な人となるんだ。もっとよく考えなければ」
「――っ、考えたぞ。考えた結果が、これだ!」
落ち着いた宗之の声が、不意に心を逆撫でしてサーティークは声を上げていた。ちょっと驚いた顔をするその目を見つめ返しながら、何かを堪えるように歯を噛み締める。
父と同じ顔をしたこの男になら何を言っても構いはしないと、そうした甘えがあったのかもしれない。やがてサーティークは己を恥じ、目元を隠すように宗之から顔を背けた。
しかし、言い返したこと自体に後悔はないし、己は間違ってはいない。いかに敬愛するもう一人の父とも呼べる相手であろうと、こればかりは譲れることではなかった。
「……やれやれ、思ったよりも重症みたいだね」
そして、しばしの沈黙が流れた後、そんな風に隣から落ちてきた声は多少困惑の色を含んではいたが、やはり落ち着いたものだった。
「サーティーク」
「え……」
不意に名を呼ばれ、サーティークは顔を上げ、目を見張った。
清らかな泉のごとき静謐さを湛える宗之の微笑みが、窓辺から差し込む夜の輝きに薄く照らされている。
彼は、そっと手を伸ばすと、サーティークの癖のない黒髪を梳くように、数度頭を撫でつけた。
「私も教えてあげられる程に経験が多いとも言えないが、初めてなら痛いだろうね」
「何を言っている……?」
突然の行為に、サーティークはやや狼狽えた声を出す。そんな彼の疑問に目の前の男は微笑みを返すばかりで、気付けば頭に添えられていた手が肩へと降ろされていた。
そして、その胸へと引き寄せられ、深い温もりに包まれる。
「――――」
サーティークは声を失った。抵抗することも忘れ、ただただ呆然と抱擁を受け、なすがままになっている。
夜着を越えて感じる厚い胸板と、自分の頭を――背を軽く叩くように撫でる無骨な両手の感触。病によって随分と衰えを見せ始めてはいるが、そこにはとても逞しく、懐かしい匂いがあった。
こうして誰かに抱き締められることなど、果たして記憶にあっただろうか。
王太子として、幼き日より決して甘やかされず教育を受けてきた彼にとって、親とは敬愛すべき対象ではあるが、そうした甘えに繋がるものではなかったように思う。
それ故に、堪えた。
「すまないね。こんなことは、息子の煌之にもしてやったことはないんだけど……見ていられなくてね」
まあ、こんなことをしようものならその手前で顔を顰めて逃げられるかな、と何処か寂しげな様子を滲ませた笑いが落ちる。
「嫌なら離れてくれ。けど、今は男同士で、二人きりだ。君の好きにして構わないよ」
じわり、と彼の言葉は沁みた。
そこには優しさと労わりしかなく、こちらを痛めつける意図などないはずなのに、胸の疼きが増している。
サーティークはただ無言でその痛みを受け入れながら、父の胸に頭を預けた。宗之は変わらず笑みを湛えたまま、羽織ったマントでそっと彼の姿を覆い隠すようにしてやるのだった。
そうして。
「すまなかったな。ムネユキ」
宗之から離れたサーティークは詫びたものの、さも今までのことがなかったかのように居住まいを正し、澄ました顔をしていた。
そんな彼の様子を宗之は微笑ましそうに見つめている。サーティークは半眼で睨み返してはみるが、どうにも効果は得られそうになかった。
「いや、構わないよ。それに……今更言うのも何だけど……」
「何だ?」
そこで宗之の笑みに、初めて何か含みを持たせたような色を感じてサーティークは訝った。
「私の世界では、初恋は実らない……なんて言うけれど、諦めるのはまだ早いだろうね」
「……何?」
それはどういうことだ。と、言葉の意味を計り兼ねる中、一つの黒い泡のような思考が浮き上がった。
……いや、しかし。
それは卑しく、彼が忌み嫌う方法でしかない。権威を笠にし、他人を思うままにしようなど言語道断である。
確かに己がその気になって命じさえすれば、かの少女を側へ置くことなど造作もないことだろう。
だが、そんなことをしても意味はない。心なき者を側に置いたとて、それが何の慰めになろうものか。
それが重々分かっているからこそ、万難を排してここまで時間をかけてきたのではないか。
それに何より、そんなことをすれば彼女の「兄上殿」から何をされるか分かったものではない。
あれは妹を不幸に陥れようとするものならば、何を置いても立ち向かってくるだろう。殴られるくらいならまだしも、最悪一刀のもとに斬り捨てられてもおかしくはない。
かの少女を思うその気持ちに偽りはない。それは認めざるを得ないところだ。
そも、そのような卑劣な行為、断じて選ぶわけにはいかぬ。
「ああ……いや、うん。誤解しているようだけど、そういうことではなく……だね」
よっぽど険しい顔になっていたのか、考え込むサーティークに宗之が声をかける。
「彼女は単に驚いただけのような――いや、これ以上言うのは野暮かな」
彼は何か言いたげに口元を綻ばせてはいたが、思いついたように言葉を区切り、つと視線を窓辺へと向けた。
その視線を追うと、かの「兄星」が茫洋と空にその身を置いている様が見える。
見上げるこちらの存在など歯牙にもかけぬ、傲慢な態度のその星を見上げながら、宗之は「つまり……」と言葉を紡いだ。
「私が言いたいのはね……。一度逃げられたくらいで、そうやけになるものではないよ、ということだよ」
にこりと笑い、宗之は問うように首を少し傾ける。
「それに、お母君も最初は驚いてはおられたけれど、むしろこの状況を楽しんでおられる様子だったよ? これから我が息子が、どのような器を見せるのか、とね」
「な――」
呆気に取られて口を開けるサーティークの頭に、ぽんと宗之は手を置いた。
「何事も経験だが、こればかりは仕方ない。恋の痛みなど、望んで経験できるものではないからね」
「……」
無言でサーティークは宗之を見つめる。そして、やや抜け気味であった彼の両目が、息を吹き返すかのように爛々と光を取り戻し始めた。
……ああ、そうか。
自分は少々浮かれていたのかもしれない。
針の穴を通すような計画を綿密に立て、それを着実に実行すれば全てが上手くいくと思っていた。
そうではないだろう。
ただの一度の失敗で、この気持ちに見切りをつけようなど愚の骨頂。
まったく、とんだ痴れ者がいたものだと呆れ果てる。
そう思えば、胸の疼きも僅かではあるが和らいだ気がした。
「どうやら、覚悟は決まったようだね」
男の顔つきとなった我が子を見るように、父が微笑んだ。
「ああ。助かったぞ、ムネユキ。礼を言う」
不敵に口端を持ち上げたサーティークは長椅子から立ち上がると、窓辺へと歩み寄り城下を見下ろす。
今頃、あの少女は恐怖に震えているのではあるまいか。
何しろ王太子殿下を無視して逃げ去ったのだ。臣下たちが良からぬ動きを見せる前に手出しさせぬよう、まずは働きかけねばなるまい。
そして、然るべき対応を取ったのち、また文でも出すべきか。まずは驚かせたことを詫び、可能ならば、その口から返事をきちんと聞きたいところだ。
……さて、今まで以上に苦難な道になりそうだが、やらねばなるまい。
その道すらも楽しむように瞳に闘志を燃やし、サーティークは敢然と顔を上げる。
夜空の「兄星」は我関せずと、少年の新たな決意を無貌のままに照らし出していた。
◆
王都内にある屋敷の自室にて、ヴァイハルトは一人頭を抱えていた。
件の宴の席で着ていた武官の礼服をそのままに、まんじりともせず、まるで石にでもなったかのように身じろぎ一つしていない。
だが、その引き締められた身体の内には、烈火の如き熱が蠢いている。
かの王太子殿下から選択を迫られ逃げ出してしまった妹を確保し、どうにかこうにか屋敷に連れ戻したまでは良かったものの、その後が大変であった。
父は寂しくなりつつある頭を自分以上に掻き毟り、目を離せばまた何処ぞへと逃げ出しかねない妹に付き添っている母の顔は蒼白だ。
すわ何事かと色めき立つ召使いたちに委細は告げていないが、直に噂は広まる事だろう。
だが、それよりも何よりも、今彼の頭を占拠するのは妹のことだけである。
何となしに、ヴァイハルトには分かっていた。
彼女が逃げ出してしまったのは、決して否定の意味ではない。
妹は、間違いなくかの王太子殿下を好いている。
それを思えば目の奥がじりりと焦げ付く。しかし、それは認めざるを得ない事実であり、彼女の幸せを願って自らも今日までの作戦に加担してきたのだ。
では、何故逃げたのか。
答えは明白だ。以前に『恋の病』であるのかと確認したときと同じなのだ。
まるで晒し者のように雛壇に上げられ、極度の緊張の中、人生を左右する質問をされた彼女は、気が動転したのであろう。
要するに、この粗忽な妹はやらかしてしまったのである。
もしかすると、あの王太子であるならば妹の気性を考え、彼女が首を縦に振らぬ場合の文句も考えていたのかもしれない。
しかし、脱兎の如く逃げられたのは想定外だったのだろう。
計算を重ね方々手を尽くし、策も弄し、外堀を完全に埋め尽くした上で、彼は妹に問いを差し出した。
宮宰マグナウトをも味方につけた作戦だ。完璧に完璧を重ねた出来であったに違いない。
失敗する要素など、一欠片も残さず潰したはずである。
だが、どれだけ計算しようとも、時に人の心は御し切れぬものだ。
妹の粗忽がその上を行ってしまったことに、作戦に加担していた身としてヴァイハルトも複雑極まりない心境ではあった。頭を抱えたくもなろうものである。
あの外連味たっぷりの王太子殿下の端正なお顔が驚きに歪むのを見ることができ、何処か胸がすく気持ちも別にあったのだが、それはいい。
そうした卑しい気持ちは、今は仕舞っておかねばなるまい。事が解決した暁には、いくらでも笑ってやれば良いだけのことだ。
問題は多くある。まずは、かの王太子がこのことを恨みに思い、我が家系の抹殺でも企てるのではないかという懸念である。
ヴァイハルト自身、彼がそのような暴挙にでるとは毛ほども思ってはいないのだが、貴族というのも何処に敵が潜んでいるかは分からないものだ。「口実」さえあれば、それを利用しようと言う不埒な輩が湧き出ないとも考えられない。
……まさか、そこまで酷薄な男ではなかろうな。
国王陛下もご聡明であらせられる。まさかそのような無体な真似を見過ごされるとは思えない。ならば、そこの心配はひとまず棚上げするとして、一番の問題は、やはり妹と王太子殿下の今後の関係であろう。
「……ええい! くそ! 何故この私が、ここまで悩まなければならんのだ!」
ヴァイハルトは湧き上がる衝動に駆られて声を荒げ、指を噛んで苛立たしげに自室をぐるぐると歩き出す。
事は公の場でのことである。こちらが「申し訳ありませんでした」と、頭を下げて済む問題ではないのだ。
しかし、それよりも大事なことは、あの王太子がまだ妹のことを諦めてはいないのかという点に尽きる。
……まったく、この程度で折れるようなら、とうてい妹はやれんぞ!
むしろ、これで諦めてくれるようであれば、それはそれで良いとさえ思う。であれば、所詮やつもその程度の男に過ぎなかったということだ。
そうであるのなら、やはり妹は己の手で守るしかない。時間はかかるであろうが、彼女の傷をゆっくりと癒し、永劫守らねばならぬ……!
その後、夜が明けるまでヴァイハルトは妹の身をあれこれ案じながら、誓いを強固にするのであった。
そうして、あれやこれやの末、やっぱりサーティークとレオノーラは結ばれました。m(_ _)m