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プロローグは企画共通です。
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
男は力強く雪を踏みしめ、足早に来た道を戻っていった。
私が目覚めたのはふかふかの布団の中だった。
柔らかな布団に包まれて、その温かさに思わずもう一度目を閉じてしまいそうだった。
眠い瞼を擦って、両腕を天井に向かって伸びをするようにつきあげたところで気がついた。
はて、私の両腕はこんなに長かっただろうかと。
私はぱちりと目を開けて自分の両腕を眺めた。指先まで白くて長くて細い腕は、高く天井に向かって万歳している。
「私の両手って、もっと病的に細くて骨ばってたと思ったんだけれど……」
声に出して呟いたところで、さらに違和感に襲われた。私の声じゃない。今喋ったのは誰だ。
私はがばりと飛び起きようとして、体がだるくて起き上がれなかったので、大人しくゆっくりと上半身を起こした。
長くて黒い髪がさらさら零れた。指で梳くと、ひっかかることなくするりとすべり、ひんやりした髪の感触があった。この長さだと腰までありそうだ。けれど私の髪はこんなに長くなかった。
髪を梳いてる途中で気付いたのだが、私に胸があった。
いや、もともとちゃんと女性だから胸自体はあるのだが、些細な……叩くとコンコンと肋骨の音が聞こえる切ない私の胸元が、今、自分で見降ろして確認できるほどの山がある。思わず揉んでしまった。これは……胸だ。
部屋を見渡すとカントリー調の外国の部屋みたいだった。温かみのある木と暖色系でまとめられた部屋の中には、あちらこちらにお手製らしきクッションやタペストリーがあり、部屋の主が居心地良くしようと手を加えているのが伺える空間だった。
部屋の中に鏡があるのを見つけたので、まだ少しだるい体を引きずってゆっくりと鏡を目指して歩いた。
足が上手く動かせなくてのろのろした挙動に、まるで自分の体じゃないみたいだという思いが一層強くなった。その思いは鏡の前まで来た時、あぁやっぱりという気持ちに変わった。
鏡に映った私らしき人物にまるで見覚えがなかった。
「誰だこれ?黒髪と黒目くらいしか、私との共通点が見つからない……」
まじまじと鏡の向こうから見つめてくるその人物は、腰まで届く長い黒髪と大きな黒い瞳を持った、外国人の様な顔立ちの女性だった。
十人中十人が目を惹かれるだろう整った容姿の美人さんだった。骨と皮しかないような病人姿の私とは似ても似つかぬ人物だ。どう見ても日本人じゃない。
そして服装もおかしい。まるで海外のファンタジー映画のような服装をしている。まっ白で柔らかい生地で出来た、足をすっぽり隠す長さの、胸の下で一度絞られて、そこからふんわりと足まで落ちるようなシンプルなワンピースだ。いや、もうドレスと言っていいんじゃないかな?袖も少しゆったりしたデザインで手の甲ぐらいまであり、レースがついていた。みせているのは首周りぐらいと言う露出度の少なさだ。しかし肌触りはいいが寒い。
私は腕を抱くように擦って寒い寒いと呟いた。そして呟いてから気付いた。
「私が今喋っている言葉自体、日本語じゃないし……本当になんなの?」
何語と言えばいいのかわからないが、言語からして違う。なぜだか当然のように使いこなせているのだけれど、英語ですらない。タペストリーの飾り文字や小さな本棚に並ぶ本の背表紙の文字も、日本語どころか英語ですらなさそうだ。
試しに日本語を意識しながら喋ってみたのだが、日本語を知らない外国人が喋る、拙くて怪しい日本語の様な音にしかならなかったので諦めた。舌が回らない。
これからどうしたものかと考えながら部屋を一通り物色し、一番好みの柄のクッションを抱えてベッドに戻った。何故だかとてもだるいのだ。あと寒い。すごく寒い。暖炉と薪があるのに火がない。ライターかマッチないの?
ぼんやり窓の外を眺めると、一面銀世界だった。なるほど、寒いはずだ。雪が辺りを覆い尽くし、周りに何があるのか全く分からなかった。
見ていると余計寒くなってきたので、いそいそと布団にくるまった。自分の体温で布団を温めて暖をとる。さきほどまで眠っていたからか布団はまだほんのり温かかった。
気付いたのだがこの服ネグリジェか。
「でも一面雪景色ってことは、町の中ではないってことかな?大草原の一軒家な感じ?それとも別荘かな……?」
窓を開けたらもう少し何かわかるかもしれないが、とてもじゃないけれど開ける気になれなかった。
私がこれからどうしたものかと布団にくるまってみの虫をしていると、扉の向こうから人がやってくる音がした。
私がその音に身構えて、ベッドの上でどうしようかと怯えるのと同時に扉が開いた。
「セレーナ!無事か!!」
勢いよく扉を開いて中に入ってきたのは一人の異国の騎士の恰好をした男だった。
恐ろしくファンタジーしている深緑色の髪と外国の海の様な青緑色の瞳の、ずいぶんと整った容姿の男性だ。髪と肩にはうっすら雪がつもっている。
外のひんやりした空気を纏って入ってきたその男性は、私の姿を見るなり安堵したような表情でもう一度「セレーナ!」と私に向かって呼びかけて、そのまま大股で近づいてきて布団ごとぎゅっと私を抱きしめた。
突然の出来事に私は口を挟む隙すらなかった。そして抱きしめられた途端、布団越しでも伝わる男性の体温の冷たさと、見知らぬ男に抱きしめられていると言う衝撃で、体が硬直してしまった。
ただ、抵抗したり嫌悪するような感情が浮かばなかったのは、男性が心の底から私の安否を心配していることが伝わったからだと思う。だが、どう考えても男性が心配しているのは私ではないだろう。
私は申し訳ない気持ちでそろそろと男性に声をかけた。
「あの……ごめんなさい。あなた、誰ですか……?」
私がその言葉を発した途端、男性ががばりと私を見た。
「セレーナ?何を言っているんだ。悪い冗談はやめてくれ」
「いえ……私、あなたのことが本当にわからないんです。あなたはどなたで、私は誰なんですか……?」
私がそう言った時、男性は私を至近距離で見降ろしたまま、わなわなと震える声で言った。
「本当に……覚えていないのか……?俺はシグルード。覚えていないか?シグルードだ。お前はセレーナ。お前は俺の愛する妻だ」
縋るように私に尋ねるシグルードと名乗った男性に、私は困惑した表情で、首を横に振った。
シグルードは、私が何もわからないのが申し訳なるほどに、絶望した表情を浮かべた。
シグルードは少しだけうなだれたように俯いてその後、すぐに次の行動を開始した。
部屋の暖炉に魔法で火をともした。私がわぁと声を上げると、怪訝な表情で私を見、そして「すぐに容体を診てくれる者をつれてくるから、ここから出ないで待っていてくれ」と私に言った。
私は特にどうすることも出来ないので、こくんとうなずいた。私の返事を確認し、寝室からガウンをひっぱりだして私に着せると、シグルードはすぐに扉を開けて出て行った。
このガウンが一枚あるだけでけっこう違う。厚手で首元はもこもこしている。これは温かい。
しばらくぼーっと待ってみる。
しかしどれだけ待てばいいのかわからないので、困ってしまった。時間もわからないのですごく長く感じる。
私は寒いので、暖炉のそばに掛け布団ごと引っ張って来て、みの虫状態で移動した。
ふこふこの絨毯が裸足に心地よかったが、ふと気付いた。
「ここ外国みたいだしもしかして土足?さっきの騎士みたいな人……しぐるーどさんだっけ。あの人もたぶん靴はいてた気がする。雪ごと玄関から飛んできた感じだったし……」
そう思って靴、靴……と探すと、寝室のベッド脇にちょこんと靴があった。分厚い皮で、内側にもこもこした毛皮がついたぺたんこの小さめの靴だ。たぶん私のだろう。
ハイヒールじゃなくて良かった……。いそいそと靴をはいて暖炉に戻る。また一人になってから気が付いた。
もうちょっと私の現状とかを聞いておけばよかった。なんか疲れてるみたいな顔だったし慌ててたからつられて頷いてしまったけど……。
暖炉のそばのソファーで暖をとっていると、シグルードさんが戻ってきた。そしてその後に続いて小柄なローブの人物が入ってきた。誰だろうとじっと見ていると、ローブの人物は、被っていたフードをゆっくり頭からはずした。
中から現れたのは燃えるような見事な赤毛だ。そして髪と対比するように白い肌と、ややつり目気味で意思の強そうな印象の、鮮やかな蒼い瞳の美女だ。現在の私も美人だが、目の前の美女は絶世と言ってもいいんじゃないだろうか。
現在の私を海外映画のハリウッド女優とするならば、目の前の女性はそれを遥かに上回る美貌だ。世の中にはこんな作り物めいた顔の人がいるんだなぁと感心してしまった。
「セレーナ、待たせてすまないな」
シグルードさんは雪を払って、すばやく私の所へやってきた。
私はとりあえず被っていた布団をソファーにおいて立ち上がって出迎えた。
シグルードさんは困惑したまま見つめる私に、申し訳なさそうに告げた。
「すまない、気が動転していたとはいえ、何の説明もなしに出て行ってしまった。だが君の容体を見てくれる人物を連れてきた。君も良く知る人物だから安心してくれ」
「はぁ、はい……」
背後にいた美女が少し前に出てきた。
「セレーナ、私よ。シグルードに呼ばれてきたわ、……大丈夫?」
猫の様な釣り目は、私への心配そうな色でいっぱいだった。
美女は小走りで私に駆け寄り、少し震えるような手でそっと私の頬を包んだ。
そして目に涙をいっぱいに溜めて、眉をぎゅっと寄せたままぽろぽろと泣きだしてしまった。
私は突然泣き出した美女におろおろして、その後そっと抱きしめた。私の方が美女よりやや頭の位置が高い。
よく病院では私を想ってたくさんの愛しい人達が涙を流した。彼女にとって、この私もきっと大切な存在なんだろう。なんとなくそう思った。
「えっと、大丈夫ですか?私はたぶん大丈夫だから、落ち着いて……」
そっと声をかけると、美女はぐずぐずと涙声で私の肩に顔を押し付けたまま呟いた。
「セレーナが、し、死んじゃったって、私……私、シグルードが来るまでずっと、怖くて、怖くて……うぅ、ひっく、生きてて良かった。ほん、とによかったぁ」
何やらよくわからないが、私の安否をずっと気にしてくれていたらしい。ずっと私の気をもみ続けていた両親を思い出した。
しばらく美女の気が落ち着くようになだめていると、少し焦れたような様子で、シグルードさんが美女に声をかけた。
「ティオナ、悪いが落ち着いたらセレーナを診てくれ。セレーナは俺に向かって誰、と言ったんだ」
シグルードさんが言うと、美女ががばりと顔を放して私をマジマジと見た。
「セレーナ、私がわかる?」
「えっと、ティオナさんですよね……?さっきシグルードさんがそう言ってたから……」
私が申し訳なさそうに言うと、ティオナさんは悲壮な表情をした。美女の悲壮な表情って、なんでこんなに心に訴えるものがあるのだろう。
しかしティオナさんはぐっと決意を秘めた表情で、まず私をソファーに促して、マントをとってから私の様子を診始めた。
時々質問に答えながら触診などされ、しばらく考えるように目を瞑ったティオナさんが私と、隣に座ったシグルードさんに向かって告げた。
「まず……セレーナは今、自分がセレーナであると言う記憶がない。そして私やシグルードのことも覚えていない。さらには私達のことどころかこの国の文化や魔法、日常生活についても一切わからないのよね」
私はこくんとうなずいた。
「それはおそらくセレーナが魔法を跳ね返した際の副作用だと思うわ。あなたは狙われていたのよ。順を追って説明するわね……」
そう言ってティオナさんが、ときどきシグルードさんの補足を交えつつ私の現状を教えてくれた。
どうやら私は隣に座るシグルードさんと夫婦らしい。
そして国の騎士をしているシグルードさんの仕事関係で、弱点になりそうな私は任務中の期間、この別荘に隠れ住んでいたらしい。
私自身も今は一時的に職を離れているらしいが、魔法使いなのだそうだ。それなりに強い中堅クラスぐらいの力があるらしい。目の前の美女ティオナさんは私の幼馴染兼親友で、私と同じく魔法使い。だが私より魔法使いとしての力量はずっと上だったそうだ。シグルードさんは魔法のことは基礎的なことしかわからないので、専門家で信用できる私の親友なティオナさんを連れてきたらしい。
そして一人隠れ住んでいたセレーナは、どうやら誰かに魔法で二度と目覚めない呪いをかけられたそうだ。
本来ならばセレーナの実力ならば撥ね返すことが出来たはずだが、相手がよほどの実力者だったのか、セレーナが本調子ではなかったのか、呪いを撥ね返すことは出来なかったそうだ。
しかしセレーナは最後にあがいて、自分の身体を眠らせたままにしないように、眠っていた魂を呼び起こした。そして自分の身体を守らせようとしたらしい。
シグルードさんによると、私が倒れていた場所には他に私を暗殺か攫いに来た男達が倒れていたとのことだったので、雪の中何とか男達を撃退した後、その呪いがやってきたのではないかと言った。
シグルードさんは事前にセレーナから預かっていた、私の無事を告げるペンダントが割れたことに気がついて急いで戻ってきたら、雪の中私が倒れていたらしい。
慌ててこの家に連れて来てベッドに寝かせ、暗殺者たちの後始末のためにもう一度雪の中出て行った。そして戻ってきたら私が目覚めていて、記憶を失くしていた。そして今に至る。
ここまでを話終えたティオナさんが、結論を言った。
「つまり今のあなたはセレーナの魂に眠っていた人物ね。魂は生と死を巡り続けると言うし、たぶん間違いないわ。こんな状況初めて見たから、私も混乱してるんだけれど……一番納得いく形に落とし込むならばそういうことになるわ」
なんとなく理解が追い付いた。理解は追いついたが、信じられなかった。
身体が自分のものでないように感じたのは当然だ。だって、自分のものじゃなかったのだ。
「えっと、私はその、この体……セレーナという人物の、前世ってことでいいのですよね?」
「前世……それはあなたの国の言葉なの?えぇ、そういうことね。あなたはセレーナの前の魂の持ち主と言うことよ」
複雑な気分だった。私はこうして生きているのに、私の魂には他の持ち主がいるらしい。
「つまり……私は既に……、死んでいるってことですね」
外は雪が荒れ狂うようにびゅうびゅうと唸っていた。