三章 (3) 共闘
一人残されたセレスティンは、しばし茫然と宙を見つめ、それから不意にため息をついた。相手に届かぬまま戻ってきた封書に視線を落とし、小さくつぶやく。
「大エンリル帝もみそなわしたまえ、か。それでラウシール様が再臨されたとなったら、エンリルはどんな顔をすることやら」
やれやれ。無意識に眉間を押さえて目を瞑る。と、その脳裏に先日聞いたエンリルの声がよみがえった。
(誰かに見られている)
それも頻繁に、そう言っていた。もし古のエンリル帝とラウシールとの間に何らかの絆があるのだとしたら、ラウシールの再臨によって、皇帝の末裔にして同名のエンリルに何らかの異変が現れたのだとも考えられる。
(まさか、ラウシール様が彼のところに現れたことはないでしょうけれど)
もしそうなら、今頃大騒ぎになっているはずだ。そうなる前にエンリルが即刻ラウシールを元いた所へ追い返していれば別だが、それならばラジーを助けている暇もなかったことになる。
(いずれにせよ、彼の身にもまた何か異変が生じているかもしれないわね。失踪の件以外にも口実が出来たわ)
セレスティンは何がなし安堵して、私室に戻ると身支度をした。複数の用件を揃えなければ会いに行くのもためらわれるとは、幼なじみが聞いて呆れる。しかし用件ひとつでエンリルの元を訪えば、相手を無駄に喜ばせるだけだ。変な期待を抱かせたくはなかった。
(……どうして私が気を遣わなくちゃいけないのかしら)
エンリルの顔を思い浮かべただけで腹が立ってきた。セレスティンは櫛を持った手を止め、鏡の中の自分にしかめっ面をして見せた。いっそリュンデのような爆発頭で行ってやろうか、などと子供じみた考えが浮かぶ。
「いい迷惑だわ」
憤懣が口をついてこぼれた。セレスティンにとって、エンリルの態度はゲームを仕掛けているようにしか思えなかった。獲物を狙う猫のように目を光らせて、彼女が陥落するのを待っている。高慢で可愛げのない女が最後には自分の前に膝を屈する、その瞬間の喜びを味わいたいだけだ。そんな身勝手な望みのために折れてやる気など、セレスティンにはさらさらなかった。
(本当に好きだというのなら、私を煩わせないでくれたらいいのに)
まったく、と心中でぼやく。そして自分の表情を鏡越しに眺め、我に返って呆れた。身勝手はお互い様だ。
「物好きよね。こんな女のどこがいいのかしら」
ねえ、と鏡に問いかけても、もちろん返事はない。セレスティンは頭を振り、細い銀の額飾りを着けて立ち上がった。
あまり期待せずに、魔術の転移陣が描かれた部屋に入る。そっと用心しながら精神を開くと、ありがたいことに力場は静まっていた。隙を逃さず呪文を唱え、道を開く。光の壁が陣の外周に沿って一巡すると、そこはもう、レムノスにあるデニス総督府だった。
さて、とホールを見回すと、受付係が驚きに腰を浮かせたまま、目を皿にしていた。まだ若く、職員のお仕着せが馴染んでいないところからして、新人だろう。数年前まではこのホールでしょっちゅう魔術師が消えたり現れたりしていたはずだが、その光景を見たことはないらしい。慣れない来訪者に戸惑いを隠せずにいる。
セレスティンは安心させるように、にっこりと柔らかく微笑みかけた。
「こんにちは。総督にお会いしたいのですけれど、取り次いで頂けますか」
「あ、はい。いえ、少々お待ち下さい。失礼ですが、お名前は……」
「セレスティン=ライエルです。『長衣の者』の長から総督にお願いがあって参りました、とお伝え下さい」
セレスティンは、しゃちこばっている青年に、わざと肩書で言伝を頼んだ。エンリルならその意図を汲み取ってくれるだろう。これで少なくとも「私に会いに来てくれるなんて嬉しいね」という類の挨拶は聞かされずに済む。
案の定、しばらく待った後で執務室に通された時、セレスティンを出迎えたエンリルの表情は、蛙も鳴き出す曇天さながらだった。
「長ご自身がお出ましとは、何かよほどの事態が持ち上がったようだね」
「まだそうと確定したわけではありませんけれどね、総督」
意地悪くそう呼びかけ、セレスティンは相手の顔がますます暗くなったのを見て、心中ひそかに喜んだ。いつもとは立場が逆というわけだ。
すすめられたソファに腰掛け、セレスティンはこほんと咳払いしてから切り出した。
「実は、今年に入ってから魔術師の失踪が相次いでいるの。そのことを話し合っていたのだけれど、非公認の魔術師や、魔術師でない人にも失踪者が出ている可能性がある、ということになって」
「それを調べて欲しい、というわけかい。私の方では特に行方不明者に関する報告は受けていないが……ハキーム、おまえはどうだ? 何か聞いているか」
室内のもうひとつの机に向かっている書記を振り向き、エンリルが問う。黒髪の青年は無表情に首を傾げ、少し考えてから答えた。
「いいえ。ですが都市警備隊や地方の執政官が報告を上げていない可能性はあります。彼らは縄張り意識が強いですからね」
「まぁ、犬なんだから仕方ないさ。小突いてやれば、くわえた骨を出す気になるだろう」
エンリルは面白くもなさそうに言い、総督の印章をハキームに向かって投げる。慣れたもので、ハキームは片手でそれを受け止めた。セレスティンは呆れて眉を上げる。たかが数歩の距離だというのに、ものぐさな。いや、それ以前に、大切な公印を投げるとは。
彼女の咎める視線には頓着せず、エンリルは話を戻した。
「それで、何人ぐらいが行方をくらました? 犯罪の可能性は?」
「クルクス左輔のリストによれば、失踪と確定した者だけでざっと三十人。休暇願や辞表を出した後で行方不明になった者もいるそうよ。犯罪がらみと判断されて警備隊や治安軍が調査中の件もあるから―― つまり紛争地域での失踪だとか、ちょうどその地域で誘拐・殺人などが続けて発生している場合ね。そういう例も含めると五十は下らないとか」
「失踪者の所属や地域に共通性はないのか?」
「ええ。だから、こうして総督様に厄介事を献上しに参りました、というわけよ」
セレスティンが皮肉っぽく言うと、エンリルは渋面で唸った。
「発生が広域にわたり共通性もないとくれば、同一犯による誘拐ではないだろうし、組織的なものだとも考えにくい。家出したくなる病でも流行っているのかね」
「だとしたら真っ先に私が罹っても良さそうなものだわ」
思わず本音をこぼしてしまい、セレスティンは慌てて苦笑を浮かべた。冗談にしてしまおうとしたのだが、エンリルの青褐色の目に見つめられ、作り笑いがもたなくなる。仕方なく、言い訳はせずに黙って肩を竦めた。
エンリルは立ち上がる素振りを見せたが、思い直してまた腰を下ろした。
「セレ。私が言うと下心があるように思われるだろうが、君は抱え込みすぎだよ」
「ご心配ありがとう。でも、それほどじゃないわ。実際には左右の補官と三人で動いているわけだし……」
「そういう意味じゃない」
珍しく強い口調で遮り、エンリルは険しい表情になった。セレスティンも負けじと睨み返す。相手が言いたいことは分かっていた。
「あなたの肩に縋って泣けとでも言うつもりですか、総督」
「ぶん殴ってくれても構わないがね、長殿」
きれいにやり返され、セレスティンはぐっと言葉に詰まった。どうやらあの事件以来、肩書のもつ効果は半減したようだ。自業自得ではあるが。
「喧嘩は外でお願いしますよ、お二方」
ハキームの平坦な声が水を差し、二人は揃っていまいましげにそちらを睨む。当人は相変わらず何やら書類を作成しており、顔を上げもしなかった。
「ともかく」気をそがれた様子でエンリルが言った。「長だからと言って、世界に責任を持たなければならないわけじゃない。二十代の娘ひとりにそんな期待を押し付ける馬鹿がいたら、吊るし上げてやるよ。私が偉大なエンリル帝ではないように、君も 『偉大なる青き魔術師』ではないんだ」
「そこまで自惚れてはいません」
セレスティンはぴしゃりと言い返し、なんとか威厳を保つ。これ以上この話を続けると、感情が昂って面倒なことになりそうだ。ゆっくりひとつ深呼吸し、「ついでに訊こうと思っていたんだけど」と話題を変える。
「前にあなたが相談してきた件。あれはその後どう?」
「私のことを気にかけてくれていたとは、嬉しいね」
「悪いけど、あなたの軽口に付き合いたい気分じゃないの。真面目に話す気がないのなら帰るわよ」
言いながら、何やら本当に疲れを感じて眉間を押さえた。まったく、これさえなければエンリルと話すのもかなり楽になるだろうに。
「これは失敬。実のところ、あの件はじきにぱったり止んでしまってね、私の方が忘れかけていたんだ。言われて思い出したぐらいでね」
エンリルはちょっと頭を掻くと、曖昧な表情でつぶやいた。
「あの誰かさんが私に興味を失ったのか、それともどこかへ行ってしまったのか……」
そこまで言い、彼はふと自分の言葉につまずいて沈黙する。セレスティンも眉をひそめた。どこかへ行ってしまった? どこへ、誰が?
「それ、いつ頃から……」
「失踪の発生は……」
二人は同時に言いかけ、お互い先を譲って口をつぐむ。そして、揃って口元に手を当てて考え込んだ。ハキームがちらりと二人に目をくれたが、彼は賢明にも沈黙を守った。
ややあってエンリルが先に顔を上げた。
「私があの感覚に気が付いたのは、ふた月ほど前だったと思う。失踪はいつから?」
「正確には分からないけど、記録をさかのぼれば一年以上は前まで辿れそうよ。ただ、今回の件と同じかどうかは分からないわ。目立ち始めたのは先月から。そうね、あなたが相談に来た頃からじゃないかしら。……妙ね。何か関係があると思う?」
「あれがもし魔術師で、気配がなくなったのは失踪したからだとしたら、あの人物が何らかの引き金になった可能性はあるな。君の答えによれば、あいつが私を覗き見ようと意図していたとは限らないが、もし意図してのことなら、『目』を使えるだけの実力者、つまり『長衣の者』の中でも最上層に位置する一握りの人間の誰かだろう。幹部や幹部経験者の中で消えた者はいないのかい」
「そう言えば」
言いさして黙り込んだセレスティンに、エンリルが身を乗り出した。
「誰か心当たりが?」
「いいえ、そうじゃなくて。逆。いないのよ。支所長以上の役職にある人たちは、誰も失踪していない。少なくとも今はまだ」
その言葉の内容に、エンリルも険しい表情になった。
「末端から始まっているのか? だとしたら、失踪は病気や偶然ではあり得ないな。事態の発覚を遅らせるよう何者かの意志が働いているわけだ。そのうち幹部もいきなり消える可能性がある……」
「もしそれが事実ならね」言いながらセレスティンは立ち上がった。「失礼、すぐに帰ってリュンデに確かめなければ。失踪が始まった時期、失踪者の役職や実績と、失踪した順番をね。何者かが魔術師を消しているのなら、急がなければ手遅れになるわ」
「こちらも最優先で調査するよ。立場から言えば君が消えるのは最後だろうが、その時が来たら世界は終わりだ」
エンリルも立ち上がり、セレスティンに歩み寄って手を差し出した。何げない別れの挨拶のつもりでセレスティンは握手を交わし、「大袈裟ね」と苦笑する。
「魔術師がこの世から一人残らずいなくなっても、世界が終わりはしないわ」
「私の世界は終わる」
途端にセレスティンはエンリルの手をふりほどき、しかめっ面になった。
「そんな台詞、よくも真顔で言えるわね」
「事実を言うのにふざける必要はないだろう? とにかく、気をつけて。君がもし家出したくなったら、私のことを思い出してくれるといいんだが」
「それじゃますます行方をくらましたくなるわね。今もさっさと帰りたくて足がうずいているもの。それでは、総督、失礼します」
つっけんどんな言葉を残し、セレスティンはつかつかと部屋を出て行く。その背を見送って佇むエンリルに、ハキームがため息をついて言った。
「あなた方はまるで二頭立ての馬車ですね」
「何だって?」
エンリルが不審げに振り返る。ハキームは肩を竦めた。
「同じ方を向いて足並み揃えて走りだせば実に息が合うのに、互いを見た途端に手綱は絡まり足取りは乱れ、めちゃくちゃになってしまう。崖っぷちから転落しないように気をつけて下さいよ」
口調に厭味がないのがまた、かえって憎らしい。エンリルはしばし無言で立ち尽くし、それから相手の机に近寄ると、わざと乱暴に両手をついた。
「ハキーム。フローディスの執政官が書記を補充してくれと言ってたな」
凄みをきかせた声を作ったものの、己の価値を知る有能な書記には通じなかった。
「その件でしたら、既に手配済みです」
しらっと応じ、同時にハキームは上司の顔に書類の束を突き付けた。
「はいどうぞ、各警備隊および執政官への調査命令一式です。捺印は済ませましたので、ご署名をお願いします」
「……ご苦労」
エンリルは憮然としてそれを受け取り、自分の机に戻る。一枚目にインクのかすれを見付け、よもやと自分の鼻をこすってみると、案の定黒いしみがついてきた。
彼は渋い顔で汚れた指先を見つめ、書記を睨み、また指先を見て……結局、抗議はせぬまま、うつむいて嘆息したのだった。




