三章 (2) 消える魔術師
不在留置期限切れにつき差出人に還付――そう朱書きされた封書が一通、長の机に載せられていた。レント王国はその周辺の国々を容赦なく征服したが、広めた制度自体には優れたものもある。郵便もそのひとつだ。政府管理の転移装置があるおかげで、国内ならどこにでも、従来よりもずっと早く文書を届けられるようになった。
とは言えそれも、受け取る人間がいれば、の話だが。
「また……か」
封書を挟んで向かいに立つ男が唸り、白いものがまじる短い顎髭を引っ張った。長の右輔をつとめるヴァフラム=イシンである。香料半島の血を濃く引く容姿だが、生まれも育ちも薔薇の都ニーサであり、本人もティリス人の意識が強い。
その横に立つ女も難しそうな顔をして、手にした資料をぺらりとめくった。こちらは左輔のリュンデ=クルクス、王都レンディルの出身だ。何万冊もの蔵書数を誇る大図書館に入り浸って育ったせいで、眼鏡が手放せなくなっている。栗色の髪は今まさに突風に見舞われたかのように乱れていたが、当人はそれを気にする様子もなく言った。
「誰かを確認に派遣しますが、これまで何の連絡もなかったことからして、また失踪でしょうね。何かの事件や災害に巻き込まれたのであれば、警備隊から支所に連絡が行くはずだし。皆、そんなに魔術師に嫌気がさしたのかしら」
「そんなわけはないと思いたいけど」
セレスティンは曖昧な苦笑で応じた。冗談にしてしまうには、今の『長衣の者』の置かれている状況はあまりに厳しい。
ラウシール以来、魔術師の数は順調に増え、組織の活動も拡大を続けてきた。魔術師の育成・指導や魔術研究、それにターケ・ラウシールへの医療支援。初期にはそれだけだったはずが、魔術を用いた技術援助や魔術師による犯罪の取締、治安維持活動の一端をも担い、果ては貧困地域での人道的支援活動にまで加わっている。
活動の分野と地域が広がるにつれ、政治勢力には関わらない、という立場を貫き通すことも出来ず、あちこちで様々な軋轢や癒着を生じもした。
それが今では、まったく無力な存在になってしまったのだ。むろん力場が一晩で激変したわけではない。だが、焦れど打つ手がないまま急坂を転げ落ち、これまで行ってきた活動には無数のほころびが出来てしまった。なんとかそれを繕いながら活動を維持し、原因の究明を急ごうと誰もが躍起になってはいるのだが、進展ははかばかしくない。
これでは魔術師という職業を続ける事に失望し、勝手に転身する者がいたとて無理のない話だ。
「長衣の者でいる限り国籍や身分に縛られることはないが、それらの代わりに帰属するべき組織が無力となった今、昔の自分自身に戻りたがるのを、止めるわけにもいかんしな。もっとも、今のところ入門以前の居住地で見付かった者はいないから、戻ると言うよりは再出発かも知れんが。よほど捕まりたくないと見える」
やれやれ、とヴァフラムがぼやいた。セレスティンは返す言葉もなく唇を噛む。そんな彼女をちらと一瞥し、彼は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「それとも、長の権限で、たとえ何も出来なかろうと入門した以上は逃げ出すべからず、と命じてみるかね?」
「命じても無駄でしょう。私に何が出来ます?」
セレスティンは渋面で言い返し、首を振った。長と言えどもそんな権力はない。責任ばかり重くて旨みがないのは、『長衣の者』という組織の特異性であり、内部抗争を避けるためでもある。実際のところセレスティンも望んで長の地位にいるわけではない。組織運営の要となる長と二人の輔官は、実力と実績のある魔術師の中から異なる国の出身者を順に割り振るようになっているので、たまたまセレスティンの番が回ってきたというだけのことだ。
それだけに、今ここにいる三人の立場は一種の運命共同体であり、上司と部下といった雰囲気ではまったくなかった。
「これで何人ですか」
セレスティンが問うと、リュンデは書類のリストを数え、しかめっ面を作った。
「三十人。それも、失踪とはっきりした者だけで、ね。犯罪絡みの可能性がある者や、事前に長期の休暇願を出している者も含めたら、五十人ほどになります。最悪の場合、不在がここで取り沙汰されることのない魔術師の中にも、もしかしたら行方不明者がいるかもしれません」
「というとつまり、子供やごく初心者の魔術師、あるいはもぐりの魔術師かね」
ヴァフラムが口をへの字に曲げる。入門の儀式には『長衣の者』が立ち会い、新たな魔術師の名を必ず登録するわけだが、中には金を積んでこっそり入門を済ませ、身分や権力を有したまま魔術師になりおおせる者もいる。陰で軍事に加担しようとする者、母国や一族の利益のために魔術を使おうと考える者たちだ。
「もぐりの連中なら、全員まとめて消えてくれたって構わんじゃないか」
片手をパッと広げて何かが弾けるような仕草をし、ヴァフラムは肩を竦めた。もぐりの魔術師に対処するのは、きつい仕事だ。改心するまで説得や交渉を続けるのは根気が要るし、さりとて『破門』する――強制的に精神を力場から切り離す――と、ほとんどの場合、相手の精神を傷つけて心身に重い障害を残し、下手をすると廃人にしてしまう。この役目を引き受けたがる魔術師はきわめて少ない。
ヴァフラムの正直な言葉に、しかしリュンデは胡散臭げなまなざしをくれ、資料を手で弾いて「構わない?」と訊き返した。
「まさか本気じゃありませんよね? 彼らまで消えているとなったら、事態は深刻になりますよ。『長衣の者』でいることに失望した者が行方をくらましているのだろう、という推論が成り立たなくなるんですから」
そう聞いてやっと彼女が言わんとした内容を察し、ヴァフラムとセレスティンは顔を見合わせた。しんと冷たい沈黙が降りる。
ややあってセレスティンが首を振り、ささやくように言った。
「まさか、そんな。魔術師が無差別に消えているとでも?」
「最悪の場合はね」
リュンデはさらりと答え、行方不明者のリストを机に置いた。
「もっとも、もぐりの魔術師はその存在をこちらに知られないようにしていますから、失踪したかしていないか、確認するのは難しいでしょうけど」
「それでも確認せずにはおけまい」
ヴァフラムが苦々しく言う。セレスティンもうなずいた。
「各支所を通じて地域の警備隊に、魔術師以外についても行方不明者がいないか調べるように要請しましょう。警備隊が非協力的な地域は私たち自ら歩き回ってでも調べないと」
「デニスについては、その心配はなさそうですね」
やんわりとリュンデがからかう。セレスティンは不覚にも赤面した。
「総督は公私のけじめをつけられる人です」
「そうですか?」
「少なくとも、水面下で何かが起こっている徴があるのに事態を看過したりするほど、職務怠慢ではありません」
「ああ、確かに熱心な方ですよね」
何に熱心なのかはあえて明言せず、リュンデはくすくす笑った。セレスティンは唇をぎゅっと引き結び、視線をそらせる。と、ヴァフラムが助け舟を出した。
「では、我々も総督に負けないよう、熱心に取り組まねばなるまいな。早速仕事にかかろうではないか」
退出をほのめかされ、リュンデはおどけた顔をしたが、セレスティンをからかうのには満足したらしく、「わかりました」とあっさり引き下がった。そうと決めると彼女はぐずぐずせず、すぐに一礼して出口へ向かう。その背中に向けて、ヴァフラムが思い出したように声をかけた。
「ところでな、リュンデ君」
何か、と振り返った左輔官に、ヴァフラムはしかつめらしく続けた。
「その爆発頭、なんとかならんかね?」
不意を突かれてセレスティンがふきだす。リュンデは眼鏡の奥で目をぱちくりさせ、それから片手でくしゃくしゃの髪を押さえてにやっとした。
「これは失礼。でも昨今は魔術が使いにくいものですから」
「髪形ぐらい魔術なしで何とかしたまえよ」ヴァフラムが呆れる。
「それがどうにもならないんですよ、私の髪はね。まさに魔法のように」
リュンデは肩を竦めると、気を悪くした様子もなく、ひらひらと手を振って扉の向こうへ姿を消した。その間セレスティンは両手で口を押さえていたが、ヴァフラムと二人だけになると、机に突っ伏して大笑いしてしまった。
ヴァフラムはしばらくセレスティンに年相応の娘らしい振る舞いを許してから、おもむろにごほんと咳払いをした。セレスティンは笑い過ぎて赤くなった顔を上げ、目尻の涙を指で拭った。
「良かった、あなたもあれが気になっていたんですね」
「気にならん方がおかしかろう、まるで入道雲だ。しかし当人はまったく気にしておらんようだな、長をからかった罰が下せなくて残念だよ」
「ああ……いいんです、そんなこと。エンリルがしょっちゅう口実を見付けては私に会いに来るのは周知の事実ですし、私も彼女に腹を立てたわけではありませんから」
セレスティンは苦笑し、手を振った。リュンデのからかいは悪意がなく、長と総督という立場の二人についてあらぬ憶測をしている気配もない。ただ純粋に、若者の恋愛模様を微笑ましく眺めているだけ、という風情なのだ。だから苛々させられはしても、本気で怒らされたことはない。
「あのくすくす笑いを別にすれば、リュンデは頼もしい先輩ですしね」
セレスティンがエデッサに来た時、リュンデは既にここにいた。十と少しの年齢差も、物事にこだわらないリュンデの前にはさしたる障害ではなかった。またセレスティンにとっても、干渉と放任の間の適度な距離を保ってくれる彼女の存在は、何よりありがたかったのだ。
「確かに」とヴァフラムもうなずいた。「彼女がああだから、私は結託した女性二人を敵に回さずに済んでいるわけだし、僥倖と言うべきだろうな。では、私もこれで失礼するよ。自分で言った通り、仕事にかからんと」
「お願いします。私も……エンリルに連絡を取らなければなりませんね」
気が進まないけれど、とばかりにため息。ヴァフラムは片眉を上げ、同情的な声音を作った。
「もしあの若者が余計なことを言い出したら、『長衣の者』には長の信奉者が大勢いるのだぞと脅してやりたまえ。それにしても、いやはやまったく! なぜ私が補官に任命された時期に、こんな厄介事が生じるのやら。そんなに私は日頃の行いが悪いのかね」
「それを言うなら私もです。お互い、運が悪かったと諦めましょう」
あまり慰めにならないことを言ったセレスティンに、ヴァフラムは大袈裟な仕草で天を仰いだ。
「おお、大エンリル帝もみそなわしたまえ、あなたの民の末裔が苦しんでおります。哀れな下僕のこれまでの人生にいささかなりと善行をお認め下さるならば、どうぞ偉大なるラウシール様のお力を我らにもお恵み下さいますように」
その芝居がかった嘆願に笑っていたセレスティンの口元が、最後にはひきつった。幸いヴァフラムはそれには気付かず、言うだけ言って気が済んだらしく、自分に苦笑しながら一礼して立ち去った。