三章 (1) 過去からの声
「本当に、全然、これっぽっちも魔術が使えないのかい?」
さすがに取り乱しはしなかったものの、エイルの顔には不安の二文字がくっきりと大書されていた。カゼスは「面目ない」と頭を掻き、どんな顔をしたらいいのか分からず目をしばたたく。『狭間』へ出てしまえば帰り道は見付けられるだろうが、そこに通じる扉を今開けてみろと言われたら、土下座してでも勘弁して貰うだろう。そんな状況で、エイルを安心させようとしても無意味だ。
「翻訳呪文ぐらいなら効いてるみたいですけどね。ここまで力場との関連性を少なくした呪文はほかにありませんし、私の特技は大容量を一度に扱うことであって、その逆じゃありませんから」
「ということは、君のその人目を引く髪の色も……」
「無理ですね。幻覚術は本質を変えることなく、見る者の意識に作用するわけですから、常に安定した力の流れがないと効果が消えてしまいます。まぁどっちにしろ、魔術師がうようよいる世界でまやかしを使っても逆にばれやすくなるだけですから、外見についてはほかの方法でごまかすしかないでしょう」
そう言ってカゼスは自分の長く青い髪を手に取った。イブンの家族ぐらいならごまかせても、魔術師が見ればこの色が幻覚術ではないとすぐにばれる。出発前に染めておくべきだった。五年前に一度切った時と同じぐらいに短くすれば、帽子か何かに押し込んでごまかせるだろうか。
「参ったね」
迂闊にもそう独りごちた途端、リトルが無慈悲な同意をよこした。
「まったくです。あなたは魔術以外、何ひとつ取り柄がないんですから」
「何ひとつ、ってことはないだろ?」
むくれて言い返しはしたものの、自分でもその言葉の説得力のなさはよく分かっている。リトルに追い討ちをかけられるまでもなく、カゼスはがっくりうなだれて、長々とため息をついた。と、その落ち込みようを見かねて、エイルが「まあまあ」と励ましにかかった。
「少なくとも、ただの考古学者よりは治安局員の方が、こうした状況では役に立つと思うよ。医療士の資格もあるんだし、何より『ここ』に関する知識と経験がある」
「それならリトルの方が数倍記録を蓄えてますよ」
カゼスは拗ねてそうつぶやき、恨みがましい目でリトルを睨んだ。エイルは苦笑し、ぽんとカゼスの肩を叩く。彼がカゼスの担当になってから、幾度となくしてきた仕草。
「とりあえず、今日はもう休むことにしよう。眠れないかも知れないが、なるべく早くこっちの時間に体を馴らさないとね」
「そうですね」
目はしっかり冴えているのだが、カゼスも同意して寝台にぺたんと座った。リトルが明かりを落とし、室内が薄暗くなって本来の時間を思い出させる。少なくとも照明に関しては心配する必要がないわけだ、とカゼスは皮肉っぽく考えた。
薄い毛布を胸まで引き上げ、眠れそうにないが横たわる。じきに、部屋の反対側からエイルの安らかな寝息が聞こえはじめた。いつどこででも眠れる性質らしい。それを羨ましく思いながら、瞼を閉じる。暗闇が降りてくると、カゼスの脳裏には先刻の光景がまざまざと蘇った。謎めいた邂逅の瞬間も。
(誰だったんだろう。なんだか、覚えがあるような気がするんだけどな)
随分前にも一度、同じような感覚を味わった気がする。それだけでなく、もっとよく知っている相手のような……。
(呼んでいる)
漠然とそんな言葉が思い浮かんだ。
呼んでいる。誰が――誰を?
(行かなくては)
……どこへ?
自問を続けるうち、ますます神経がたかぶってしまった。瞼を閉じていられなくなり、ぱっちりと目を開く。
「駄目だ、寝られない」
小声で独りごちると、エイルを起こさないようにそっと立ち上がって部屋を出た。
中庭にはまぶしいほどの月光が降り注ぎ、世界を蒼く染め上げていた。夜風が微かに甘い香りを乗せて通り過ぎて行く。回廊の手摺りや柱に巻きついた蔓の間で、星のようにちらちらと瞬く白い花。
「寝付けないのなら、一杯付き合えよ」
不意に声をかけられ、カゼスは驚いて振り返った。昼に話し合っていた部屋で、イブンが一人、杯を傾けているところだった。カゼスはかつて海賊の島で同じようなことをしていた『三の長』の姿を思い出し、口元をほころばせる。
「お酒好きなのは相変わらずですね」
向かいに座り、差し出された新しい杯を受ける。美しい色ガラスの杯だ。イブンは黄金色の酒を注ぎ、まあな、と苦笑した。
「おまえさんがいなくなってからしばらく、飲ん兵衛のじいさんと一緒に世界各地の美酒巡りをしてみたんだがな。ここの酒が一番、俺の口に合ったんだ」
「へえ……」
飲ん兵衛のじいさんって誰のことだろう、と考えながら杯に唇をつける。芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。何かの果実酒らしい。その味で思い出した。
「イシルと一緒だったんですね」
「ああ。今はどこにいるのか、生きてるのかどうかも知らんがね」
イブンは何でもないことのように答え、月を見上げた。カゼスもつられるように空を仰ぎ、目を細める。ここだけが別の時間を刻んでいるように静かだ。
「……あれから」
カゼスは慎重に言葉を舌に載せた。今この場所では、過去は触れただけで手が切れるほど鋭く磨かれている。相手にとっても、自分にとっても。
「皆、どうしていたのか……覚えていることだけでも、教えて貰えませんか」
「俺もそうしようと思ってな。こうして酒を頼りに昔の記憶を掘り返していたのさ」
イブンはにやりとすると、杯を月光にかざした。
その表情に、カゼスは不意に相手の年齢を思い知らされた。外見だけは変わらない、だが五百年以上もの時を経てきた顔。いまだ目に輝きが宿っていることが奇蹟にさえ思われる。自分だったら耐えられるだろうか、とカゼスはぼんやり思った。
「フィオ、だったな」
イブンの声でカゼスは我に返った。彼は杯を揺らし、懐かしむように何人かの名前を口にのぼせた。叙事詩に残されていない、いまや彼だけが知る名前を。それから彼はカゼスに視線を戻し、小さく咳払いをして言った。
「俺もあれから、そう長いことデニスにとどまったわけじゃないからな。フィオの奴が貴族の坊ちゃんと結婚するのは見たよ。相手の名前は忘れたが、おっとりして人の好さそうな奴だった」
あれこれと自分の世話を焼いてくれた少女が、どうやら幸せになったらしいと聞き、カゼスはほっとした。
イブンは続けて、叙事詩に名の残る何人かの行く末を簡単に教えてくれたが、どれも平穏なもので、大団円を損なうものではなかった。事実かどうか、今となっては確かめる術もないのだが、しかしそのことはカゼスの心を慰めた。
「あとは……アーザート、だっけか。あの人相の悪いガキ」
「私を殺そうとしたりエラード側に売り払ったりしてくれた、彼のことですか?」
「そいつだ。結局あいつは長生きしたみたいだな。王の耳目となって働いたとかって噂もあったが、真偽は分からん。フィオにいびり殺されなかったのは確かだがね」
おどけた口調で付け足された言葉に、カゼスは笑い出してしまった。懐かしい顔触れが次々と脳裏によみがえり、目頭が熱くなる。だが、泣きはしなかった。かわりに彼は深い息をゆっくり、そっと吐き出した。
「……良かった。五年前に私がした事は、必ずしも褒められた事ばかりじゃなかったけれど…… ひとつだけは、確かに善い事をしたんですね」
「善悪の判断は簡単には下せないとしても、おまえさんに助けられた人間は大勢いるさ。うちの馬鹿息子もその一人だしな」
さらりと言われ、カゼスは目をしばたたいて相手を見つめた。時代を混同しているのかと思ったが、イブンは肩を竦めて付け足した。
「まあ、あれは百年ちょいと後の話だが。おまえさんにとっては一年とか言ってたかな」
「覚えてたんですか」
「誰が忘れたなんて言ったよ、仮にも息子だぞ。確かに俺は長生きしちゃいるが、関った人間はそれほど多くはないからな。そういう奴はよく覚えてるんだ」
つまり、たまたまカゼスが彼と出会った時代は、彼にとっては例外的な期間ということなのだろう。それ以外はなるべく、不老がばれないように人との関りを避けて暮らしてきたに違いない。カゼスが何とも言えずに黙っていると、イブンは杯を乾して言った。
「あいつは結局近衛隊長になったぞ。宰相家の娘と結婚して、今じゃその血筋が結構な名門になってやがる」
「……はい? ちょっと待って下さいよ、宰相家ってヤルスさんの……、娘って?」
何かどこかで記憶がごちゃまぜになってしまったようだ。カゼスは黄金色の靄を追い払おうと頭を振ったが、余計に困惑が深まっただけだった。イブンは面白そうにそれを眺め、意地悪くにやにやする。
「酒が効いてきたな。口当たりはいいが、案外きついだろう」
「うぬ……騙し討ちとは卑怯な……」
「おいおい、俺は酒についちゃ何も言ってないぞ」
事実だ。カゼスは恨めしげに半眼でイブンを睨み、杯を置いた。自分より多く飲んでいるはずの彼が平気な顔をしているのは、いったいどういう手品を使っているのやら。
「宰相家と言っても本家じゃなくて、分家の娘なんだ。元はあの宰相の嫁にってんで連れて来られたんだが、馬鹿息子が横からかっ攫っちまったらしい。おかげで俺は久しぶりにレムノスに行った時も、恥ずかしくて顔が出せなかった」
まったく、と彼は大袈裟に嘆いて見せる。カゼスは堪えきれずにふきだし、膝に頭がくっつくほど体を折り曲げて笑った。
「この親にしてこの子あり、ですね」
「止しやがれ、人聞きの悪い」
イブンは顔をしかめたが、その声音にどこか誇らしげな響きが感じられたのは、気のせいだろうか。
それからまた少し杯を重ね、二人は思い出の泡が浮かび上がるままに、とりとめのない話を続けた。しかし、ただひとつの名前だけは、どちらの口からも出ることがなかった。カゼスがそろそろ休むと言って、立ち上がるまでは。
「ああカゼス、昼間言いそびれたんだが」
去りかけたカゼスに、イブンが曖昧に声をかける。怪訝な顔で振り返ったカゼスに、イブンは言い出しにくそうに頭を掻き、歯切れ悪く続けた。
「息子の……つまり女房の連れ子の方だが、その友達でデニスの歴史を調べてる奴がいると言ったろう。そいつなんだがな。もし帰ってたら、明日にも会えるかも知れん」
「だったら助かりますけど」
何か問題でもあるのだろうか。カゼスは首を傾げ、相手が濁した言葉の先を待つ。長い間があってから、ようやくイブンは言った。
「名前がな。アーロンってんだ」
夜のしじまにぽとりと落ちた、ひとつの名前。
五年も前に失われたはずの名前。
――それが、まだ自分にとってこれほどの力を持っているとは、カゼス自身思いもよらなかった。不意打ちを受けてカゼスはよろけ、慌てて回廊の柱に手をつく。息が整うまで、少しく時間がかかった。
「大丈夫か?」
気遣う声が彼らしくなくて、カゼスは泣きたいような大声で笑いたいような、厄介な衝動に駆られた。なんとかどちらの発作も抑えこみ、強いて笑みを作る。
「ええ。ちょっとびっくりしただけです」
(大丈夫、私は大丈夫)
自分に言い聞かせ、理性を働かせようとする。口が勝手にまくしたてた。
「有名人ですもんね。きっと、同じ名前の人は大勢いるんでしょう?」
「ああ、一時は石を投げれば当たるってぐらいだった。今はそれほどじゃないが、それでも珍しくはない。だが、いきなり聞かされちゃまずいだろうと思ってな」
「……ありがとうございます」
辛うじてそれだけ言うと、カゼスは逃げるようにその場を離れた。客室に戻る前に、庭の隅の地べたに座り込む。石の柱に頭を預けて空を見上げると、月はもう屋根の陰になって見えなかった。
(五年も経ってるんだぞ。いい加減、感傷に浸るのは止せ)
己を厳しく叱咤すればするほど、記憶が制止を振り切って脳裏に広がって行く。時間を巻き戻すかのように、音や感触までもが鮮やかに。しかも一番思い出したくない、死に際の姿ばかりが。そして、彼の死を招くきっかけとなった己の罪が、古い傷口をざっくりと切り開く。カゼスは喘ぎ、両手で顔を覆った。
(五年も経って――ああ、違う、たった五年なんだ)
消えるはずがないではないか。あれだけの人を殺した罪が、たった五年で。
とうとう、か細い嗚咽と共に涙がこぼれた。
あとはもう、止めようがなかった。手で拭っても拭っても、頬が濡れる。
歯を食いしばるのに疲れて堪えることを諦めると、不意に肩の力が抜けた。誰かの手に仰向かされたように、夜空を見上げて放心する。
長らく記憶の底に押し込めていた声が、許しと励ましの言葉を、耳元でささやいた気がした。目を閉じると、泡のように数々の記憶が蘇る。温かな記憶、優しさと幸福の記憶。
しばしその感覚を味わってから、カゼスはゆっくり目を開けて小さく吐息を漏らした。ぎこちなく、柱に縋るようにして立ち上がる。
「……顔、洗ってから寝なくちゃな」
魔術が使えないとなれば、泣き腫らした目をちょいと治療することもできない。カゼスは苦笑すると、うんと伸びをした。
部屋に戻る前、夜空を仰ぐと何の抵抗もなくひとつの考えが浮かんだ。
(会いに行こう)
デニスに行けば、きっと彼らの存在の欠片が、まだどこかに残っているだろう。それを探すことは今回の訪問の目的ではないし、過去にしがみつくように思われたから、敢えて考えずにいたのだけれど。
(もう一度、会えるのなら)
涙と一緒にこだわりも溶けて流れてしまったらしい。カゼスは一人うなずくと、静かな庭を後にした。