遠い言伝
本編完結後の番外編。その後のアーロン。
“ラブレター”の中身については書いていませんが。
大樹の梢が風に揺れる。せせらぎを飾る野薔薇の茂みがざわめき、吹き散らされた花びらが舞い上がった。
「わぁ……きれい」
乱れた黒髪を押さえながら、若い娘が感嘆の声を上げる。連れの青年が微笑み、風から娘を守るように立った。
「ねえアーロン、ここで間違いないの?」娘が問う。「なんにもないけど……」
「間違いないよ。この景色はよく覚えてる。それにほら、石碑は移動されてしまったけど、この樹」
言いながら青年、すなわちアーロンは大樹に歩み寄り、そのうろに手を入れた。
「ほら、ね?」
取り出したのは、すっかり乾ききって細かく砕けた花や、ぼろぼろになった紙屑だった。娘は近寄り、それを見て苦笑する。
「お供え物も願い事も、結局こうなっちゃうのね」
「ならなかったら、今頃ここは溢れ返ってるよ。一時は凄かったから」
アーロンは言って、大樹の根元に屈んだ。鞄を開け、ちょうど書物が入るぐらいの薄い箱を取り出す。娘は後ろから、黙って彼の作業を見守っていた。
箱が土の下に隠れると、娘はちょっと伸び上がってうろを覗いた。
「ラウシール様が再臨なさって、今度は世界を救って下さって……一時は本当、その話でもちきりだったものね。家にもしょっちゅう、全然知らない人が訪ねてきたりして大変だったわ」
「ソラヤーは、カゼスさんに会ったんだったよね」
「ええ。ほんのちょっとだけど」
娘、ソラヤーはうなずき、踵を下ろして振り返った。夏空色の瞳が、束の間、遠い昔を見つめる。
「あの人が本当にラウシール様だったのか、今でも確信が持てないの。ラウシール様と一緒だったあなたが言うんだから、間違いじゃないんでしょうけど。……父さんが、あの人の知り合いだったっていうのも……結局、確かめられず終いだったし」
言葉の後半はつぶやきに近かった。アーロンは何とも応じられず、曖昧な表情で沈黙する。そして、改めて巨樹を見上げた。
「きっと、真実は異世の皇帝陛下がご存じだよ。もしも僕の想像通りなら、今頃イブンさんも、エンリル帝や勇将アーロンや、いろんな人と再会して楽しくやってるだろうな」
「そうね。きっと……そう」
ソラヤーは小さな声で言い、涙で震える息を飲み込んだ。
ザアッ、と風が駆け抜けてゆく。白い野薔薇の花びらを乗せて。だが悲しみまでは、運び去ってくれなかった。ソラヤーは顔を歪め、かすれ声を漏らす。
「三人とも、嫁にやるまでは……死ねないって、言ってたのに」
どうして。
誰にも答えられない問いを虚空に投げかけ、彼女は両手で顔を覆った。アーロンは肩を抱き寄せ、優しく寄り添ってやる。
しばらくしてソラヤーは涙を抑え、くすんと鼻を鳴らして顔を上げた。
「ここに埋めていいの?」
唐突に話を変えられて、アーロンは戸惑いに目をしばたいた。ソラヤーは彼を見ず、巨樹の根元を指差す。
「あれ。エデッサの学府とか、中央の大図書館の方が、ちゃんと保管されると思うけど」
「ああ、もちろん、公に残す分は学府に所蔵して貰ってるよ。でも、こっちは……なんていうか、私的な手紙みたいなものだから」
ちょっと恥ずかしそうにアーロンは鼻の頭を掻いてから、表情を改めた。
「それに、今後の世界がどうなるか、分からないからね。どこかの国や機関に属する場所にだけ収めておいたら、いつか情勢が変わって、ラウシールやデニスに関わる内容というだけで、破棄されてしまうかも知れない。もしかしたら、建物ごと焼き尽くされてしまうとか、別の国に持ち去られて行方が分からなくなるかも。……ここなら、その心配は少ないと思うんだ。偉大なるエンリル帝が守って下さるだろうしね」
言葉尻でおどけたアーロンに、ソラヤーもようやくまた、微笑を見せた。
歳月が過ぎ、人も社会もうつろってゆく。
草原は乾燥が進み、せせらぎは細くなり、野薔薇の茂みは針のような味気ない植物に取って代わられて。
久方ぶりに巨樹の前に立ったアーロンは、黒髪に雪をまじえていた。顔には疲労と悲嘆が濃い影を落としている。そして、一人だった。
彼は周囲を見回し、ため息をついてから、箱を木の根元に埋めた。作業が終わった後もしばしその場に膝をついたまま、うつむき、土に汚れた手を組んで額に当てる。
「……なぜ、守って下さらなかったのですか。あなたと同じ名の、あなたの血を引く者が、デニスの為に戦い続けたというのに」
ほとんど声にならないささやきで語りかけ、彼はじっとうずくまっていた。
数百年を生きた大樹に、もはや葉は残っていなかった。乾いた枝の端から少しずつ崩れ、何もない大地に太い幹だけが立っていた。
かつてせせらぎの流れていた窪みに、つむじ風が舞う。と、そこには一人の青年が立っていた。彼は周囲を見回し、自分を待っていたかのような幹だけの樹に気付くと、悲しげに微笑んだ。
短く貧相な草を踏んで、彼は樹の根元に歩み寄る。そして、鞄から薄い箱を取り出し、土に埋めた。
「これでおしまいです」
誰にともなく、彼は語りかけた。かつて墓標のあった場所はもう分からないので、唯一そこを動かずにいた巨樹の幹に向かって。
「祖父は、最期まで自分で来たがっていました。色々あって、かないませんでしたが……でも、もうこれからは大丈夫でしょう。この地はこのまま、忘れ去られるかも知れません。でも、消し去ろうとされることはない。だから……どうか、偉大なるエンリル様、いつかその時が来るまで……祖父の言伝を、守って下さい」
お願いします。
深く頭を下げ、彼は黙祷した。それからゆっくり踵を返し、数歩離れたところで、風に溶けるように消えた。そうとは知らず、かつてこの地を去った魔術師と同じように。
さらに時は過ぎ、残されていた幹もいつしか小さくなり、崩れ、痕跡さえも見えなくなって。
砂が、その上を幾重にも覆っていった。静かに、深い眠りの底へと大地を沈めるように。
そして――
ざわめく人の声と、行きかう靴音、用心深く砂を掘るシャベルの音が、古い時代を眠りから呼び覚ました。
「あった! 出てきましたよ、高地のと同じ箱です。やっぱりここで間違いなかった!」
喜びの叫びに、歓声が重なる。土中に深く埋もれていた箱が慎重に掘り出され、人の手から手へと渡されていく。
最後にそれを受け取った手が、慈しむようにそっと土を払った。
「……来ましたよ、約束通り」
ささやきが落ちた。言葉は時の狭間に滑り込み、過去へと遡ってゆく。そして、想いを連れて戻ってきた。
――やあ、また会えましたね。
遥か彼方から、乾いた風が微かな声を運んでくる。青い髪に縁取られた顔に、穏やかな笑みをもたらして、風は空へと還って行った。
(終)
長い物語に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。




