二十六章 (2) 未来への架け橋
その日が来た。
イシルがある程度は自分の意志で決められるというので、皆で相談して選んだ日。この世界の何かの記念日とぶつからないように、また、カゼスが長の仕事を出来るだけ片付けて次の長となるヴァフラムに引継ぎを済ませられるように、と。
盛大な送別会になっては困るので、カゼスはごく限られた友人知人だけをエデッサに呼び、他の魔術師たちには書面で通知を済ませた。
日が沈み、薔薇色の空にぽつんとミネルバの光が灯る。
その時が来ると、カゼスは招いた一人一人をしっかりと抱きしめた。アーロンもナーシルも、リュンデやヴァフラムも、そして――ケイウスも。エンリルは複雑な顔をしたものの、抱擁を拒みはしなかった。
それが済むと、カゼスは湖岸に描いた陣の中に、エイルと並んで立った。最後に皆と微笑を交わし、目を閉じる。サクスムで見た術の応用で、通知を読んだ魔術師たちのもとへ声を届ける糸を伸ばしていった。
湖の中からイシルがその巨体を現し、見送りの者たちを驚かせる。
その時にはもう、カゼスの意識はすっかり精神世界に入っていた。
〈聞こえますか〉
穏やかに、静かに、呼びかける。糸の届く範囲で、大勢の魔術師が応えるのを感じた。遠方の魔術師たちにもこの日時は知らせてあるし、これから話す内容も既に書面に記したものだ。読んだ者のうち一人でも多くが、書いた通りにしてくれることを願いつつ、カゼスは続けた。
〈明るい星が見えますか。ミネルバという名前の星が。見える人はあの星に向かって、見えない人はただ空に向かって――〉
多くの意識がカゼスのもとに集まり、ゆっくりとひとつの方向へまとまってゆく。
〈祈って下さい。消えてしまった同胞たちに、呼びかけて下さい。その声は彼らに届くはずです〉
向こうから呼ばれているのだ、応える声が届かないはずはない。数百、数千の意識が、それぞれに呼びかける相手を想い、それが小さな光となってきらめきはじめる。
〈彼らはこの世界に絶望し、疲れ果てて、呼び声のもとへと去りました。彼らに慰めと希望を届けて下さい。もう苦しまないで欲しいと、そして絶望されたままの世界にしてはおかないから、安心して欲しいと……〉
セレスティンの姿がカゼスの脳裏をよぎった。カゼスの声が揺らぎ、多くの意識もまた、消えてしまった友人や家族であった魔術師を想ってさざめいた。
〈大丈夫だから、今も忘れていないから、――愛しているから、と〉
きらめきが輝きになり、大きくうねりはじめる。
波立ち、叫び、強く強く、失われた人に対する想いが高まってゆく。
カゼスは深く息を吸った。集まった精神とイシルの力を受けて、陣が輝いているのを感じる。足は既に、物質の大地を離れていた。
〈……もし、今日より後にあなた方の中の誰かが“声”に呼ばれ、その元へ行くと決めるなら、その時はどうか絶望ではなく、希望と覚悟をもって“あちら側”へと渡って下さい。残された人に悲しみと後悔を与えないように〉
追い詰められて逃げるのではなく、自らの意志で新天地へと向かうのなら、それを止めることは誰にも出来ない。
〈でも今は……どうか、祈りを。追い詰められ、故郷を捨てたと自らを責めている人たちのために〉
精神の目がイシルの姿を捉えた。白い輝きに包まれ、そのままどんどんまばゆくなり、膨張していく。数多の祈りがそれに伴って、天を指して昇りはじめた。
イシルの自我が薄れ、力場とのつながりが弱まっていくのがわかった。精神世界の中で、輝きの中にかすかに残っていた緑青色の目がカゼスを見つけ、そして少し笑うように細められたと思った、刹那――
光が、はじけた。
かつてイシルだったものは無数の星となって砕け、そのひとつひとつが新たな命を得て泳ぎだす。大部分は大きな波となって世界に広がり、残る一部は囂々たる滝に姿を変えた。その流れ込む先は、下ではなく、上だ。
空へと落ちてゆく光の滝に、カゼスとエイルの姿も溶け込んでゆく。祈りと、思慕と、多くの呼び声を道連れにして。
カゼスはエイルをしっかりと捕まえたまま、滝と共に落ちて行った。デニスがどんどん遠ざかるにつれ、少しずつ流れの勢いがおさまってゆく。
やがて、色とりどりの意識の光は、穏やかな川になった。カゼスはふっと息を吐き、エイルを軽く揺さぶって目を覚まさせた。
一般人がまず目にすることのない『狭間』の光景に、エイルは眩暈を起こしかけたようだったが、ちょっと瞼を押さえてから、どうにか意識をしっかりさせることに成功した。
「凄まじい眺めだね」
「これでもおさまった方ですよ。さあ、ここからは私たちも帰り道をしっかり選ばないと」
流れはまだ、引かれるままに二人の先へと進んでいる。その向かう先に目をやり、カゼスは小さく息を呑んだ。
「ファルカム」
青い髪の青年が見えた。まさに“呼び声”を送っていたところだったのだろう。応えのかわりに押し寄せた祈りの波に、彼は驚いた顔をしていた。が、その青い瞳がカゼスを見つけると……
「――」
何かを言ったようだが、声は聞こえなかった。ただ、とても嬉しそうに彼は笑った。カゼスは一瞬ためらい、それから、軽く手を上げて挨拶をする。
今の彼はまだ、カゼスが何者かを知らない。遠い未来にファルカムの遺産を受け取る者であろうとは知っていても、自分の子だとは。だがそれでも、何かを感じ取ってはいるようだった。
ファルカムの姿が一瞬消え、すぐにまた現れた。今度は、もう一人の意識が傍らにいる。長い金髪の女が。
目と目が合い、懐かしい共鳴が胸の奥を震わせる。
今のセレスティンはまだ、その面に不安と恐れと悲しみを湛えていた。カゼスは微笑み、うなずいて見せる。それから、ゆっくりと輝く流れを抜け出した。
二人の姿が消え、流れの力も温かさも肌から離れてゆく。流れが向こうに達したら、あの二人だけでなく多くの魔術師が……レーニアたちが、それを感じるだろう。
カゼスは束の間そこに佇んでいたが、じきに、エイルを振り返った。
「さあ、私たちの時代に帰りましょう」
「うん、そうしよう」エイルは明るく応じ、眼鏡をちょっと押し上げておどけた。「ただ、道案内は頼むよ」
カゼスは笑みを返し、うなずいて歩き出す。流される心配がなくなったので、リトルもカゼスから少し離れて、ふわふわとついて来た。
しばらく二人は無言だった。色彩の渦がゆったりうねりながら後ろへ消えていく中を、のんびりと歩いてゆく。
やがてエイルが、はあ、と大きなため息をついた。
「なんだか色々あって、ものすごく長い間、あっちにいた気がするね。実際には半年も経ってないのにな」
「五年前の私は、帰りつくなり冷蔵庫の中身を心配するはめになりましたけどね」
あはは、とカゼスが笑う。エイルもちょっと笑い、それから曖昧な顔になって小首を傾げた。
「……今度は荷解きの心配だね。それで……ひとつ、提案があるんだ」
そう言っておきながら、エイルはそこで口をつぐんでしまい、先を続けない。カゼスは振り向いて目をしばたいた。
「なんですか?」
促すと、やっとエイルは頭を掻き掻き言った。
「もし、出発した時と状況がほとんど変わっていなかったら、そして私たちが今回のことを記憶したままでいられるのなら、の話なんだがね。その……お互い、大掃除をして出てきたわけだし……どうかな、一緒に暮らさないかい?」
「ぅえ!?」
カゼスが奇声を上げる。リトルが例の見事なため息をつき、正気を疑う声音で応じた。
「せっかく生きて帰れたのにゴミに埋もれて死にたいなんてどうかしてますね」
「うるさいっ」
すかさずカゼスは唸ったものの、エイルに対してはどう返事をしたら良いのか分からず、ただただ困惑して目をぱちくりさせるばかり。そんなカゼスに、エイルは苦笑した。
「前から考えてはいたんだよ。なんというか、君を……一人で放ってはおけない気がしてね。ただ、私が君の担当になった頃はオーツ君もまだ独身で、ちょくちょく君の家に遊びに来ているようだったし、他人の私がお節介を焼くのはどうかと思って」
「ご厚意はありがたいんですけど、私は一人暮らしの方が……」
「ああ、うん、厚意じゃなくて、単なる希望だよ。実を言うと、私も家族とはうまく折り合いをつけられなかったクチでね。一人暮らしなんだが……時々、誰か一緒にいてくれないかなぁと思うんだ。風邪をひいて寝込んだ時なんか特にね」
「それは同感ですけど」
カゼスもつられて苦笑した。病気をすると一人の不便さが身に染みる。リトルがいるので、誰にも知られず死んでしまうことはないにしても、玉っころに看病は期待できない。だからと言って、それだけのために他人と同居というのはどうかとも思うのだが。
「そうだろう? まあでも、いきなりどこかに新しい家を借りて、っていうのも大変だし、もし出来るのなら、君の家のドアのどれかひとつを、我が家のドアとつなげておくとか、そんな感じでもいいんだ。掃除しろとか三食きちんと食べろとか、うるさく言うつもりもないし。家の中で時々出会う他人、ってところかな」
「……はぁ……まあ、そのぐらいなら……」
いまいち乗り気でないまま、カゼスは曖昧にむにゃむにゃ言う。エイルはにっこりして、励ますようにカゼスの背中をぽんと叩いた。
「今回のことで一番の収穫は、君と少し距離が縮まったってことかもしれないな。五年かかって、ようやく友達になれた気がするよ」
「後悔しますよ」
横槍を入れたのはもちろんリトルだ。が、エイルは動じなかった。
「そんなに警戒しなくても、君の大事な相棒を横取りする気はないよ。私は特別な存在になりたいわけじゃない。ただ、助け合いが大事だなぁと思うだけさ」
軽くいなされて、珍しくリトルが黙る。カゼスはエイルのとぼけた口調ですっかり気楽にさせられ、声を立てて笑った。
「ええ、そうですね。それなら……出来そうな気がします」
家族、伴侶、親友――そういう『関係』になること、それを保つことは難しくても。時々ちょっとお互いの様子を見て、必要な時には手を差し伸べたり、あるいは特に何ということもなくそばにいたり、そういう行動をとるだけなら。
(出来るかもしれない)
そう思いながらカゼスはエイルを見て、
(違うな。うん、私もそうしたいんだ)
初めてそう感じた。改めて気付かされたのだ。エイルはとっくにそうしてくれていたのだ、と。仕事だからではなく、放っておけないから、という理由で。そしてそれはお節介でも苦痛でもなく、実際カゼスにとっては助けとなるものだった。
「ありがとうございます」
過去にしてくれたこと、今申し出てくれたことに対して、カゼスは深い感謝をこめて礼を言った。お互いに前を向いて歩きながらではあったが、心は伝わったらしい。エイルもしみじみとした声で、うん、とだけ応じた。
それからは、もう、言葉は交わさなかった。
歩き続けるうちに、狭間の色彩と入り乱れる風景がだんだん薄くなり、遠ざかってゆく。二人の前に伸びる細い道が、少し先で、明るい光の中に消えていた。
――出口だ。




