二十五章 (3) 再生の一歩
数日後にはカゼスが自力で歩けるようになったので、早速と仕事が舞い込んできた。転移装置の修理である。最初にデニスの施設に許可が下りたのは、エンリルの功績と、エデッサにある学府への配慮とが理由だった。
少なくともデニスで魔術が使えるようになれば、学府の機能はある程度まで回復する。長衣の者の活動が従来の軌道に戻れば、他の地方でも情勢が安定に向かうだろう。中立で人道的で世界規模、かつ実際に『力』を有する組織があることは、どこの国や地方で暮らす人間にとっても安心を与えてくれるものだから。
レムノスの転移施設では既にワルドが準備を整えて待っており、ヴァフラムやリュンデのほか数人の魔術師も見学に来ていた。ワルドが手順や技術的な解説をまとめた冊子は技術者には役立つが、魔術師にとっては不親切な部分も多い。何より実際に見て自分の精神で覚えるのが確実、というわけだ。
カゼスはまだ青白い顔をして、心配そうなナーシルに付き添われていたが、今のところは誰の手も借りずに歩いていた。
転移室に集まった面々を見回し、カゼスは自信なさげに微笑んだ。
「ワルドさんが、サクスムで行った修正をまとめて下さったみたいですけど……まったく同じに出来なかったら、すみません。それじゃ、まずこの陣から直しますね」
見物人がうなずいて、ぞろぞろと部屋の隅へ避ける。カゼスは陣の中央に進み出ると、しゃがんで床に手を当てた。すっ、と精神が集中し、余計なものが意識から締め出される。
陣をなぞると細工された箇所はすぐに見付かった。サクスムで描き直した陣を思い出しながら、古い陣を消して新しく線を引き、力の道筋を作ってゆく。
半分ほど作業が進んだところで、早くも周辺の力が流れ込み始めた。堰の割れ目を見つけた大量の水のように、圧力が一気にのしかかる。カゼスは今にも暴れだしそうな流れを押し戻し、なだめ、逸らせながら、素早く陣を描き上げた。
意識の筆が最後の線をつなぐと同時に、わあっと歓声が上がるのが聞こえた。カゼスは顔を上げ、床の上で輝いている陣を確かめた。支障なし、大丈夫だ。
ほっと息をつくと、カゼスは「まぁこんなものでしょう」と曖昧にうなずいた。最初の輝きが一巡したあとは、陣はうっすら光って見える程度におさまっている。いつでもどうぞ、と誘うかのように。
「地域によって多少の変更は必要だと思いますけど、そこは作業に当たった人が決めて下さい。基本的なところは同じですから」
そう言う内にも、周辺の力場が緩みはじめるのが分かった。暗く荒れ狂っていた海が静まり、真っ黒に垂れ込めていた雲が切れて薄日が射してくる感覚。魔術師たちが揃って気持ち良さそうにしているので、ワルドは変な顔をして彼らを見回した。
「……なんだか、怪しい人たちの集会に紛れ込んだ気分だわね。そろそろ次、行かない?」
相変わらずの物言いに、カゼスは苦笑しながらうなずいた。
操作室に入れるのはワルドともうひとり見学の技術者、それにカゼスと左右の輔官だけだったが、こちらも問題なく終わった。てきぱきとワルドが進めるので、カゼスは横からちょいと数枚のパネルを描き替えるだけで済んだ。ワルドがあれこれしている間、カゼスは自分が倒れていたという床をつくづく眺めてみたが、徹底的に洗ったのかそれとも突貫工事で張り替えたのか、血の染みひとつ見当たらなかった。
(レムル)
確かにここにいたんだ、と少し心もとない気分で自分に言い聞かせる。あれからまだ十日も経たないのに、すべてが嘘のようだ。それなのに、もう一度会いたいと思っても決して叶わない。目を閉じて耳を澄ませても、彼の声は聞こえてこなかった。
やがて作業が終わると、一同は広い待合室に集まってすこしばかり技術的な問答をした後、試運転を行った。次の施設、エデッサへ移動するのだ。
同様の手順を踏んで修理したら、また次のデニス州内施設へと移動する。その繰り返し。カゼスとワルドだけでなく、今後各地での修復を担っていくことになる見学者たちも、順に作業を行った。
仕事は一日がかりになったので、病み上がりのカゼスは早々にヴァフラムとリュンデに任せてしまったが、それでも一応、すべての施設に同行はした。
実際にはその必要もなかったが、とりあえず自分の目で確かめておきたかったのだ。あとは単に、覚えのある土地にもう一度立ちたいという、それだけが理由だったので、後半になるとカゼスは勝手に施設の外へ出て日向ぼっこなどしている始末だった。
ともあれ無事にすべての作業が済むと、一行はレムノスに戻ってささやかながら祝杯を挙げた。エンリルが気前良く迎賓館を使わせてくれたのだ。
酒肴を整えて慰労してくれたのは、デニス総督からの感謝のしるしと言われれば納得できるものの、ひょっとしたら単にエンリルが主導権を誇示しようとしただけかもしれなかった。
もっとも、彼の真意がどうあれ気にするような魔術師たちではなかったし、料理も酒も申し分ないものだったが。
「これで数日すれば、デニスでなら以前のように魔術が使えるんですね」
ほっとした様子でリュンデが言うと、ヴァフラムが嬉しそうにうなずいた。
「しかもサクスムのように一箇所だけではなく、まとまった地域全体の力場が元に戻れば、他の地域にも徐々に影響が広がるだろうな。元通りとはゆかずとも、精神体での作業は楽になるだろうし……力場が安定する頻度や時間も増すかも知れん」
「悪用する者が現れぬように、より一層の注意が必要だな」
水を差すようなエンリルの言葉にも、頼もしい右輔官は動じなかった。穏やかにうなずき、力強い口調で応える。
「ええ。我々全員がそのつとめを果たすつもりです。エクシスのように一握りの魔術師にだけ、処刑者として重荷を負わせるのではなく」
横で聞いていたカゼスは彼の言葉で思い出し、こそっと小声で問うた。
「そういえば、エクシスさんは?」
「まだ行方不明のままだ」答えたのはエンリルだった。「出てきたところで対して役に立つ証言が得られるとも思えんし、人手を割いて捜索するまでもない」
「あ……そうなんですか……」
突き放した物言いに、カゼスはなんとはなしにがっかりし、今さらながらエクシスの身の上を案じた。ファルカムとレムルのたくらみに巻き込まれて、彼にしてみれば双子の兄弟を二重に失ったのだし、それだけでなく魔術師としての生活も……
と、そこまで考えたところで、額に何かがビシッとぶつかった。
「あだっ」
奇声を上げたカゼスに、エンリルは殻つきの煎り豆を弾いた姿勢のまま、苛立ちの浮かぶまなざしをくれた。
「いい加減に、他人の人生に首を突っ込むのはやめろ。おまえは自分で思っているほど、他人に影響を与えてもいないし、その責任を取れる器でもない」
「…………」
容赦ない言葉がざっくりと突き刺さる。カゼスが絶句していると、エンリルはまたひとつ豆を取り、指先でもてあそびながら続けた。
「そもそもおまえは自分の人生の問題を片付けるために、こちらへ来たと言っていたはずだ。あれが嘘でないのなら……そっちはどうなった? もうけりがついたのか」
「それは」カゼスはふと考え込み、しかしすぐに顔を上げて微笑んだ。「……ええ。多分、もう大丈夫だと思います」
呼び声の正体も分かったし、理由も分かった。これからはもう、聞こえたとしても引かれてしまうことはないだろう。それに――転移装置を直してしまった以上、魔術師たちが罠に追い込まれるようにしてミネルバへ行くこともないだろうし、となればファルカムも諦めるかもしれない。時空を越えてカゼスにも届いた呼び声が、止むかもしれない。
元の時代に戻った時、何がどうなっているかはまだ分からないにしても、旅立つ決意をした理由は解決できたのだ。
カゼスの表情を見つめ、エンリルは不意ににやりとした。
「それなら、私も遠慮なく言えるわけだ。どこなりと貴様の呪われた故郷へ帰れ、とな」
そしてまた、豆を弾く。今度はそれを受け止め、カゼスは渋面を作った。
「鬼じゃないんですから、煎り豆で追い払おうなんて止めて下さいよ」
「鬼?」
「どこかで聞いた伝承です。武器がないから煎り豆で鬼だか悪魔だかを追い払った聖職者がいたんですって」
「それなら鍋いっぱい用意させるんだったな」エンリルは笑い、葡萄酒を呷った。「まさかこのまま長として居座るつもりではなかろうな」
「そんなに私がいちゃ迷惑ですか」
わざとらしくカゼスが拗ねると、横からリュンデが口を挟んだ。
「私はカゼス様がいてくださるなら、大歓迎ですけれどね」
「私も同感ですな」ヴァフラムもうなずく。「いつでも身近に救世主がいるというのは、たいへん心強いものです」
「…………」
内線一本で呼び出せる救世主は、どうやらここでも同様らしい。カゼスは虚ろな笑みを浮かべ、やれやれと頭を振った。
「光栄ですけど、辞退しますよ」そう言ってから、つぶやきで付け足す。「自分のしたことを確かめなければならないし、その結果を受け止めないと」
カゼスの故郷の正確な時間と位置を知らない、その頃の自分達の世界を知らない面々は、きょとんとなった。が、カゼスがそれきり何の説明もしないので、戸惑いながら彼らは話を続けた。
「でも、明日にも故郷へ発たれるわけではないのでしょう?」と、リュンデ。
「ええ。まだこちらで会いたい人もいますし、体調もいまいちだし、何よりもうしばらく待って力場が落ち着いてからでないと帰り道が開けません。それまでは、長としての仕事もちゃんとやらせて貰いますからご安心を」
カゼスが答えると、エンリルが何か言いたげに口を開いた。さっさと帰ればいいのに、とでも言われるかとカゼスは身構えたが、エンリルは少しためらうような顔を見せ、曖昧な口調で言った。
「……戻ったら、何をするつもりだ?」
漠然とした問いだった。戻った時にカゼスの立っていられる地歩があるのかどうか、案じているかのような。うっすらと瞳が紫がかっているのは、何か予感でも抱いているのだろうか。
カゼスはその問いにかすかな不安をおぼえたが、あえて明るく答えた。
「さあ、どうしましょうね。きっとまた何かやらなきゃいけないことが待っているんでしょうけど……仕事とか荷解きとか……でもまぁ、まずはのんびりごろごろしますよ」
そう出来るかどうかなどまったく分からなかったが、ここで不安を語っても何にもならない。おどけて肩を竦めたカゼスに、エンリルも苦笑して、それ以上は問わなかった。
「いい身分だな」
皮肉っぽく一言、けれど羨望というよりは希望をこめて、彼は杯をちょっと挙げて見せた。
「長殿の休暇に」
「それじゃ私は、総督の健康に」
休みはとれそうにありませんからね、と揶揄し、カゼスは杯を乾した。エンリルが苦笑し、空になった杯を置く。
何かに触れたわけでもないのに、杯はごく小さく、澄んだ音を立てた。それぞれの祈念を聞き届けたというかのように。




