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二十五章 (2) 人の温もり



 仕事がひとまず片付き、ラジーが書類を持って帰ると(道具類は部屋の隅に置いてある。明日も働けということだろう)、付き添っていたエイルも休息を取りに行った。入れ替わりにやってきたのは、アーロンとナーシルだった。

 アーロンは小さな花束を持ち、ナーシルは小脇になにやら箱を抱えたまま、ぶんぶん手を振って陽気に挨拶する。

「やあ若旦那、なんとかこの世に戻ってきたみたいだね」

 今、馬鹿旦那って聞こえたのも、にこにこ笑顔が嘘っぽく見えるのも、気のせいかなぁ多分気のせいじゃないよなぁ、などとカゼスはこわばった笑みを浮かべ、ちょっと手を上げて応じる。案の定、近寄ってきたナーシルに、平手で頭をはたかれた。

「まったく、なんて無茶をするんだよあんたは。信じられないね、自分の価値を分かってないだろ本当に。もう少しで俺、イブンの旦那に給料半分返さなきゃならないところだったじゃないか」

「そんな取り決めだったんですか?」

 思わず本気で驚いたカゼスに、ナーシルはほとんど憐れむような目をした。

「そういう話じゃないよ。……やれやれ。まぁ、荷物持ち兼護衛を頼まれてたのに死なれたんじゃ、後のほうの仕事は果たせなかったってことになるだろ。そもそもあんたみたいな奴、どうやったって守りようがない気がするけどさ」

 諦めた風情で頭を振ってから、彼は手に持っていた箱を無造作に差し出した。土産物らしい、寄木細工の小さなものだ。

「ほらこれ、見舞いの焼き菓子。嘘か本当か知らないけど、皇帝エンリルの時代から続く老舗ってとこで、あんたや皇帝陛下も好きだったって謳い文句がついてた奴、見つけたから買ってきた」

「えっ」

 途端にカゼスはころっと笑顔になり、なんだろう、といそいそ受け取る。蓋を開けると、ふわりと独特の香りが立ち昇った。

「うわぁ、懐かしい」

 麦粉と卵などをまぜた生地を薄くのばし、様々な種子や香辛料をふりかけて焼いた、素朴なものだ。元は庶民の菓子だったが、どうやらエンリルが買い食いして箔がついたらしく、カゼスの記憶にあるよりは少し繊細で贅沢な仕上がりになっていた。

 一口かじると、さっくりと変わらぬ歯ごたえで、カゼスはすっかりご機嫌になる。幸福そうなその笑顔のほうこそ、菓子よりよほど甘くて柔らかくとろけそうだ。

「あー、美味しいですー。お二人もどうぞ」

 ほらほら、と勧められて、ナーシルは苦笑しながら一枚取った。アーロンも、花を花瓶に挿してから相伴にあずかる。

「本当にこれ、五百年前と同じ味なんですか」

 笑いながらアーロンが問うたので、カゼスは小首を傾げた。

「どうでしょうかねぇ。流石に、あの頃と同じじゃないと思いますけど。基本的には、こんな感じでしたよ。フィオがよくお茶を淹れてくれたっけ」

 夢見がちに回想するカゼスに、ナーシルがつくづくと呆れた風情で言った。

「いまさらだけど、本当にあんたが、あのラウシール様なんだよな……。はぁ」

「なんですか、ラウシール様だったらお菓子食べて和んでちゃ駄目なんですか」

 カゼスはむくれて言い返す。ますます幼稚臭い。ナーシルがお手上げの仕草をし、アーロンが笑った。

「美味しいものは誰が食べたって幸せですよね。そうそう、あなたが喜びそうな知らせがあるんですよ。イブンさんがね、あなたが良くなったら快気祝いをしたいから、一度キホールに来て欲しい、って」

 イブン、と聞いて一瞬誰のことか分からず、カゼスは目をぱちくりさせた。それから、ああと思い出してうなずく。次いで、うわ、と苦笑いになった。

「もしかして、あの人にも知らせちゃったんですか。今回のこと」

「雇い主には報告するのが当然だろ」とナーシル。

「ほかにも色々助けて貰ってますし、しばらく手紙を出せませんでしたからね。これまでのことをまとめて書いて送ったんです。そうしたら、例によってすぐ返事がきました」

「……そうですか」

 カゼスは力なく笑い、それから両手で顔を覆った。あぁきっと殴られる、馬鹿だの頓馬だの罵られる。だがそれさえも、今は楽しみだと感じるばかりだった。きっと怒られるだろうし、呆れられもするだろう。けれどその後で、ともかく生きてて良かったと、杯を挙げてくれるに違いない。

 アーロンはそんなカゼスの様子を面白そうに眺めていたが、頃合を見てこほんと咳払いした。

「僕もそろそろ学院に戻って先生に言い訳しなきゃいけません。予定よりも随分長い間、遠くまで出かけたままですからね。資料はいろいろ集まりましたけど……ラウシール当人と一緒に行動していたなんて知られたら、何を言われるか」

「何を、って?」カゼスが首を傾げる。

「どうして本人を連れてこないんだ、とか、もっと早く知らせてくれたら質問の一覧表を送ったのに、とか」

 おどけた口調のアーロンに、カゼスもつられて笑った。

「今からでも、質問に答えるぐらいは協力しますよ。でも、私が五年前の記憶を頼りにあれこれ言うよりは、皆さんの方が客観的で正確な知識や判断を、既に手に入れているんじゃないかと思いますけどね」

 そこまで話した後、カゼスはふと、無意識にため息をついた。アーロンが察して、ナーシルと目配せを交わす。

「あなたがもう少し元気になったら、お願いするかもしれません。ともかく今は休んで下さい。僕らはそろそろ失礼しますから」

「あ……、すみません」

 気を遣わせてしまって、とカゼスは苦笑する。実際、言われてみると喋るのも億劫になりつつあった。体が重い。アーロンは、どういたしまして、と言うように微笑んでうなずくと、菓子の箱をベッド際の小卓に移した。

「キホールに戻る時には、僕もご一緒させて下さいね。イブンさんにも会いたいですし、お祝いに紛れ込ませてもらいたいですから」

「もちろん」

 カゼスが応じると、アーロンとナーシルは、それじゃ、と手を振って出て行った。

 見舞い客のいなくなった病室はしんと静かで、黄昏の光が差し込んでいるせいもあって、不意に侘しく切ない空間に変わった。カゼスはぼんやりと窓の外を眺め、無意識にリトルを手探りして引き寄せる。

 瞼が勝手に下りてきて、カゼスはうとうとと浅い眠りに引き込まれていった。


 ふと、人の気配がして目が覚めた。室内は既に暗い。首をめぐらすと、誰かが燭台を小卓に置いたところだった。蝋燭の炎に照らされて、横顔が浮かび上がる。

「ケイ……?」

 寝言のようにカゼスが呼ぶと、ケイウスは少し驚いたように振り返り、微笑んだ。

「起こしてしまいましたか。様子を見に来ただけだったんですが」

「ちょっとうとうとしてただけですから、大丈夫です」

 カゼスは答え、もぞもぞと身体を引き起こす。リトルがぼんやりと穏やかな光を放ったのは、蝋燭の弱い光を補うためか、それとも自分の存在を思い出させるためだろうか。

 ケイウスはベッド際の椅子に腰掛け、しばらく無言だった。カゼスも、特に何か言う必要を感じず、黙ったまま手の中でリトルを転がす。ややあって、ケイウスが静かに問うた。

「傷の具合は、どうです」

「ほとんど治ってますよ。まだちょっと痕は残ってますけど……問題なのは、血が足りないって方で、こればっかりは時間がかかりますからね」

 仕方ないです、と苦笑したカゼスに、ケイウスはごく自然に手を伸ばし、一瞬だけためらってから、軽くそっと傷の辺りにてのひらを当てた。胸元に触れられてカゼスは怯んだが、振り払うのもかえってお互い気まずいかと思い、複雑な気分で我慢する。

 ケイウスは束の間そうしていたが、じき、諦めたように手を離した。

「……駄目だな。俺にも、あなたのような力があれば良いんだが」

「魔術だって、何でもすっかり治せるわけじゃありませんよ。それに、もう大丈夫ですから。あとはゆっくり、毎日食っちゃ寝、でごろごろしてたら治ります。そういうのは得意ですから」

 カゼスは笑って、沈みかけた空気を払った。ケイウスもちょっと笑い、なるほど、と納得したふりをする。

 柔らかく穏やかな沈黙。その間もケイウスは、微笑んだままカゼスを見ている。カゼスはだんだんその視線に耐えられなくなってきて、無意味にうろうろと目をさまよわせた。ケイウスが再び口を開いた時には、思わずホッとした。

「あなたが何をしようとしたのか、この国で――世界で、何が起こっていたのか。色々な人に聞いて回って、やっと理解できました。すべてではないかも知れませんが。あなたの容態が落ち着いてからは、陛下にどう報告するかに頭を悩ませていましたよ」

「王様は解ってくれると思いますか?」

「今日、もう話をしてきました。失踪に関する細々した事情には興味を持たれませんでしたが、不正が行われた事実とその影響は正確に理解されましたよ。一時的に転移施設の利用料が増収になった一面はあるにしても、王国にとっては害の方がはるかに大きい、ゆえに転移装置の修復には全面的に賛成する、とのことです」

 そこまで言い、彼はまた手を伸ばして、今度はカゼスの頬や髪を撫ではじめた。いたわるように、愛しそうに、そっと優しく。

「もっと早くに話してくれていたら、死にかけることもなかったのに」

「それは……そうかもしれませんけど」

 カゼスは後ろめたいやら状況が恥ずかしいやらで、ごにょごにょと口ごもる。

「でも、どう転ぶか分からなかったし……最悪、王様が装置の欠陥を知った上で認めてる、って可能性もあったから、どうしても、その、用心を」

「ええ、分かっています。そもそも最初はお互い、目的を偽って接していましたからね」

 だからただの愚痴です、とケイウスは苦笑する。カゼスもつられて小さく笑った。

 こうして振り返ってみればまったく無駄な努力をしたものだ。悟られまい、油断すまいと、苦手な演技までして。

 カゼスがいささか滑稽な気分で自分の行動を思い出していると、不意にケイウスが腰を上げ、ベッドの縁に座り直した。ぎょっとなって振り向いたカゼスの顎を、ケイウスの手がとらえる。

「――っ!」

 反射的にカゼスは両手を突き出して、ケイウスを拒んだ。これはまずい、今までとは違う、と本能的に察したのだ。突き放されたケイウスは、そうされて初めて自分の行動に気付いたとでも言うかのように、目をぱちくりさせていた。

 しばし戸惑った後で、ケイウスは困ったように目をそらし、

「……ああ」

 曖昧な声を漏らして頭を掻いた。驚いたことに、どうやら恥ずかしくなったらしい。カゼスがぽかんとしている間に、ケイウスの方が先に気を取り直して詫びた。

「失礼。自分でも、その……そんなつもりではなかったんだが」

 肩を竦めてごまかすように苦笑し、目を伏せる。そして、もはや聞き飽きたほどの言葉を、しかし初めて聞く声音でつぶやいた。参ったな、と。

 お互いどうにも言葉が見付からず、気恥ずかしい沈黙が延々と続く。カゼスはひたすらリトルを転がしていた。

 しばらくしてとうとう、ケイウスが小さく失笑した。何とはなしに目が合い、カゼスも苦笑してしまう。いい歳をした大人がふたりして、なんとも滑稽なことだ。

 少し笑ってから、ケイウスがやれやれと頭を振った。

「静養するなら、うってつけの場所があると言うつもりだったんですが。どうやら、やめた方が良さそうだ」

「……?」

 物分りの悪いカゼスがきょとんとすると、ケイウスはその頭をぽんと軽く撫でた。

「カウロニアの農園です。空気も良いし、食べ物も美味い。我ながら良い思いつきだと考えていたんですが、どうやら単に、あなたと別れるのを引き延ばしたいだけだったようだ。……もう、あなたと一緒にいる理由がなくなりましたから」

 さらりと言われて、カゼスは予想外に衝撃を受けた。

「あ……、そう……ですね」

 今となっては『監視』も『人質』も必要ない。ケイウスも本来の生活に――農園であれ、軍団への復帰であれ――そろそろ戻るべき頃合だ。そしてまた、カゼスも。

 そうと解った途端に、カゼスはひどく寂しくなってしまった。特に今は体力が落ちているために、強がる気力も出てこない。正直にしゅんと萎れてしまう。

 するとケイウスが面白そうに、カゼスの顔を覗きこんで問うた。

「それとも、今度はあなたが一緒に来てくれますか?」

「…………」

 ぶわっ、とカゼスが赤面する。思わずケイウスの肩を力任せに叩き、バシッといい音を響かせた。ケイウスは大袈裟によろけ、肩を押さえて呻く。

「あ、す、すみません、つい」

 カゼスはあたふたと謝ってから、堪えきれずに笑い出した。

「でも今のは、あなたが悪いですよ。ずるいです」

「いけませんか」

 おどけた口調に、少しだけ諦めきれない思いがにじむ。カゼスは唇を噛んで、こぼれそうな言葉をおしとどめた。代わりに腕を伸ばして、ケイウスの肩を抱き寄せる。

(温かいな)

 前にも感じたのと同じ、安らぎが胸に広がる。不思議に心が落ち着き、しっかりと強くなっていく。この感覚に名前をつけることは出来なかったが、ひとつはっきりしていることがあった。これは、相手と生涯共に暮らすとか、つがいとなって子を産み育てるとかいったことを、求めてはいない。とても愛しくはあるけれど。

 カゼスが何も言わなくても、ケイウスは返答を理解したようだった。抱擁を返し、束の間、カゼスの髪に顔を埋めて――思い切ったように、そっと離れた。

 ケイウスは無理のある笑みを作り、ゆっくり立ち上がる。互いを抱き締めていた腕がするりとほどけ、手と手が離れる寸前、カゼスは衝動的にケイウスの指をつかまえた。このまま離してしまったら、出会うことで得たものすべてを、最後のひとかけらまで失ってしまう気がしたのだ。

 ケイウスは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと微笑んだ。その面に張っていた薄氷が見る間に溶けていく。一呼吸の後、彼は迷いなくしっかりとカゼスの手を握った。温かく強い握手に、カゼスも自然に笑みを浮かべていた。

 無言のまま、二人はどちらからともなく手を離した。

 燭台を持ってケイウスが部屋を出て行った後も、彼のいた場所には仄かに明るい気配が灯っていた。


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