二十四章 (3) 深淵
――ああ、まるで夜空を歩いているみたいだ。
カゼスはぼんやりそんなことを思った。無数の小さな星が、足元にも、前後左右も頭の上にも、一面に広がっている。それなのに、決して眩しくはない。あくまでも世界は暗いのだ。
暑くもなく寒くもなく、乾いても湿ってもいない。不思議な気分だった。
今までに何回か訪れたあの淵を、さらに深い底まで降りてきたようだ。もう、帰り道も見えない。頭上を仰ぎ見ても、果てしなく遠くて浮かび上がれそうにない。
(……死んだのかな)
どうやらそうらしい。
そう思っても、不思議と感情は湧いてこなかった。悲しくもなく、悔しくもない。かと言って嬉しくもない。強いて言うなら、仄かに寂しいような、それでいてとても安らいだ気分だった。
足の赴くまま、さらに遠くへ行こうとしかけた時、カゼスはふと影のように何かが付き従っている気がして、立ち止まった。振り返ると、そこには自分自身がいた。とはいえ、こちらは古い映像のように薄っぺらく半透明で、所々がかすれ、そして何の表情も浮かべていなかった。カゼスは目をしばたたき、それに手を伸ばす。予想通り、指が素通りした。
(……?)
小首を傾げ、自分の影を眺める。よく見ると、そっくりだがカゼス自身ではないと分かった。それが何なのかを思い出そうとして、カゼスはじっと立ち尽くす。
と、視界の隅でちらちらと星が瞬いた。
カゼスが予感を抱いてそちらに向き直ると同時に、そこにはふたつの人影が現れていた。どちらも、カゼスの影ほど薄くはないものの、やはり半透明で星が透けている。
(ファルカム……セレスティン)
二人は共に若く、優しい微笑を湛えていた。カゼスはためらいながら、数歩近付く。
言葉にせずとも、すべてが理解できた。二人がなぜここにいるのか、かつて呼びかけてきた声がどこから響いていたのか。
――カゼス自身の時間では、二人とも既にこの世のものではないからだ。
遠い過去に落ち、二人がまだ生きている時間に移動しても、カゼス自身の中では二人ともとうに死んでいる。それでも声を聞けるのは、彼らの魂が自分とつながりをもっているから。親子という、血の絆によって。
カゼスはしげしげと二人を眺めた。憎しみや怒りはなく、ただとても懐かしい。
(なんだか、妙な気分ですね)
ようやっとカゼスは可笑しくなって、顔をほころばせた。ファルカムもちょっと笑い、悪戯っぽい表情を見せる。
(年寄りの姿の方が落ち着くかね。だが、ここでは時間は何の意味もない)
(分かります)
言葉がとぎれる。穏やかな沈黙の内に、三人はそれぞれ見つめあった。それだけで、わだかまりが解けてゆく。
ややあってカゼスは、ほっと息をついた。それが合図だったように、セレスティンが口を開いた。
(ごめんなさい)
短い言葉に、多くの思いが込められている。
(逃げ出してごめんなさい。あなたをこの世に生み出して……あんな辛い目に遭わせることになるとは、想像もしなかった。助けられなかった。本当に、ごめんなさい)
謝罪にも、カゼスはただ小さくうなずいただけだった。彼女が赦しを乞うているのではないと、分かっていたから。そしてまたカゼスも、責めもしなければ、赦す必要も感じなかった。ただ彼女とファルカムがしたこと、そしてそれを悔いて詫びたという事実を、お互いが認め受け入れる、それだけが求められているのだ。
(……本当は、君を生み出すのは別の人間のはずだった)
ファルカムがゆっくり言った。彼の記憶がカゼスにもぼんやりと伝わる。二人に選ばれた、はるか未来の学者が一人。だがその女性は実験を行うことはなかった。
(奪われたのだ。だから、我々も君を取り戻せなかった)
荒らされた部屋、傷を負った女性。そしてファルカムの手の届かない場所へと持ち去られた貴重な“材料”――そんなことがなければ、少し先の時間でもう一度接触することが出来たのに。
カゼスはうつむいて首を振り、相手の記憶を拒絶した。もういい。今さら知りたいとは思わない。自分がどうやって生まれたのか、なぜ見捨てられたのか、そんなことは重要ではないのだ。
顔を上げたカゼスに、セレスティンがもう一度、ごめんなさい、と言った。そして、
(でも、私は幸せだったの。あなたが生きている、愛する人との血を分けた子供がいる、そのことがとても嬉しかった。あなたが私たちの命を、世界を、受け継いでくれると分かっていることが……とても、幸せだったの。ごめんなさい)
謝りながら、微笑んだ。カゼスが現実にはついに見ることのなかった、痛ましいながらも深く限りない喜びに満ちた笑み。
ごく自然にカゼスはうなずき、穏やかに応じた。
(それなら、いいんです)
カゼスの答えに、セレスティンとファルカムが瞑目し、わずかにうなだれる。それは、感謝のしるしとも、あるいはまるで祈りのようにも見えた。
カゼスは急に気恥ずかしくなって、わざとらしく辺りを見回した。こほんと咳払いして、誰にともなく肩を竦める。
(死んだら、もっといろんな人に会えるかなと思ってたんですけど。血縁だけじゃ、つまらないですね)
(君が今も愛する『彼』に会えると思ったかね?)
途端にファルカムがからかった。カゼスが赤面すると、腹立たしくもこんな時だけ両親ぶって、二人はくすくす意味ありげな笑いを交わした。そして、むすっとなったカゼスを宥めるように、そっと告げる。
(君はまだ死んではいない)
(え?……でも)
(そう、確かにかなり我々に近付いてはいるが、君はまだあちら側のものだよ)
(…………)
そうと聞かされても、カゼスは残念なのか嬉しいのか分からなかった。曖昧な表情で、助言を求めるかのように上を仰ぎ見る。やはり、星空がどこまでも遠く続いているばかりだ。そこへさらにファルカムが続けた。
(そしてここは、君が思っているような『死後の世界』でもない)
(――!?)
カゼスは目を丸くして、愕然とファルカムを見つめた。てっきりそうだと思っていたのに、まさか死者の口から、場所をお間違えですよ、などと聞かされようとは。
カゼスの驚愕ぶりを面白そうに眺め、ファルカムはふと視線をカゼスの背後へやった。カゼスもつられて振り向き、あっ、と声を漏らす。薄い自分の影のさらにずっと後方から、もう一人、青い髪の人影が近付いていた。
(あれは……)
ぽかんとカゼスがつぶやく。と、不意に強い潮のような力がカゼスを押した。慌てて踏ん張ろうとしたが、何しろ足場がない。それに、押す力も一向に弱まらなかった。
(ファルカム、セレスティン!)
名を呼びながら手を伸ばす。だが、彼らはそれを取らなかった。微笑んだまま、ちょっと手を上げはしたものの……それは、別れの合図のためだった。
(嫌だ、戻りたくない!)
考える事なくカゼスは叫んだ。この穏やかな聖域を去りたくなかった。ようやっと安らげると思ったのに。
だが星の海はいまや大きくうねり、カゼスを沖へ引き込もうとしていた。見る見る二人が遠くなり、薄い影だけが一緒について来る。溺れかけたカゼスの腕を、新たな人影がしっかりとつかんだ。
(……レムル)
少し安定した場に引き上げられ、カゼスは茫然と相手を呼んだ。ゆっくり、少しずつ、記憶が戻ってくる。
そうだ、確か彼を助けようとして、飛び出したのではなかったか。それなのに、なぜ彼がここにいるのだろう。自分のした事は無駄だったのだろうか。
(レムル、私は……)
何をどう言えばいいのか分からないまま、たどたどしく言葉を押し出す。だがレムルはカゼスを見ていなかった。星の海の向こう、いまや指一本ほどの大きさになったファルカムの姿に、じっと目を当てている。苦しいほど切なく恋しそうな目を。
やがて彼らの姿が消えると、レムルはカゼスの腕を引いて歩き出した。半透明であってさえ、その顔色は悪く見えた。彼が何も言わないので、カゼスも黙ってついて行く。ひらひらと薄っぺらな影を引きずりながら。
星の数が少しずつ減っていく。
長い沈黙に耐えかねて、カゼスが声をかけようとしたちょうどその時、レムルが立ち止まった。そして、疲れたように長い吐息を漏らす。
(……あの……大丈夫、ですか)
おずおずとカゼスが気遣うと、レムルはくるりと振り向き、カゼスの頭を拳で軽く小突いた。
(命を粗末にするな。おまえがこんなところで若死にしては、ファルカムが悲しむ)
そういう問題なんだろうか、とカゼスは複雑な気分で首を竦めた。が、じきに、ああそうか、と察した。
(……あなたは、ファルカムが好きなんですね)
曖昧な表現しか口に出来ないのがかえって恥ずかしかったが、この場では言葉以上に意思が伝わる。カゼスの言いたい事は相手にも正確に分かったようだった。レムルはうなずいて、彼方に目をやる。
(誰よりも愛していた)
カゼスを通して、彼はファルカムを見ていたのだろう。
(彼はレーニアだから、私を伴侶には選ぶまいと分かっていた。それでも……私は彼を愛していた。守護者としてだけではなく。だから、彼の希望を守りたかった。その『希望』自らに拒絶されるとは思わなかったが)
そこまで言って、彼は初めてふと微笑んだ。柔らかい、温かな苦笑だった。
カゼスが何も言えずに立ち尽くしていると、レムルは手を離し、そっとカゼスを押しやった。
(行け。あとは……帰り道は、分かるはずだ。おまえのその影が導いてくれるだろう。私は……ここまでだ)
(でも)
カゼスは戸惑い、相変わらず無表情な自分の影をちらと見やって、レムルの手を取ろうとした。
(あなたも帰らないと)
(無理だ。気付かなかったか?)
レムルは言い、手のひらをカゼスに向けて見せた。すっかり薄れて、消えかかっている。カゼスはどきりとして、たった今まで彼につかまれていた自分の腕を見下ろした。レムルの手のひらとは対照的に、ほとんど透けていない。その意味を理解し、カゼスは愕然とした。
(あなたは……まさか、私を助けるために)
(ファルカムのためだ)レムルは首を振り、カゼスを遮った。(行け。……そうだ、恐らくおまえは忘れてしまうだろうが、その影は覚えているだろう。いいか、アペルの寝室の床石が一箇所、動かせるはずだ。王宮内の執務室は、暖炉の右側の羽目板が外せる。この二箇所を探せ。充分なものがあるだろう)
(寝室の……え、何ですって? 何があるって)
困惑するカゼスを、レムルは呆れたような、しかし優しい笑みを浮かべて見やり、それからもう一度、今度は強く押しやった。カゼスはよろけ、足場を踏み外して倒れそうになる。
(待って、待って下さい、あなたも一緒に)
カゼスはなんとか相手をつかもうと腕を振り回す。だが届かなかった。波が押し寄せ、レムルがうずくまった小さな場を押し流した。そのくせカゼス自身は、流れを無視して真っすぐ墜落していく。
(レムル!)
叫びが虚空に消える。カゼスはさらに星の少ない闇の中へと、どこまでも落ちていった。
気が付くと、カゼスは真っ暗闇の中にぽつんと佇んでいた。どのぐらいそうしていたのか、感覚がない。どうしたらいいのか、どうしたいのかも分からない。意志も望みも、すっかり枯れ果てた気がした。
(帰り道なんて……)
うなだれてつぶやく。と、その瞬間、それまでずっと何の動きも見せなかった薄っぺらな影が、いきなりくるりと右の方を向いた。ぎょっとなったカゼスに構わず、影はそちらに身を乗り出す。カゼスにそっくりなその影は、ここに来て急に実体らしさを増し、ちらちらと細かい光をまとい始めた。
奇妙に無機的なその横顔を見る内に、カゼスは徐々に眉を寄せ、まさか、としかめっ面になった。そんな馬鹿な、いやしかし。
否定しながらも確信する。これは――これは、とてもよく知っている誰かだ。
(…………リトル?)
口にするのも恐ろしい。そんな声音でおずおずとカゼスが呼んだ瞬間、影がキッと睨むように振り返った。反射的にカゼスは身を竦め、両手で頭を抱えて身を守る。だが幸い、いつもの罵詈雑言お説教攻撃は出てこなかった。
代わりに、リトルの影はまじまじとカゼスを見つめ、それから自分の姿を見下ろしてわずかに顔をしかめた。そして、何も言わずに手を差し出す。
その仕草で、カゼスの中に感情がどっと戻ってきた。泣き出したいのをなんとか堪え、カゼスはもう一人の自分の手を握る。
(うん)
カゼスはうなずき、くしゃくしゃの笑顔を作る。
(帰ろう)
影は表情を変えない。それでも、握った手に力を込めて、ゆっくりと歩き出した。
暗闇の中に、一筋の道が出来てゆく。白くぼんやりと光る道が。やがてその道が行く手で立ち上がり、垂直になって、そこから光がこぼれ――
扉が、開いた。




