二十四章 (2) 取り残された者達
「何度も申し上げております通り、レムノスへの転移は出来ません。あちら側から点検終了の合図が転送されるまでは、こちら側で操作しても転移は不可能なんです。正午までには終了する予定ですので、お待ち下さい」
言葉だけは丁寧だが、口調にも表情にも、苛立ちこそあれ情など微塵もない。分からん奴だな、といわんばかりだ。食い下がれば食い下がるほど、その態度はあからさまになってゆく。とうとうナーシルが頭にきて拳に訴えかけた時、
「あっ、あのっ!」
慌ててラジーがその袖を掴んだ。
「支所に行きましょう。あっちにも転移陣があるし、上手く行けば使えるかもしれません」
「けど、魔術は」
駄目なんだろう、と言い返すナーシルの声も聞かず、ラジーはぐいぐい引っ張って外へと向かう。普段の内気な態度からは想像もつかない。ナーシルは抗議しかけたが、少年の目が涙で潤んでいるのに気付くと、諦めて自分で歩き出した。
横に並んだアーロンが、ここで押し問答してるよりはましです、とささやく。エイルもこわばった表情でうなずいた。
「もしカゼスの読みが当たって向こうで『ひと騒動』生じていたら、転移許可の合図が来るわけがない。ここで粘っても無駄だよ」
「あの馬鹿旦那……っ!」
エイルの台詞を理解したナーシルは、ぎりっと歯噛みした。
一行は街を駆け抜け、今朝がた立ち寄った支所に舞い戻った。視察は終わったものと思っていた所員たちが面食らった顔をしたが、ラジーは何の説明もせず頼んだ。
「お願いします、転移陣を使わせて下さい」
「それは……もちろん、使えるのならばご自由に」
魔術師たちがきょとんとするのを尻目に、ラジーはまだナーシルの袖を引っ張ったまま、転移室に駆け込む。思い出したように「あの、ラウシール様は?」という質問が背中へ飛んできたが、誰も返事をしなかった。
「ライエル様、助けて下さい」
つぶやくように祈り、ラジーは転移室の床に膝をつく。全員が陣の中に入ると、ラジーは目を閉じ、深く息を吸ってから、まずは力場に触れぬよう精神を開いた。
(駄目だ)
冷たく彼を拒絶する、暗い力場の海。絶望の波が押し寄せる。
(お願いします、ライエル様、どうか……僕らを導いて下さい)
単身飛び出して行ったカゼスの姿と、懐かしい師の姿とを重ね合わせて願う。
――と、微かな応えがあったように感じて、ラジーはハッと精神の目を開いた。暗い海の上に、ぼんやりと弱いながらも白く光る一筋の道が出来ている。ラジーの口元がほころんだ。
(ライエル様だ)
声も聞こえず、姿も見えなかったが、その気配は夜開く花の香のように間違いなく存在した。ラジーはその芳香の元へと意識を注ぎたくなるのを堪え、唇を引き結んで、白い道に精神の手を伸ばした。
『力』がそっと穏やかに伝わってくる。ラジーは初めて知る甘美な感覚に震えながら、床に描かれた陣に沿って力を流した。
淡い光が立ち上り、壁となって周囲を巡る。
力の流れが消えると、そこはもうレムノスだった。
「やった!」
ナーシルが歓声を上げ、アーロンが笑顔でラジーの背中を叩く。その間に、ケイウスはもう走り出していた。荒っぽくドアを開閉する音で他の面々も我に返り、喜んでいる場合じゃなかった、と慌てて後に続く。あまりに急いでいたので、彼らは誰も自分達を見咎めるどころか、声をかけもしなかったことに、気付かなかった。
彼らが息を切らせて転移施設の門前に着いた時、そこは奇妙な空気に包まれていた。外から見る限りでは、何の騒ぎも起きていない。しかし、すべての出入り口には軍団兵が立ちふさがっている。職員は一人も見当たらない。
「あの、すみません」
恐る恐るアーロンが門を守る軍団兵に声をかけたが、完全に無視された。彼はエイルと不安げなまなざしを交わし、施設を見やる。本当に何事も起こっていないのか、それとも……。
と、ケイウスが進み出て軍団兵に「戦友」と呼びかけた。やっと軍団兵が反応し、こちらに目を向ける。ケイウスは軍団式の敬礼をして見せた。
「元ヘジェン駐屯第十五軍団百卒長、ケイウス=フィロだ。アペル長官が視察に来られていると聞いたが、異状ないか?」
「…………」
答えに迷い、軍団兵が一同を見回す。ケイウスは声をひそめて続けた。
「我々はラウシールを追っている。ここに現れているはずだが」
途端に軍団兵は目を丸くした。慌てて平静な顔を取り繕ったが、もう遅い。
「来たんだな」
ケイウスは険しい顔になって詰め寄った。
「何があった? 長官は無事なのか。カゼス――ラウシールは?」
一呼吸ほどの間、軍団兵は躊躇した。が、じきに堪えきれなくなったように、沈痛な表情で首を振った。
「今、医者と魔術師が……」
「どけ!」
皆まで聞かず、ケイウスは兵を押しのけ、門をくぐった。エイルたちも急いでそれに続く。走り寄る一行に気付いた正面玄関の軍団兵が槍を構えたが、すぐに穂先を下ろした。普段は総督府の警備をしている兵だったので、彼らの姿を覚えていたのだ。
アーロンが息を切らせて「何があったんですか」と問う一方、エイルは返事を待つのももどかしく、中へ押し入ろうとする。だが兵士が腕を伸ばしてそれを阻んだ。
「騒がないで下さい。中で起こったことは、まだ公に知られてはならないんです」
「分かった、分かったから」エイルはじれったそうに足踏みする。「カゼスは? 怪我をしているんですか。早く会わせて下さい」
「静かに! 中で治療中です。総督かハキーム秘書官が状況を説明して下さると思いますが、くれぐれも騒がないように。いいですね」
落ち着け、と手振りでなだめてから、兵士は全員を確かめるように順に見つめ、ゆっくりと脇にどいた。すぐさま、ほとんど駆け出しそうな速足で一同が通り過ぎる。だが最後尾のラジーだけは、兵士が止めた。
「君は見ない方がいい」
静かで思いやりがこもっていたが、断固とした口調だった。ラジーは青ざめ、兵士の顔と皆の顔を見比べ――こくり、と小さくうなずいて足を止めた。いい子だ、と言うように、兵士がぽんぽんと少年の肩を叩く。それが意味するところを察し、他の四人は不安げなまなざしを交わしたものの、すぐに意を決して建物の中へ入って行った。
廊下にも軍団兵が控えており、厳しい目で警戒しながら、奥へと手振りで促した。待合室だった部屋では、アペルの警護兵五人が縛られていた。点々と飛び散る血痕は、どうやら警護兵が抵抗を試みたがゆえらしい。室内には魔術師も二人いて、負傷した兵の手当てをしていた。
そこを通り過ぎ、さらに奥へ進む。そして、
「総督!」
エンリルの姿を見付けて、エイルは思わず呼びかけた。相手はすぐに振り向いたが、その表情は、人違いかとエイルが怯むほどだった。感情という感情、すべてが奈落に消えたかのような、暗く深い絶望に覆われた顔。
生気の失せた唇が動き、かすれ声を発した。
「死んだ」
「――!」
四人はともに息を呑み、立ち竦む。だがエンリルの言葉には続きがあった。
「アペルが」
「……え?」
衝撃の次に予想外の言葉が来て、エイルもアーロンも、ナーシルもぽかんとする。その意味をすぐに理解したのは、ケイウスだけだった。
「馬鹿な。誰がやった?」
問いと言うよりは独白だった。エンリルが暗殺を企てる筈はないと、彼には分かっていた。エンリルにとっては、アペルを告発してこそ意味があるのだ。ここで死なれては、疑いも責任もすべてエンリルに降りかかる。告発どころか、自分の方が命さえ危ない。では誰が?
「分からない」エンリルはため息をつき、眉間を押さえた。「恐らくアリル=エクシスだろう。だがまだ、尋問どころか本人確認さえ出来ていないんだ。彼が……ラウシールを治療しているから」
「じゃあ、カゼスは生きているんですね!?」
途端にエイルが、エンリルに詰め寄った。両腕をつかんで揺さぶり、返事を催促する。そんな無礼をはたらかれても、エンリルはやめろと言う気力さえないようだった。煩わしそうに、形ばかり振りほどこうとしただけで抵抗をやめる。
「まだ死んでいない、というだけだ。まともに胸を一突きされている。あれはアペルの懐剣だろう……。なぜ、あいつがここに」
余計なことを、と、言葉にはされなかった。声にも非難の色はない。だが彼が、カゼスのせいで何もかもご破算になったと考えているのは明らかだ。それに気付いたアーロンが、憤然と言い返した。
「あなたが何をやろうとしているか、気がついたからですよ。あなたが危ないと思って、それで助けに……!」
感情的になりかけ、アーロンは唇を噛んで黙り込んだ。あなたのせいではないか、カゼスを責めるのは筋が違う、との非難が胸中に渦巻く。だがそれとて、エンリルの落胆同様に理不尽なのだ。
重い沈黙が一同にのしかかる。それに押し潰される前に、エイルがささやいた。
「……会えますか。カゼスに」
エンリルは手振りで行けと応じただけで、返事はしなかった。
壁にもたれたエンリルの横を通り過ぎると、開け放しの一室の手前で、廊下に横たえられた遺体の傍らに医者と魔術師らしい二人がしゃがんでいた。
「アペル殿」
遺体の顔を認め、ケイウスが唸る。医者が己の無力に打ちのめされた顔を上げ、ゆるゆると頭を振った。
「即死だったようです。いったいどうやったのか……外傷はないのに、その……頭の中身が、ぐちゃぐちゃになって」
うぐ、とナーシルが喉の奥で変な声を立てた。ケイウスはただ静かに、そうか、とつぶやくように応じて小さくうなずく。
そこからさらに奥へ行くと――操作室だった。
中を覗き込んだ途端、アーロンとエイルが顔を歪めて呻いた。ケイウスとナーシルも怯み、それ以上は踏み込めずに立ち尽くす。ラジーを止めた軍団兵は賢明だった。
部屋の中央で、カゼスは血溜まりに横たわったままだった。その上に覆い被さるようにして、アリルが両手を傷口の近くに当てている。二人ともが既に死んでしまったかのように、ぴくりとも動かず、肌は土気色になっていた。カゼスの頭のそばに落ちているリトルも、不透明なただのガラス球となって完全に沈黙している。
「……そんな」
アーロンが泣き出しそうな声を漏らし、がくりと膝をつく。エイルはよろめいて、戸口に縋るようにもたれかかった。
そのまま誰も、一言も発さず、身じろぎもしなかった。
世界が終わったかのような鉛の時間の中、時折ほんのかすかな光だけが、アリルの手を通じてカゼスの中へと流れ落ちていた。




