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二十二章 (1) 自我の泥



 カゼスは暗く冷たい道を、とぼとぼと独り歩いていた。

 自分がどうしてそこにいるのか、どこに行こうとしているのか、何も覚えていなかったし、忘れているということに気付いてもいなかった。振り返ってみることも、行く先を見やることもせず、視線を動かすことさえせず、ただ茫然と漂うように歩き続ける。

 ――と、不意にぽつりと明かりが現れた。

 あ、とカゼスの口から声がこぼれる。明かりの中に、人がいた。一見武人らしからぬ体格の、しかし身体に力を感じさせる凛とした立ち姿の青年。反射的にカゼスはそちらへ駆け出していた。

「アーロン!」

 安堵と幸福感が、一気に胸を満たした。いつもの穏やかな微笑が返ってくる。カゼスもホッと笑みを広げ、ああ良かった、と胸をなでおろした。

「あの、ちょっと聞いて欲しいんです。酷いんですよ、本当に」

 何がどう酷いのか分からなかったが、とにかくカゼスはそう言った。泣きたいほど悲しくて悔しくて辛いのに、それがどうしてなのか分からなかった。

 ぽん、と頭に手が置かれる。

「大丈夫だ」

 聞き覚えのある声が、優しく力づける。

「おぬしが生まれてきたことは間違いではないし、おぬしが生きてゆくことを禁ずる道理などありはせぬよ」

 すべてを知っている者の言葉だった。だがカゼスはそれを不自然だとは思わず、ただ縋るように相手を見つめた。その視界の端に、別の明かりが灯る。

「確か、そなたが申したのではなかったか」

 少しからかうような響きの声が、そちらから聞こえた。と思うや、エンリルがすぐそばに立っていた。

「正体が何であれ、私は私だ。名を書き換えたところで本質は変わらぬと、そのように諭されたぞ。そなた自身のことは別だと言うつもりか?」

「でも」カゼスは情けない声を出した。「だって、私はやっぱり、ろくでもない生まれだったんです。許されない生まれ方をした。それでもまだ生きてかなきゃいけないんですか?」

「そりゃ言い訳だろ、甘えんじゃねえぞ」

 背後から手厳しい言葉を投げられて、カゼスはびくりと竦んで振り返る。クシュナウーズだ。

「素直に、生きるのに疲れて嫌になった、あんな親で失望した、って言やぁいいものを、そう言ったら子供じみたわがままに聞こえるから言いたくねえんだろ」

「だって、だって!」

 カゼスはそれこそ子供のように、むきになって叫んだ。

「だってあんまりじゃないですか、勝手な望みで、時間を捻じ曲げてまで自分の遺伝子を残したいなんて、そんな理由で生み出された挙句、私が何をしてきたか! なんだってこんな人生を送らなきゃならないんです、どうして私がこんな目に!」

「そうら、本音が出たぞ」

「分かってますよ! そんなの誰だって同じだって言うんでしょう、自分の人生の責任を、親が見付かった途端に親に押し付けようなんて図々しいとか、分かってますよそんなこと!」

 喚くカゼスの頭を、アーロンがまたぽんと優しく撫でる。

「分かっていても納得のゆかぬことはある。相変わらずだな、おぬしも」

 厭味でなく、愛しそうに言われてしまい、カゼスはぐっと言葉に詰まって黙り込んだ。

 そうしてカゼスが黙ると、ほかの面々も静かになった。いつの間にか、フィオやアトッサ、その他大勢の姿までが現れ、じっとカゼスを見つめている。

 長い沈黙の後、カゼスは泣きたいのを堪えて顔を上げた。

「……どうしたらいいんでしょう?」

 返事はなかった。誰もが微笑み、知っているはずだ、と言うように、あるいはただ励ますように、目礼する。

 彼らがゆっくりと左右に退き、道を開けた。行く先は暗い。だが、小さな明かりがひとつ、ふたつ、ぽつんぽつんと灯っている。

 最後に一度だけ、アーロンが軽くカゼスを抱き締めた。

「大丈夫だ。おぬしの行くところには光がある。今までも、これからも」

 ささやきが消えると同時に、カゼスを取り巻いていた人々の姿はふわりと闇の中に溶けていった。

 闇はもう、冷たくも暗くもなかった。カゼスは涙を拭い、一番手前の明かりを目指して歩き出す。どこへ向かっているのかは分からない、だがそこならばきっと――


 ――何かを確信した、と思った次の瞬間、目が覚めた。

 途端に、その何かは朝日に溶ける霜さながら消え失せる。カゼスは目をしばたたき、鈍い頭痛と正体不明の切なさと、どうしようもない疲労感とを抱えてのっそり起き上がった。

「う……? 何が……」

 どうなっているのか。記憶がおぼろで、すぐには何も思い出せない。ぐるりを見回すと、見覚えがあるような、ないような。どこかの室内で、ベッドの上に座り込んでいるのは確かだが。

「頭いた……」

 まるで一晩泣き明かした後のような気分だ。カゼスは顔をしかめてこめかみを押さえ、もう一度ゆっくりまわりを見た。と、ちょうど視線が扉に向いた時、それがゆっくり開いた。

 そっと静かに入ってきたのは、エイルだった。二人は同時に相手の姿を認め、あ、と声を上げる。

「起きたかい」

 エイルが微笑む。カゼスはその顔を見て不意に、先ほど消え去った確信を取り戻した。そうだ、自分は彼に会いに来たのだ。暗い渦に呑まれた瞬間を思い出す。あの時、咄嗟にしがみついたあの一片の木切れは、まさしく彼だったのだ。

「あ……あなたに、あなたに会いたかったんです」

 カゼスはかすれ声で言った。堪える間もなく、涙がほろほろとこぼれる。

「話を、聞いて欲しくて……。ほかに、誰にも話せないし、あなたなら……全部、知ってるから。そりゃ、それが、仕事だからですけど、でも」

 切れ切れに言うカゼスに、エイルはやれやれとばかり、温かみのある苦笑をこぼした。彼はカゼスのそばに歩み寄ると、隣に腰を下ろして優しく背中をぽんぽんと叩く。

「あのねえ、カゼス。いくら仕事だからって、五年も一人の人間に付き合って、慰めたり励ましたり相談に乗ったり、先回りして君が落ちそうな穴ぼこを埋めたり、そんなことを続けていられると思うかい? もし君を友達だと思っていなかったら?」

 うぐ、としゃくり上げて、カゼスは涙目でエイルを見つめる。エイルは照れ臭いのをごまかすように、くしゃくしゃとカゼスの頭を撫で回した。

「うん、そりゃあね、私も悪かったよ。五年もかかってまだ、こんな基本的なことさえ、はっきりさせてなかったんだからねぇ」

 カゼスは頭を庇い、泣きたいような笑いたいような、複雑な顔になった。

「……五年」

 つぶやいて、改めてエイルを見る。五年もの間、いったい自分は何をしていたのだろう。身の上を話し、将来を相談し、私的な秘密や感情までを知られ、いつの間にかすっかり信頼してさえいたくせに、最後の一線だけは絶対に譲らなかった。

 相手にとっては仕事、自分にとっては義務。だから“友人”にはなりえないと、自ら垣根を作って、相手がそれを壊そうとしないのをいいことに、自分は決してそこから出ようとしなかったのだ。

 今回のことがあるまで、エイルに本職があることさえ知らなかった。彼が帝国時代に興味津々だということも、お酒に弱いということも。

(ああ、私は馬鹿だ)

 いったい何を見ていたんだろう。自分のことばかり考えて、垣根のすぐ外で辛抱強く待っているのが人間なのだという事実にさえ、目を背けてきたなんて。

 カゼスはため息をつくと、ようやく涙を拭い、微笑んだ。

「……ありがとう、ございます。話を……聞いてくれますか?」

 否やのあろうはずがない。うなずいたエイルに、カゼスは訥々と、自分が見たものについて語りだした。後の共和国を築いた人々のこと、ファルカムとセレスティンのこと、二人の望みのことを。

 すべてを話すと、カゼスはふっと肩の力が抜け、気分が落ち着くのを感じた。と同時に、今の状況が気になりだす。

 エイルが何を言うより早く、カゼスは慌てて「あの」と口を開いた。

「私、どうしてここにいるんです? 今はいつですか」

 急に様子が変わったのでエイルは目をぱちくりさせ、それからちょっと笑った。

「君が消えた、ってナーシルがすっ飛んできて、今はその翌朝だよ。夜の内に君はここに出てきたようだね。今朝、目が覚めたら君がベッドの端っこで丸まってたから、驚いたよ。ああ、ナーシルはまた学府に戻ってるけど、君がこっちに現れたことはリトルに知らせに行って貰ったから、君は安心してゆっくり休むといい」

 一度に色々あったからね、と言い添えて、エイルはまたぽんとカゼスの背を叩いた。カゼスは小さく、ほっ、と息を漏らす。

「……あ、いや、ええと。そうしたいのは山々ですけど、そうも言ってられませんよね」

「いいから、とりあえず全部、その辺にうっちゃっときなさい。君の得意技だろう」

 あっさりと、けれど強い口調で言われてカゼスは複雑な顔になる。それはまぁ確かに、何でもかんでもその辺に放ったらかしにするのは自分の悪癖だが。

「カゼス。こっちを見て、よく聞くんだ。いいかい、君がどんな生まれだろうと、君にはそのことに対する責任はない。恥や負い目を感じる必要もない。大事なのは、何を受け継いだか、ではなくて、何をしたか、だよ」

「……それも、酷いものだと思いますけど」

 しゅんとなったカゼスに、エイルはすぐには否定せず「うん、まあね」と一旦認めた。

「大多数の人間はろくなものを残さないし、善いものと同時に害悪を残したりもする。君が立派な人間だとは、私にも言えない。でもねぇ」

 そこで彼はふと言葉を切り、にっこりした。

「私は君と知り合ってからの五年間、とても楽しかったよ。君と話をしたり、君の家のあの凄まじい部屋に呆れたり、色んなことがとても楽しかった。それじゃあ駄目かな」

 まったく予想外の言葉にカゼスはぽかんとなり、次いで、何かしつこく肩にぶら下がっていた重荷が、ころんと取れるのを感じた。

 役に立つとか善行をするとか、能力とか立場とか素性とか、そんな事とはまったく関係なく。ただ、楽しかったよ、と言われたことが、あんまり意外すぎて、それに対する反論も防御もまるで出来なかった。

「そんなこと、初めて言われました」

 カゼスは呆然と独り言のようにつぶやく。おや、とエイルは目をしばたいた。

「まぁ、あえて言葉にしない人が多いからねぇ。でもきっと、オーツ君のような友達も、同じように思っているんじゃないかな」

 懐かしい友人の名を出され、カゼスはどきりとした。色々と嫌な事もあった学生時代だが、彼らと一緒に笑っていたあの時、確かに楽しくはあったのだ。ただそれだけのことが、不意にいとおしくなる。ただそれだけの為に、生きていたっていいじゃないかと納得する。

「うわ……」

 カゼスはぽかんとなり、それからゆっくり笑みを広げた。

「やっぱり、あなたに話して良かった」

 自問自答するだけでは決して抜けられなかった袋小路に、エイルの一言が穴を開けたのだ。新鮮な驚きは、衝撃であると同時に心地良かった。

 カゼスはほっとして肩の力を抜き、それから「あーあ」と苦笑しながら頭を抱えた。

「自分が情けないです……本当に、全然成長しなくて、いつまでも同じようなことでぐるぐる悩んでばかりで」

「そう卑下しなくても、この五年で君も結構変わったよ。穴ぼこにはまる回数は同じでも、這い上がってくるのが随分早くなったしね」

「でも、いい加減大人なのに」

 二十六歳なんて、もう言い訳のしようもない歳じゃなかろうか。

 うなだれたままのカゼスに、エイルが楽しげな笑い声を立てた。

「いやぁ、二十代はそんなものだよ。心配しなくても、三十路に入ったら落ち着くから」

「本当ですかぁ?」カゼスは疑わしげに問い返す。

「本当だよ、私だって二十代の時は君と同じように、年齢の割に大人じゃないことを悩んでいた。だけど不思議なぐらい、三十代になった途端、ふっと力が抜けたんだ。悩みがなくなるわけじゃないが、それでも大分楽になったんだよ」

 エイルは珍しく年長者らしい顔をして、眼鏡をちょいと押し上げた。

「良くも悪くも、三十代になったら否応なく自我の泥が乾きだすものさ。変な形に固まってしまうとしてもね」

 私みたいに、とエイルはおどけて、奇妙なポーズで両手を広げる。カゼスはちょっと笑い、こくんとひとつうなずいた。

「そうですか。それじゃ、私もあと少しですね。それなら……大丈夫です」

 大丈夫、と口にした瞬間、ふと胸をよぎる柔らかな想い。それが大事な人から授けられたものだと意識まではせずとも、穏やかな力がゆっくりと湧いてくる。

 優しい沈黙が二人の間に降りた。

 ややあって、「よし、それじゃ」とエイルが少し強くカゼスの背中を叩いた。

「元気が出たところで、当面の問題に戻るとしようか。少し気になったんだがね、君がここへ落ちてくる原因になったっていう、出来事……誰かの意図的な罠ってことはないだろうね?」

 言われてカゼスはあっと気付き、眉を寄せた。

「分かりません。あれは……私が動揺したせいなのかと思ったんですけど。そうでなくとも、今のレントは力場が荒れている上に、レーニアたちの『呼び声』のせいで色々と不安定なので……だからうたた寝しただけで、本来の居場所に近い側に引っ張られたのかと思ったんですが」

 でも、とカゼスは口元に拳を当てた。もし誰かの作意であるなら、その目的は……。

「君を元の時代に戻そうとしている誰かの仕業だとしたら、困るねぇ」

 エイルがカゼスの考えをなぞるように言って、頭を掻いた。

「置き去りにされちゃ、私ひとりでは帰れないし」

 わざとらしいほど呑気なその口調に、カゼスは呆れてしまった。

「それも大問題ですけど、もし私を戻らせようとしているのなら、それはつまり今この時代・場所に私がいては困る人物の仕業ってことだから、犯人は」

「レムル、ってことかな。あるいはファルカムか。転移装置を修復されたり、魔術師の失踪を止められたりすると困るってことだろうね」

「まだ、あちら側に充分な人数を確保していないから、でしょうね」

 忌々しげにカゼスが唸ると、エイルは対照的にのんびりと言った。

「あるいは本気で、レントの人々を救おうとしているのかも知れないよ」

「……?」

 カゼスは胡散臭げに眉を上げた。それだって所詮独善だろうに、と。だがエイルは淡々と続けた。

「魔術がちょっと使えるようになった途端、サクスムでは暴動が起こった。もしかしたら、こちら側にラウシールの仲間が残っていてもいなくても、この先もしまた魔術が使えるようになったら、必ず戦争が起きると……彼らには分かっているのかもしれない。思い出して欲しいんだがね、カゼス、私たちの時代にはレントはすっかり荒廃している。自然な環境変化か、さもなくば人為的な何かか……。だがそこに、魔術による戦争が加わっていたら、あの程度では済まなかったんじゃないかい?」

「それは」

 カゼスの脳裏に、隣惑星の赤茶けた大地の写真がよみがえる。見渡す限り、草一本生えない、せいぜい微生物しか生息していない荒野。だがそれでも、あるだけまし、とは言えるのかもしれない。

「そうだとしても」カゼスは首を振った。「結局ああなるのなら、レントを救うことにならないんじゃないでしょうか。あんな……」

 と、そこで、廊下を慌しくやってくる足音が響いて、話が中断された。特徴的な、杖を使う音。

「カゼス!」

 ノックもそこそこに飛び込んで来たケイウスに、カゼスは慌てて立ち上がる。彼の足取りがあまりに危なっかしく見えて、支えなければと思ったのだ。だがそうするより早く、ケイウスがしっかりとカゼスを抱きしめた。

「良かった、本当に……あなたまで消えてしまったのかと」

 はぁ、とケイウスは深い安堵の息をつく。カゼスはおたおたと、大丈夫です、ちょっとした事故で、などと言い訳を並べた。そうしながらも、頭の片隅には別の疑問が芽生え、根を下ろしていた。

 ――もし足が完治したら、また……軍に戻りますか。

 ――戻れるならば、もちろん。

 以前、船の上で交わした会話を鮮明に思い出す。あの迷いのない答え。それがケイウスに、というかレント人にとって当たり前のことであるのなら。

 ――もし魔術が使えるようになったら、祖国のために戦いますか?

 そう問いかけた時、無論だと答える者がいるのも、また当然のことなのだろう。

 そして、その答えを知っている今、カゼスはケイウスの治療を最後まで出来ずにいる。時間がないとか、そこまで精神体での作業を出来るだけの体力がないとかいった理由も、確かに事実ではあるのだが、しかし治すと決断したら不可能ではないのだ。

(どうすればいいんだろう。私は……)

 敢えて治さずにおくのか。結局、さらなる傷を負わせることになるとしても、目の前にある傷を癒すのか。

(どうすれば……)

 答えは、簡単には出そうになかった。


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