二十一章 (2) 就任
エデッサに戻るとすぐにリュンデが呼びに来て、全員を広間に集めました、と告げた。
「手際が良いですね。ずっと待たせてたんじゃなかったらいいんですけど」
「ご心配なく。まだあと二、三人、集まっていない人がいるんです。ちょうどカゼス様と同時ぐらいになるんじゃないかと思いまして」
こちらです、と案内されたのは、カゼスが一度も入ったことのない部屋だった。玉座の設えられた大広間で、昔日の風情が色濃く残されている。
(そういや五年前は、いきなりカイロンさんの部屋に飛び込んだんだっけ。それで結局、正面からは入らずじまいで……考えてみれば失礼だったよなぁ)
今更そんなことを思いながら、カゼスは観光客よろしく柱を見上げてのけぞり、壁のタペストリーに見とれ、危うく玉座の壇につまずいて倒れかけた。ナーシルが慌てて腕を掴んでくれたが、さもないと赤っ恥をかいているところだ。我に返ったカゼスが室内を見回すと、大勢の魔術師たちが、呆気に取られた風情でこちらを凝視していた。
カゼスはちょっと頭を掻いてごまかし、改めて広間を見回す。玉座のある壇上でヴァフラムが待っており、どうぞ、と手振りで促した。
カゼスは気後れしながら階段を上り、玉座の前に立った。と同時に、後方の扉からばたばたと数人の魔術師が駆け込み、息切れしながら壇を見上げた。どうやら彼らが最後らしい。カゼスはちょっと微笑み、リュンデとヴァフラムに目で確認した。
「では全員揃ったようなので」ヴァフラムがごほんと咳払いする。「新しい長を紹介しよう。既に告知を見て知っている者が大半かと思うが……ラウシールの名で広く知られている、カゼス=ナーラ殿だ」
ヴァフラムが言葉を切り、カゼスはぺこりと会釈した。まばらな拍手が起きる。一部は熱狂的に、大多数は戸惑いと疑いでためらいながら、ぱちぱちと。
カゼスは全員をゆっくり見回し、口を開いた。
「えーっと」
あまり偉人らしくない第一声だ。鼻白んだ聴衆に対し、カゼスは小さく肩を竦めてから続けた。
「今ご紹介にあった通り、セレスティンに代わって急遽、新しく長になりました、カゼスです。よろしく。皆さんの中には何か期待した人も少なくないかと思いますが、正直なところ、私も普通の魔術師ですから、大層なことは出来ません。ただ、力場が荒れた原因については、しばらく前から調査を進めてきた結果、おおよそ目星がつきました。対策の方も慎重に進めていますが、こちらはもうしばらく気長に待っていて下さい」
ざわめきが広がる。中にはあからさまに安堵した顔もあった。
「ああ、奇蹟みたいに今すぐぱっと解決できるわけじゃありませんから、そこのところは誤解しないで下さいね。皆さんには、悲観せず投げ出さず、今まで通りの仕事を続けて欲しいんです。後で、力場に触れずに精神を開く方法を教えます。『力』を利用する通常の魔術ほど多様な事が楽に出来るってわけじゃありませんが、ちょっとした調査や治療は行えるようになりますから」
途端に、うわっ、と歓喜の声が上がった。その反応に、カゼスの方がびっくりする。
場が静まるまで、しばらくかかった。やったやった、と近くの同僚と手を取り合って喜ぶ者、カゼスに向かって両手を振り上げて感謝を表す者、泣き崩れる者までいる。
唖然としているカゼスに、リュンデがささやいた。
「皆、苦しかったんです。何も出来ない、魔術師としての存在価値がない、その状態に長く耐えてきましたから」
「…………」
カゼスの胸がずきりと痛んだ。これだけ多くの――否、ここにいない者も含めて世界中の魔術師たちが苦しめられていたのは、自分達ラウシールのせいなのだ。それを知られたら、この熱狂はどうなるだろうか。
ようやく皆が落ち着くと、カゼスは無理に微笑を浮かべた。
「皆さんがそれぞれやり方を学んだら、ほかの人にも教えてあげて下さい。えっと……言うまでもないと思いますけど、私が教えるのは、あなた方がこれまで積み上げてきた技術と理論の、ほんのちょっとだけ先にある方法です。奇蹟でもなければ、革新的な技でもありません。ですからあんまりはしゃがないで下さいね。精神体での作業をやり過ぎると、ものすごく疲れますから」
おどけた言い方に、笑いが起きる。もはやそこにいるのは、有象無象ではなかった。全員がカゼスに期待し、カゼスの言葉に耳を傾け、再び魔術師としての自分を蘇らせてくれるものと信じている。
「ともかく……私に出来るのはそのぐらいです。でも、皆さん一人一人が、魔術師として本来あるべき姿を思い出し、たとえ魔術が使えなくとも『長衣の者』の一員として行動するなら、きっと物事は良くなっていくと信じています」
カゼスはたじろぎながらも挨拶を終えた。割れんばかりの喝采の中、そそくさと壇を下りる。部屋の端っこまで逃げてから、カゼスはリュンデにささやいた。
「指導できるのは多分、一度に三人、それを一日二組がせいぜいだと思います。すみませんが、その計算で予定を組んでもらえますか? 私はちょっと……一休みさせて下さい」
わかりました、とリュンデが快くうなずく。カゼスはナーシルを盾にして、そそくさと自室に戻ると、ベッドにぼふんと倒れこんだ。
「うあぁ、疲れたぁー……」
呻いた途端に腹が鳴る。ナーシルが苦笑した。
「昼飯はここまで持ってきた方が良さそうだね。俺が取ってくるよ」
ありがとうございます、と応じる声が既に途切れ途切れだ。ナーシルは一応、寝ないでくれよ、と言い残して部屋を出たが、効果は怪しかった。
とろとろとまどろんでいる内に、カゼスは気付くと深い夜空のような深淵に立っていた。
心地良い静寂が満ちている。話しかけてくるものはいない。カゼスはホッとして、それから少し残念に思った。今あの二人の声が聞こえてきたら、あまり冷静ではいられないだろう。恐らく今後も、この深淵に意識を沈める時は、身構えてしまうに違いない。聖域を失った気分だ。
ぼんやりカゼスが佇んでいると、足元の夜空が黒曜石の鏡になり、その奥からすうっと風景が浮かんできた。乾き荒んだ大地に、時代も地域もばらばらの服を着た人々が、呆然と立っている。亡者の群れ、という言葉がカゼスの意識にのぼった。それに呼応するように、雑音じみた思念が届く。
――私たちは『死んだ』ようなものだ……
――越えてはならない川を越えた
――もう帰れない、声も届かない
喪失の悲しみと底知れぬ後悔、嘆きむせび泣く声。あまりに深い絶望に、このまますべてが終わるとさえ思われた。だがしばらくして、その中から小さな声が生まれる。
――悔いても仕方がない。せめてここに新たな世界を
――苦しみの果てに辿り着いた者が安らげる国を
――そうして私たちは生きてゆこう……
ああ、とカゼスは納得した。これは、ミネルバに渡った人々の姿だ。ファルカムとセレスティンの記憶が伝わってきたのだろう。
逃げ出した者たちとて、新天地に降り立ってすぐさま幸せになれたわけではないのだ。当たり前のことだが、しかしカゼスはこれまでそのことを考えようとしなかった。そんな事実は見たくなかったのだ。
彼らもまた苦しんだのだ、選ばれて楽園に入った幸せな人々ではないのだ、と知れば、否応なく同情してしまう。よくも置き去りにしたなと恨むことが出来なくなる。そしてまた、彼らを呼び集めたファルカムたちにも、自分たちさえ良ければいいのか、という憤懣をぶつけることが、出来なくなってしまうから。
カゼスはため息をつき、やるせなく深淵を覗いた。
弱くて消えそうな『力』を循環させ、レーニアの精神を通すことで少しずつ少しずつ復活させていく人々。協力して村をつくり、街を築き、少しでも理想に近い共同体をゆっくりと作り上げて……
いつしか人々の顔に穏やかな笑みが戻り、楽しげな歌声が嘆きに取って代わり、何も知らない子供たちが無邪気に駆け回るようになって。
(良かった)
ごく自然にそう感じ、カゼスはふと微笑んだ。
その瞬間、彼はどこか村の通りに立っていた。意志に関係なく、視界が横へ動く。セレスティンの姿がそこにあり、微笑みかけられると、自分も笑顔になるのが分かった。
(ファルカムだ。私は今、ファルカムを通してこれを見ているんだ)
セレスティンはそろそろ三十路だろうか。かつての深い悲嘆と絶望、不便な土地で味わった苦労とが、その顔に年月を刻んでいたが、しかし表情は穏やかで明るい。
「私たちも早く子供が欲しいわね」
セレスティンは言って、少し寂しげに微笑み、通りで遊ぶよその子らを見やった。ファルカムの視線も束の間だけ子供たちを追い、すぐにセレスティンの横顔に戻る。
「……養子を貰ったらどうかな」
「駄目よ」
セレスティンは即答し、それからちょっとうつむいて、言い訳するように続けた。
「養子が駄目だってことじゃないの。子供は可愛いし、あなたがそうしたいと言うなら構わないわ……でも、私はあなたとの子が欲しいのよ。分かる? あなたと、私の子」
恥ずかしそうに、けれどこれだけは譲れないという強さをこめて断言する。カゼスはファルカムの痛みを感じ取った。彼女の望みは分かっている、けれど自分にはそれを叶えることが出来ないことも、同じぐらい明白なのだ。
長い沈黙の間、ファルカムが迷い、ためらっているのがカゼスにも分かった。
方法はある。だが望ましくないかもしれない、不幸な結果になるかもしれない。そもそもこんな事が許されるかどうかも……だが、それでも、ともかく方法はある。それを彼女に告げるべきだろうか。彼女の望みを……私の望みを、叶えても良いのだろうか?
不意にカゼスはぞくりと寒くなった。
自分の生まれた場所は知っている。彼が考えている『方法』とは、つまり、そういうことなのか?
嫌だ、と叫びたくなった。やめてくれ、言わないでくれ、そんな方法を試さないでくれ、と。無論その叫びをファルカムが聞き入れたなら、カゼス自身の存在が消える。だがそんなことを考える余裕はなかった。ただ、己の過去に対する嫌悪と恐怖だけに駆られて、カゼスの意識は激しくもがいた。
(誰か、誰か助けて、嫌だ怖い助けて助けて助けて)
暗闇が落ちてくる。世界が回り、見えない巨大な手がカゼスを押し潰す。
(誰か――)
どこに行けばいいのか、誰に縋ればいいのか、混乱と恐怖で理性が失われ、何も分からない。
溺れる者がするように、カゼスは無我夢中で手を伸ばした。その指先が、何かに触れる。ほんの小さな板切れ、あるいは一本の紐のような何か。
カゼスは全力でそれにしがみついた。直後、巨大な渦が一切の光と共にカゼスを呑み込み、やがてそれ自体が底知れぬ深みへと沈み込んで消えた。
――ややあって、昼食を持ってナーシルが戻ってきた時、部屋には誰もいなかった。
「若旦那?」
返事はない。書置きもなく、何かがあったと示す手がかりもない。ベッドに残った跡だけが辛うじて、そこに人がいたことを物語っていた。




