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二十章 (2) 負うべき務め



 部屋の隅で壁に額をくっつけて暗雲を背負い込み、じっと膝を抱えること半日。

 ナーシルに引きずられるようにしてエデッサに戻ったカゼスだったが、そんな体たらくで、誰に何を訊かれてもろくに返事をしなかった。しかし昼食抜きで壁と向き合っていると、流石に夜には空腹感が耐えがたくなる。

 こんな時でもおなかは空くんだよなぁ、などと虚しい気分で深いため息をつき、カゼスはこわばった体をほぐしながらのろのろ立ち上がった。部屋の小さな鏡を見ると、冴えないどころか陰惨な顔である。ラウシール様も形無しだ、とカゼスは苦笑した。

 うんと伸びをすると、体に血が巡り、気力が少し戻ってくる。

 まあいい、親が強引な独善家で腹立たしくも自分そっくりだからとて、所詮空腹には勝てない程度の悩みだ。食べて笑って眠れば、明日の朝にはきっとどうでも良くなっているだろう。

(それに、シャーレや顕微鏡やマイクロピペットの妙技でデタラメに創り出された謎の生物だったと分かるよりは、ましじゃないか)

 一時は本気でそう信じていたのだから、曲がりなりにもまともな生物だったと判明したのなら、喜んでもいいはずだ。……たぶん。

 長年密かに求めていた血の繋がりというもの、家族というもの、己のルーツというものを、やっと手に入れたというのに、この虚しさはなんだろう。期待しすぎたせいだろうか、それとも現実に自分が手に入れたのは他人のそれより惨めな代物だったのだろうか。分からない。

(あぁもう疲れた)

 考えるのはやめよう、と決めて、ため息をつきながらドアを開ける。と、目の前にケイウスが驚いた顔で立っていた。どうやら丁度、ノックしようとしたところだったらしい。

 カゼスも驚きはしたが、反応は鈍かった。あまりに激しく落ち込んだり怒ったり嘆いたりしていたもので、すっかり感情が鈍磨していたのだ。だから、ケイウスの顔に浮かんだ辛そうな表情が、自分の酷い有様を見たがゆえだと気付くのにも時間がかかった。

 ぼんやり立ち尽くしているカゼスを、ケイウスの両腕が包み込む。手を離れた杖が傾き、乾いた音を立てて倒れた。

 それでもまだカゼスはぼうっと宙を見ていたが、やがてふと、さっきよりも空腹感が現実感を伴って身に染みることに気付いた。のろのろと腕を上げ、ケイウスの背中に手を回す。肩にちょっと頭を預けると、なんだか随分楽になった気がした。温かくて頼れる肩だ。

(でも……硬いし、あんまり美味しくはなさそうだなぁ)

 何を考えているのやら、そんな言葉が思い浮かんだ。次いで自分に失笑してしまう。カゼスが笑ったことに気付き、ケイウスがそっと体を離して顔を覗き込んだ。カゼスは苦笑しながら、なんでもないと言うように首を振った。

「すみません。もう大丈夫です、ありがとう……おなかが空いたんですけど、夕食、まだありますかねぇ」

「それを言いに来たところだったんですよ」

 ケイウスはほっとしたように微笑み、倒れた杖を拾おうと屈む。赤銅色の巻き毛頭を見下ろし、カゼスは一人、笑いを噛み殺した。よもや自分が齧られかけたとは夢にも思うまい。

 ケイウスが頭を上げると、カゼスは表情をごまかすように廊下を見渡した。

「そういえば、ナーシルは?」

 連れて帰ってくれた礼をまだ言っていなかった、と思い出す。それに、食事の時間を知らせに来るのは大抵彼の方だった。

 不安げな顔になったカゼスに、ケイウスは大丈夫という笑みを見せて答えた。

「心配ありません。捕えた五人の尋問に付き合っていますよ。万が一にも、自分の仲間が関っていないか確かめたいのでしょう」

「あ、なるほど」

 エンリルからあんな話を聞かされた後で、サクスムの暴動を目の当たりにしたのだ。デニスの方でも妙な動きがあると知れたら、何もかも台無しになってしまいかねない、との恐れを抱いたのだろう。今回動いたのはレーデン出身者だけのようだが、行動はせずとも彼らに共鳴した魔術師が他にいたら、そしてそれがデニス人だったら……。

 ケイウスと連れ立って食堂へ向かいながら、カゼスはぼんやりと考えていた。

 ナーシルが自由に行動できる時間を作らなければ。自分が総督府に行っている間、ナーシルを休ませてやれば、レムノスの町で仲間と接触できるだろうか。後で相談してみよう、と記憶に刻んでおく。

 夕食はいつものように美味で、当たり障りのない話をしている内に、カゼスはようやく少し寛いできた。だがしばらく後、二人が部屋まで戻ってくると、廊下でリュンデとヴァフラムが待ち受けていた。緩んでいたカゼスの心が、またきゅっと締め付けられる。

「お疲れのご様子なのに申し訳ありません、ラウシール様」

 リュンデが頭を下げる。先に謝られてカゼスが不吉な予感に顔を歪めるだけの間もなく、ヴァフラムが言葉をつないだ。

「ですが、早急にご決断頂きたいのです。少しお時間を頂けますか」

「……セレスティンの後任のことですか。それとも、あの五人のことで何か?」

「両方に関ることです」

 こちらへ、とヴァフラムが手で促す。カゼスは素早くケイウスを一瞥した。

「ケイにも同席して貰いたいんですが」

「それは……」

 ヴァフラムが渋い顔をし、リュンデも眉をひそめる。

「レント国王の意向に配慮する、という意味ですか?」

 政治勢力とは関らない。それこそカゼス自身が定めた方針ではなかったか。

 疑問と非難の相半ばする目を向けられ、カゼスはちょっと頭を掻いた。

「別に、魔術師全員が配慮しなきゃならないわけじゃありません。実は……えぇと。前にここに来た時、私には別の連れがいたでしょう? あの二人が今、王宮の客人になっていましてね」

「――!」

 ヴァフラムとリュンデが息を呑み、さっとケイウスを睨んだ。慌ててカゼスは手振りでその敵意を否定する。

「いえ、ケイは何も悪くないんです。ただまぁ、そんなわけで、私はあまり自由がきかないんですよ。それにどっちみち私は優柔不断なので、ややこしい問題には相談相手がいて欲しいんです。ケイは王様の考えをよく理解しているし、私にとっても……友人ですから」

 ですよね? と確かめるように、カゼスは小首を傾げてケイウスを見る。ケイウスは失笑し、咳払いでごまかした。

「そう言ってもらえるとは光栄ですね。クルクス左輔、イシン右輔、ご安心下さい。レント王オルクス陛下は、長衣の者を支配下に置きたいとの考えはお持ちでありません。ただ、あなた方が中立ではなく、反王国に傾くのを危惧してらっしゃるだけです」

「そういうことでしたら」

 不承不承といった風情ながらも、二人の輔官はうなずいた。

 そのまま四人は長の部屋へ向かい、これまで歴代の長が左右の輔官と数々の相談をしてきた長机を囲むことになった。そこからは長個人の机が見えたが、新しい書簡係が運んできた書類や手紙が山積みになっている。カゼスがそれに目を留めたことに気付き、ヴァフラムも同じ光景を見やって嘆息した。

「今は私とリュンデ君とで手分けして処理に当たっておるのですが、正式の長が決まらぬことにはどうにもならない事柄も多いので……あの状態というわけです」

「まさか私にあれを片付けろとは言いませんよね?」カゼスはひきつった笑みを浮かべた。「こっちに来てまで書類仕事はしたくありませんよ」

「その心配はありませんわ」リュンデが答えた。「ただ、正式な長の署名が必要であったり、左右の輔官と長の三人分の承認が必要な件があるんです。長の名前さえ決まれば、印章を作って代わりに捺すことも出来ますし、実際それが慣例ですけれど、ともかく誰かを据えないことにはね」

「じゃあ、誰でもいいから……」

「あの椅子に座らせておけ、と? それがそうもいかんのです」

 ヴァフラムが首を振り、憂鬱げに話を続けた。

「既にご覧になった通り、長衣の者の間にラウシール様を信奉する一派が増え、不穏な動きをしております。あの五人を尋問しましたが、彼らは既に『青の信徒』などと自称しており、それぞれの求めるものに応じて小さな集団を作っていると言いました。彼ら同様、出身地でかたまっている集団が多いとか。むろん、そのすべてが反レントというのではなく、生まれ育った町に戻って何らかの活動をしようと……」

「何らかの活動、って?」カゼスが訊く。

「色々ですな。故郷が貧困に陥っているならそれを助けるとか、風紀が乱れているなら正そうとか……ラウシールの教えを広めよう、だとか」

「…………ぅぁ」

 カゼスは頭を抱えて呻いた。もう嫌だ、帰りたい。そんな様子のカゼスに、リュンデが気の毒そうに言った。

「貧困や風紀の問題に当たること自体が悪いとは言えませんけれど、その裏にあるのが履き違えた“ラウシール教”と郷土意識とでは、ちょっとねぇ。それにまだありますよ。故郷に関係なく集まった小数の集団では、何か独特な“修行”だの“秘儀”だのを行っている様子も見られたという話です」

「勘弁して下さいよ……」

「ですから、あなたに長の地位に就いて頂きたいのです。ラウシールその人に、魔術師の本来あるべき姿を示して頂けたら、彼らも勝手な憶測や夢想に基づいて迷走するのをやめるでしょう」

「そんなに上手く行くとは思えませんけど」

「でも、ほかに方法があるでしょうか? 私とヴァフラムが考えた中では、これが最善の策ですよ」

 観念なさい、とばかりにリュンデに告げられて、カゼスは机に突っ伏した。

「……ケイ、あなたの意見は?」

「気の毒ですが、私の結論も彼らと同じです。それだけ『長衣の者』内部が崩壊しかかっているのなら、強力な指導者が――象徴としてだけであっても、充分な求心力を持つ存在が必要です。それはあなたを置いてほかにないでしょう」

 慎重ながらもはっきりした答えだった。カゼスは顔を上げて恨めしげにケイウスを見ると、なげやりに言った。

「もういっそこのまま瓦解しちゃってもいいんじゃないですか? どんな組織もいつかは駄目になるものでしょう。時代に合わせて生まれ変わる、いい機会かもしれませんよ。どうせ今は魔術が使えないんだし……」

 ぶつくさ言ってから、自分で「ああでも駄目だよなぁ」と顔を覆う。

「そんなことしたら、きっとあちこちで元魔術師が不正や暴動やあれこれに関ってしまうだろうなぁ……」

 魔術は使えなくとも、精神体での作業は可能だ。今のところその技術はカゼスの故郷ほどには発展も確立もしていないようだが、いずれは可能になる。そうなった時に、規範を示し、不正や悪事を取り締まれる魔術師の組織がなくなっていたら、どうなることか。

(それに、転移施設を全部直したら、また魔術が使えるようになるんだろうし)

 ぬぉぉ、などと唸りながらカゼスはまた突っ伏す。しばらくそのままうーうー唸っていたが、ようやくカゼスは心を決めて、非常に渋々ながら顔を上げた。

「それじゃあケイ、しっかりきっちり国王陛下を説得して下さいよ。私は魔術師をまとめて王国に対抗するつもりなんかじゃない、って」

 ケイウスがうなずき、ヴァフラムとリュンデはパッと顔を輝かせる。カゼスはため息をついたものの、それ以上ごねても左右の輔官と気まずくなるだけだと割り切り、無理に苦笑を作った。

「本当に、嫌なんですけど……仕方ないですよね。まぁ、少しは良いこともあります。もう四苦八苦して髪を隠さなくてもいいし、この部屋を使っていいのなら、食事と宿の心配もしなくていいわけだし」

 イブンの援助やケイウスの親切があっても、カゼスとエイルの所持金は少しずつ減っているのだ。衣服代、店での食事代、羊皮紙や筆記具、郵便の代金、あれこれあれこれ。

 そう考えて、カゼスはふと目をしばたたき、曖昧な表情でリュンデに向かって問うた。

「あのぉ、それで、給料は貰えるんでしょうか……?」

 場の空気が白け、問われたリュンデも眼鏡の奥で目をぱちくりさせる。ややあって彼女は「あらまぁ」とつぶやき、ぷっとふきだした。ヴァフラムも珍しくにやにやした。

「ラウシール様もやはり世俗のならいからは逃れられませんな。今の一言を、怪しげな信奉者たちに聞かせてやりたいものです。ああ、もちろん、お支払いしますよ」

 カゼスはほっと胸をなでおろし、笑みを広げた。

「良かった。それなら少しはやる気が出ます」

 率直な言葉に、堪えきれずケイウスがくすくす笑い出す。

 ややあって、四人は声を立てて笑い出した。長の部屋が明るい空気に満たされるのは、実に久方ぶりのことだった。

 

 一旦そうと決まると、左右の輔官は仕事が早かった。早速と告知文書の作成にかかり、印章を手配し(なんと二日で出来るらしい)、どうしても署名の必要な書類だけを翌朝までに選り分けておくから明日はそれだけちょちょいとこなしてくれたら後は自由にどうぞ、とまで言ってくれたのだ。

「本当にそれでいいんですか?」

 思わずカゼスは念を押していた。書類仕事をしたいわけでは断じてないし、ここで紙に埋もれていたのでは本来の目的のために動けなくなってしまう。だが“ちょちょい”程度で良いと言われたら、かえって不安になるものだ。

「お暇があるのなら、就任式典で演説をお願いしたいところですけれどね」

 リュンデがもう早速書類の山に取り組みながら答えた。

「でも、少なくとも明日すぐにというわけには行きませんでしょう? あら、あらあら」

 話しながら手を動かしたせいで、ばさばさと書類が床に落ちる。カゼスは慌ててそれを拾うのを手伝った。ヴァフラムが棚の抽斗をあちこち開けながら説明する。

「告知の草稿も、朝までに作ります。我々の言いたい事はおおよそ共通かと存じますが、カゼス様にも目を通して頂いて、ひとまずはその文書で『青の信徒』とやらのややこしい動きを牽制するとしましょう」

「時間が出来たら簡略版の式典を行って、皆に姿を見せてもらいますから、予定の空きが分かったらすぐに知らせて下さいね」

 リュンデは落ちた書類を揃えて言い、立ち上がろうとして机の角に頭をぶつけた。目撃したカゼスの方が痛そうな顔をする。

「わかりました。でもその前に、エクシスさんと話が出来ますか? ちょっと確かめたいことがあるので」

「ええもちろん、長はすべての魔術師を呼び出せるんですもの。明日、この部屋に来るように伝えておきましょう」

 リュンデは何事もなかったように言い、では今日はもうお休み下さい、と笑顔で促した。カゼスはこれ以上いても手伝えることはないので、少し遠慮しながらも部屋を辞した。

 ケイウスが後ろ手に扉を閉めると、カゼスは小さな欠伸を噛み殺した。

「あーぁ……結局、こうなっちゃうんですね。王様が変な誤解をしなければいいんですけど。ケイ、一度王都に戻られますか?」

「そうですね、会って話した方が確実だと思います。あのお二方の待遇も確かめておきたいですし……とは言え、あなたと別行動というのはどうでしょうか。陛下の方は、私を人質として同行させたことなど忘れているでしょうがね」

 諦めまじりの苦笑をこぼしたケイウスに、カゼスはおやおやと同情のまなざしを向けた。むらっ気の激しいオルクスには、昔から苦労させられてきたものらしい。

「私の方は大丈夫ですよ。明日はたぶん、エクシスさんにちょっと話を聞いて、それからレムノスの総督府に行って来ます。どのみちこの二件については、あなたに同席して貰うわけにはいきませんし。あ、でも、政治絡みじゃありませんよ! 個人的な話ですからね」

 慌てて言い足したカゼスに、ケイウスは眉を上げた。なにやら言いたげなその表情に、カゼスは後ろめたくなって目をそらす。

「本当は、隠し事をするのは好きじゃないんですけど……でも、やっぱり言えない事もあって、だから、その……すみません」

 たとえケイウスの立場が王国側でなくとも、何もかもを知らせるわけにはいかない。一部を知り、協力してくれているヴァフラムやエンリルたちにさえ、全てを話せないのと同じだ。レントの未来が繁栄ではなく滅亡であることなどは、十一条を持ち出すまでもなく、良識に照らして話せない。

 うつむいたカゼスに、ケイウスは優しくささやいた。

「たとえ隠し事があっても、俺はあなたを信じています」

 カゼスがどきりとして顔を上げると、ケイウスは微笑を見せた。

「あなたは一人勝手に良かれと思い決めるのではなく、相手を理解し共感した上で、沈黙を守るでしょう。だから、信じられます」

「…………」

 カゼスの事情など知る由もないのに、ケイウスの言葉は今まさにカゼスが必要としているものだった。あなたは“親”とは違う、独善的ではない、という評価。

 何も知らない相手からもたらされた言葉だけに、それは強い説得力があった。これが事情を知っている相手なら、慰めのためだけに「似ていない」と言ったのではないかと、どうしても疑いを抱いてしまっただろう。

 カゼスは驚きと感謝とをその面に浮かべ、そのまま絶句してしまった。ケイウスは思わぬ反応にやや当惑した表情になったが、本当ですよと駄目押しするようにうなずいて見せた。

「……あ、ありがとう……ございます」

 震える声でどうにかそれだけ言い、カゼスは目を伏せて唇を引き結ぶ。

 ケイウスは手を伸ばしてカゼスの額に触れ、静かに前髪をかき上げて、そっと口付けをした。――まるで誓いの儀式のように、厳かに。


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