二章 (1) 再会
音楽が聞こえる。
カゼスは朦朧とした意識の片隅で、死んだのかな、と思った。天国では絶えず楽の音が流れ、良い香りがするものらしいし……。
ビィン、と弦が調子外れの音を鳴らしたおかげで、カゼスはようやく覚醒した。
少女の声が遠くで聞こえた。それに答える男の声。そして、再び流れだす旋律。今度はずっと巧い。
カゼスはゆっくり瞼を開き、首を動かした。
体の下には、薄く柔らかな布団が敷かれていた。隣にエイルも横たわっている。安らかな寝息を立てており、幸せな夢を見ているのか、口の端には微笑が漂っている。
カゼスはいささか羨ましい思いでそれを眺め、用心深く身を起こした。
〈リトル?〉
何はともあれ、頼りになる相棒を呼ぶ。だが、返ってきたのは、無味乾燥な機械音だけだった。どうやらカゼス同様、たった今意識を取り戻したばかりらしい。機能が復旧するまで、少しかかりそうだ。
周囲を見ると、裕福な家の一室のようだった。風通しが良く、空気はさらりと乾いている。壁の一方は庭に向かって完全に開けており、眩しい陽射しと、ヤシに類する植物が見えた。外は暑そうだ。
(デニス……にしては、ちょっと違うような感じだけど)
カゼスはゆっくり立ち上がり、音の聞こえてくる方へ歩きだした。途中で気付き、翻訳呪文を唱える。
(あれ?)
奇妙な違和感をおぼえ、カゼスは眉を寄せた。力場の感触が違う。翻訳呪文はほとんど力場に左右されないとは言え、全く無関係ではない。
(何か……何だろう、硬い……ような?)
はて、と首を傾げたものの、今この場でそれ以上調べてみる気になれず、カゼスはのろのろと足を動かした。
やや哀調を帯びた旋律は、隣室から聞こえてくる。開け放たれたままの扉の陰から、カゼスはそっと中を覗き込んだ。
親子か、師弟だろうか。クッションの上に胡座をかいた男が、五弦の楽器を膝に載せ、淀みなく奏でている。その前に置かれた小さな譜面台の横に、十一、二歳ぐらいの少女が座り、真剣な目で、楽譜と男の指とを交互に見つめていた。
と、気配を察したのか、少女がふと振り返った。瑠璃色の目が驚きに丸くなり、口元に手を当てて小さく息を飲む。男も手を止め、顔を上げた。
「―――!」
相手を一目見た瞬間、カゼスは危うく叫びそうになり、慌てて声を飲み込んだ。彼のそんな反応には頓着せず、男はにこりと笑みを浮かべる。柔らかだが、お定まりの社交辞令に似た、仮面のような笑みだ。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
問いかけた声には親しみがこもっていたが、同時に奇妙な他人行儀さがあった。カゼスはどう答えたら良いのか分からず、まごついてしまう。
「あ、ええと、その、まあ、何とか」
わけのわからぬことを口走ったカゼスに、少女が不審げな目を向けた。その少女の頭に手を置き、男は優しく言った。
「ソラヤー、母さんに飲み物を用意するよう言って来なさい。それから、しばらく一人で練習しておいで」
楽器を渡され、ソラヤーは不満げな顔をしたものの、「はい」とこっくりうなずいて走り去る。男の台詞から察するに、親子なのだろう。
少女の姿が廊下を曲がって消えると、男はカゼスを促し、エイルが寝ている元の部屋に連れ戻した。
庭に面した通廊のそばに、低いテーブルとクッションや座椅子が置かれている。彼はその近くまで進んだが、座りはせず、立ち止まってカゼスに向き直った。振り向いた顔からは、表情が消えている。
真正面から見据えられ、カゼスはぎくりと身を固くした。
男の目は、見覚えのある夏空色だった。右頬にはほとんど分からないぐらいに薄く、白い傷痕が走っている。額は色鮮やかな模様織りの布で隠されているが、多分、その下には……火傷の痕が、あるはず。
カゼスが緊張し、男の反応を待っていると、不意に彼はくしゃりと相好を崩した。そして、乱暴なほど強くカゼスを抱きしめた。
「まさか、また会うとはなぁ」
笑いながらそう言った声は、かすれていた。カゼスはほっと安堵し、相手の背に腕を回して抱擁を返す。
「久しぶりですね、クシュナウーズ殿」
「今はイブンだ」
腕を緩め、かつてデニス帝国海軍元帥だった男は、懐かしそうにカゼスをしげしげと眺める。彼はもう一度、確かめるようにカゼスを抱きしめてから、ようやく手を離した。
「まあ、座れよ」
すすめられるまま、カゼスは適当なクッションに胡座をかいた。それを確かめてから、イブンも向かいに腰を下ろす。その挙措の静かさと上品さに驚かされ、カゼスは目をぱちくりさせた。
「あれから、どのぐらい経ってるんですか? あなたも随分、印象が変わりましたね」
「そうだな……エンリル帝がいた頃から五百年ほどか。それだけあれば、人も変わるさ。俺自身、叙事詩に謳われる内容が実際に経験したことだなんて、もう信じられんよ。こうして、青い髪の魔術師を目の前にしていてさえ、な」
穏やかな口調で言い、イブンは苦笑を浮かべた。カゼスのよく知っている、あの皮肉っぽい笑みではない。
「今、来たところか?」
「ええ。来たと言うか、呼ばれたと言うか落ちたと言うか」
苦笑まじりにそう答えたカゼスに、イブンはふと、警戒のまなざしを向けた。
「確かに、ラウシール様の出番がありそうなご時世ではあるが……連れがいるのは初めてだな。あいつは何だ? おまえと同じ、ってわけでもなさそうだが」
「ああ、えーと」
カゼスは言い淀み、頭を掻いた。どう説明する? 保護者――と言うにしては、この世界でエイルを当てには出来ない。監督、監視者。それじゃまるで自分が囚人みたいだ。旅の道連れ、見学者、お客様……
さんざん悩んだ挙句、彼は結局、無難な返事をした。
「まぁ、友達……のようなものですね。魔術師ではないんですが、元の世界の学者で、レントに興味があるそうで。本当は一人で来たかったんですけど、その……よくある、しがらみってやつですよ」
彼は咳払いしてごまかし、まだ胡散臭そうな顔をしているイブンに問うた。
「それより、ラウシール様の出番がありそうなご時世、ってどういうことです?」
丁度その時、復帰を果たしたリトルがふわりと飛んで来た。ありがたい、これで暗記しようと必死にならなくても済む。カゼスは無意識にリトルを手に持ち、イブンの目をじっと見つめた。
カゼスのまなざしに、イブンは束の間、過去を見るような表情をした。変わらないな、と言いたかったのかもしれない。だが彼はそれを口には出さず、おどけて肩を竦めた。
「停滞しているように見えても、常に時代は動いている。その点で言うなら、いつだって救世主や偉大な首長の出現は民衆の望みなんだろうな。そう身構えるなよ、今があの分裂時代のような乱世だって言うわけじゃない」
「それを聞いて安心しました」
カゼスは照れ隠しに苦笑し、無意識に入っていた肩の力を抜いた。だが、安心した、と言ったのは嘘だ。今この場所ではそうだとしても、それはカゼスが本来落とされるはずだった時・場所から逃れたためなのかも知れず、だとすれば、滞在中に状況が急変してもおかしくはないのだ。
「ただ、な」イブンは続けた。「魔術がうまく働かないらしい。長衣の者は今や世界中に散らばっているが、ここ数年、誰もが開店休業中だ。国の転移装置は稼働してるが、使用料が馬鹿高いもんで、流通が滞りがちになっている。まぁ、そのおかげで俺のような昔ながらの船持ちは潤ってるんだがね」
「国? どこの国ですか」
カゼスが問うと同時に、イブンが視線を上げてうなずいた。慌ててカゼスが振り返ると、ごく静かに一人の女が入って来たところだった。ベールで顔を隠しているが、年は恐らく四十歳前後だろう。黒髪と浅黒い肌は、『海の民』の特徴だ。大きな目が愛想良く細められ、どうぞ、と柔らかな声と共に小さな紅茶碗が差し出された。
あ、どうも、などとカゼスは曖昧に言い、てのひらに隠れるほどの小さな茶碗を受け取る。熱い。受け皿には角砂糖が載っていた。
イブンにも茶を渡すと、女は黙って頭を下げ、まるで影のように静かに部屋を辞した。女が客人をもてなす習慣はないのだろう。カゼスはその姿を見送ってから、おずおずと眼前の男に目を戻した。
「奥さん……ですか?」
「ああ。意外か?」
にやりとしたイブンは、一瞬だけ、昔のクシュナウーズに見えた。カゼスは正直にうなずき、遠慮がちに言う。
「結婚してひとつ所に根を下ろすのは、その……無理なんじゃないかと思ったので」
「実は、所帯を持ったことなら、今までにも何回かあるんだ。誰にも言うなよ。ただ、子供まで出来ちまったのは今回が初めてだがね。しかも三つ子ときたもんだ」
「三つ子!? それはまた」
カゼスが唖然としていると、イブンは勝手にぺらぺら喋りだした。
「娘ばっかり三人だ。一人はさっき見ただろう。ソラヤーだ。あとはルーリーとラァルって名前でな、揃って美人だぞ。ソラヤーは楽器の方はそこそこだが、詩心があってな。ルーリーが歌と楽器にかけちゃ一番だ。ラァルはどっちも駄目だが、踊りがうまい。後で見せてやるよ。三人とも楽団に入るつもりらしいが、将来嫁がせることを考えると、半端な財産じゃもたないからな。今までは年をごまかせなくなる前に姿を消してたんだが、そうもいかなくなっちまった」
すっかり相好を崩している。カゼスは初めこそぽかんとしていたものの、じきにそんな彼の姿に笑いを堪え切れなくなってしまった。
「すっかり親馬鹿ですね」
悪気のないからかいに、イブンは言い返さなかった。ああ、とうなずいた表情は、いかにも幸福そうだ。カゼスはふと、アテュスが僻むんじゃないかな、などと思ったが、口に出すのは控えた。もし、あれほど溌剌としていたアテュスのことが、イブンの記憶から既に消えていたら。あるいは、ほとんどおぼろな影としてしか、残っていなかったら……?
互いが経た時間の大きな隔たりを、時代と共に多くが忘れ去られた事実を、突き付けられたくはなかった。だからカゼスは、しばしの間を置いてから、さりげない態度で話題を戻した。
「さっきの話ですけど……国、っておっしゃいましたよね」
「ああ」イブンも表情を改めた。「レント王国だ。ずっと北方に都があるんだがな、数十年ほど続けて野心家の王が戴冠したもんで、こことレントの間にあった三つばかりの王国と小さな都市連合が、続けて丸呑みにされちまった。今じゃ世界屈指の強国で、ここもデニスもその一地方になってるよ。そうそう、ここは香料半島だ。デニスのずっと南、『海の民』の故郷だ」
カゼスが困り顔をしているので、イブンは「ちょっと待ってな」と言い置いて、隣室へ姿を消した。戻ってきた時、彼の手には一枚の地図があった。
筒状に丸められた羊皮紙をくるくると広げ、四隅に重しを置く。
「現在地のキホールはこの辺りだ。デニスはここ」
分裂時代に目にしたものと違い、方位や縮尺が記されていて正確な印象を与える地図だった。だがもちろん、本当に正確なのは一部分だけだろう。よく知られている地域、つまり一番広く描かれている中央部分だ。地図の端に行くほど国々は小さくなっており、デニスの扱いも実にお粗末。とは言え、およその位置関係を把握するには充分だった。
「へえ、なかなか面白いですね」
地図には山や川のしるしだけでなく、怪物の絵などもあちこちに描かれていた。大海の中、山脈の奥など、まだ秘境とされる地域だ。熱心に地図に見入っていると、後ろでごそりと音がした。振り返ると、寝ぼけ顔のままエイルが頼りなげな風情でこちらへやってくる所だった。
「ああ、目が覚めましたか。気分は?」
カゼスが問うと、エイルは目をこすってから曖昧な口調で答えた。
「二日酔いになったみたいだね。いやはや、魔術師の道を選ばなくて良かったよ。君の方は首尾良く行ったのかな」
言いながら、イブンに向かってぺこりと会釈する。カゼスはどう紹介したものか迷ったものの、隠し通せるとは思えず、正直に告げることにした。
「エイルさん、彼は……今はイブンという名前ですが、かつてクシュナウーズと呼ばれていた人です。私の友人です」
言葉尻で、カゼスはちらとおどけた視線を送る。イブンは苦笑し、ぽかんとしているエイルに手を差し出した。
「よろしく。おいカゼス、このエイルさんとやらは、俺の秘密を喋ってもいい相手だと思って構わないんだな?」
「ええ。いまさらあなたと私が初対面だってふりも出来ないでしょう? 私の演技が下手だってことは、あなたもよく知っていると思いますけどね」
言ってから、カゼスは不意にぎくりとした。イブンにとっては、カゼスの演技下手など大昔の話だ。言うんじゃなかった、と後悔したが、幸か不幸か彼はその事を覚えていた。
「ああ、そうだったな」つぶやいてから、ぷっとふき出す。「すっかり忘れてたってのに、こうして話してると、どんどん思い出すもんだな。不思議なもんだ」
「ええっと、失礼、つまりその……?」エイルは混乱気味だ。「もしかして、帝国時代に落ちたのかい?」
「いいえ。彼はちょっと特殊な人なんです。どうしてそうなったのか、誰にも本当のところは分からないみたいですけどね。帝国時代からおよそ五百年後だそうですよ」
「ごひゃく……」
エイルはぽかんと口を開け、まじまじとイブンを見つめた。相手の長寿に驚いているのかと思いきや、エイルはそのままのろのろと周囲を見回し、天井を見上げ、床に目を落とし……最後にゆっくり、悲哀たっぷりに深い吐息をついた。
「そうかぁ……五百年も離れてしまったのかい。ああ、君のせいじゃないのは分かってるよ、私の読みが甘かっただけだから」
ぶつぶつと独り言のようにつぶやく。カゼスは目をぱちくりさせ、イブンと顔を見合わせて首を傾げた。
「もしかして、エイルさんは帝国時代の研究が専門なんですか? それであんなに嬉しそうに?」
思わずカゼスは皮肉と非難のまじった問いを、無遠慮にぶつけていた。が、エイルは落胆のあまり、質問の棘にはまるで気付いた様子もなく、虚ろな顔で答えた。
「あわよくば皇帝陛下に拝謁賜れるかと夢想したんだがね。そうだよなぁ、そう上手くはいかないよなぁ。ああ……」
ため息と一緒にへなへなとくずおれ、両手を床につく。カゼスは何やら気の毒になり、イブンを振り返った。
「でも、伝承とか記録とか遺物とかなら、今でも何かありますよね?」
「あ? ああ、そりゃまあ、ラウシールの伝説は有名だからな。図書館に行けば代表的な叙事詩とか研究書があるだろう。王国も征服地の文化遺産は一応、保護してきたようだしな。向こうに行けば色々遺物もあると思うが……つまり何か、そいつは観光客か?」
イブンの口調が胡散臭げなものになる。商人として暮らす内にそつのない上品さを身につけたとは言え、やはり根底にあるものは変わらないらしい。昔を思い出させる口調に、カゼスはつい失笑した。
そいつ呼ばわりされたエイルは、丸眼鏡の奥の目をしばたたかせ、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そう言われても仕方がありませんね。一応学者なんですが、好奇心という点では、宝探しをする子供と大差ありませんし。ああでも、あなたがあのクシュナウーズ殿なんでしたら、ぜひ色々とお話を聞かせて頂きたいのですが」
「勘弁してくれ」
イブンが呻き、カゼスが苦笑した。
「エイルさん、他の人には、そのことは内緒ですから。くれぐれも気をつけて下さいね。それに……五百年前のことですし、いくら本人でも記憶が怪しいですよ。それぐらいなら私の方がよく覚えてます」
「認めたかないが、そうだろうな」
イブンは憮然として肯定し、それからふと「そう言えば」と眉を寄せた。
「息子の友達で、デニスの帝国時代について勉強している奴がいたな。あっちに調査に行くとかいう話を聞いたが、もう戻っているかも知れん。帝国時代のことを知りたいのなら、あいつから話を聞くのが手っ取り早いだろう。居所を確かめられるまで、うちに滞在するといい。客が来るのはしょっちゅうだから、誰も不審に思わんしな」
てきぱきと話を進め、そこで彼はふと、奇妙な苦笑を見せた。
「もっとも、その青い髪はもちろん、古臭い服をなんとかしなきゃならんがね」
時間軸で言えば、イブンよりずっと未来の人間の筈である二人は、お互い何とも言えない風情で顔を見合わせたのだった。