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十九章 (1) 説得か鎮圧か


 魔術師達は動揺していた。五人がかりで作り上げた鉄壁の封鎖を、何者かがいともたやすく跳び越えてしまったのが感じられたのだ。兵営のすぐ近くにある一軒の家で、彼らは窓も扉も締め切って、息を潜めていた。

「学府から誰かが来たんだと思うか?」

 まだ顔ににきびのある青年がひそひそとささやく。その父親ほどの歳に見える男が顔をしかめた。

「やっぱりあいつが知らせたんだろう。怖気づきやがって情けない」

「でもさ、もしラウシール様が助けに来てくれなかったら……」

「来るわよ」苛立った口調で若い女が遮る。「レントの支配を終わらせて下さるに決まってるじゃない。そして私たちを自由にして下さるのよ。そのためにラウシール様が現れたんだから」

「我々が率先して行動を起こしたと知れば、きっと奇蹟を起こして下さる」

 熱っぽく、もう一人の痩せた男がささやいた。にきび面の青年は不安げに「でも、もし」としつこく言いかける。事を起こしておいて、後でどうしようと言っても遅いのだというのに、それが分かっていないらしい。いまさら不安にかられてびくついている。

「外が騒がしいね」

 嗄れた女の声がした。部屋の隅にいた老女を、皆が振り返る。

「ああ……我々のほかにも、レントの支配に対して立ち上がった市民がいるようだ」

 男が曖昧な口調で言った。老女は鼻をならし、小さく首を振る。

「何言ってるんだい。あいつらは何も分かっちゃいないよ」

「かもしれんが」痩せた男が応じる。「レントに不満があるのは我らと同じだ。彼ら自身、不満の正体を自覚していないだけだろう」

「どうだかね」

 馬鹿にしたような老女の口調に、若い女が「ちょっと」と剣呑な声を出す。

「いまさら文句言うぐらいなら、はじめから関らなきゃ良かったんじゃないの。隅っこでぶつぶつ愚痴って、なにさみっともない」

 と、そこに新たな人物の深いため息が加わった。

「まったく、みっともないな。誓約を破った上にもう仲間割れとは、長衣の者たる誇りも地に落ちたものだ」

 ぎょっ、と五人全員が腰を浮かせて振り向いた。老女の居場所と反対側の隅に凝る暗がりが、じわりと揺らいでほどける。その中から、四つの人影が姿を現した。

「――っ! ど、どうやってここに」

 女が後ずさり、戸口にさっと目をやる。だが、そこには素早く若い男――ナーシルが駆けつけ、立ち塞がった。

「自分たちが何をしたか、分かっているんだろうな」

 重々しく言葉を続けたのは、ヴァフラムだった。その横に並んだリュンデを見て、にきび面の若者があっと声を上げる。

「クルクス左輔!」

「あらまぁ、私を見知っているということは学府でお会いしたことがあったかしら? おかしいわね、学府には中立を保つ魔術師しかいない筈だけれど」

 口調だけはやんわりと、しかし言葉は容赦なくリュンデが答える。女が眉を吊り上げた。

「そうよ、あたしたちは誰にも支配されない! 王国の支配はあたしたちの伝統と生活をめちゃくちゃにしたのよ、その悪を倒して何が悪いの! ラウシール様だって、人には自分で自分のことを決める意志と自由があるとおっしゃってるわ、そうよ、あんたたちこそ紛い物の魔術師よ!」

「……なんでそうなりますかね」

 ぼそりとぼやいたのは、もちろん当のカゼスである。まだ髪は隠しているが、早くもうんざりして、被り物を取ってしまいたくなっていた。

「あなた方のした事がどんな結果を招いているか、分かってますか?」

 カゼスは閉ざされた窓や扉を指し示した。

「外の声が聞こえませんか。軍団兵を孤立させておいてあなた方がどうするつもりだったのか、知りたくもありませんけど、街の人たちは勝手に大騒ぎしてますよ。レント人や、レント人らしい人を、片っ端から引きずり出して大河に追い落として、その人たちの店や家を荒らしまわってます。ひょっとしたらもう死人が出ているかもしれない。そんな事があなた方の望みですか」

「うるせえッ!」男が吠えた。「レント人なんか全員大河で溺れ死ねばいいんだ、奴らのせいでレーデンはめちゃくちゃにされた。俺の親類縁者も酷い目に遭った、奴らのせいで暮らしが立ち行かなくなって爺さんが首を吊った! それなのに、国も民族も関係ありません、なんぞと澄ましてられるか!? そう出来るんなら、そいつはどっかおかしいんだ!」

「……王国に復讐したいのなら、魔術師をやめてからにすべきでしたね」

 カゼスは沈痛な声をもらした。個人の悲劇は痛ましいものだが、その恨みを無差別に広げ、あまつさえ復讐の手段に魔術を選ぶなど、してはならないことだ。

「この土地で魔術が使えるのなら、あなた方を止めに来た学府の魔術師だって、同じように魔術を使えるんですよ。どういう事が起きるか、予測できたでしょうに」

「お黙り、王国の犬が!」

 若い女が金切り声を上げた。カゼスはため息をつき、よくもこんな連中が魔術師になれたものだと呆れた。それとも、入門の誓約を立てた後で何かが変わってしまったのだろうか。

「違いますよ。私たちは中立の立場にいるだけです。敵も味方もない、ただ魔術をこんな風に使うことは、してはならない。もしあなた方を捕えに来たのが普通の魔術師ばかりなら、きっとまだ対岸にいて、あなた方の壁をどうやって崩すか相談していたでしょうね。そして多分、無理やり別の力をぶつけて壊そうとしたでしょう。サクスムが街ごと吹っ飛ぶかもしれなくても」

 淡々とカゼスは話し続ける。その内に、五人の魔術師はいつの間にか陥った圧倒的不利を察して、気圧されたように後ずさり始めた。この正体不明の誰かは、五人を説得しているつもりなのだろうが、まったく必死さも切実さも感じられないのだ。それは、いつでも力ずくで叩き伏せられる確信があってこその態度だと、いかな彼らでも気付いた。

 カゼスは五人の変化を感じ取ると、ゆっくり一人一人の顔を見回した。

「私はあの壁を消してしまうことが出来ます。なんなら今すぐにでもね。そうしたら中から軍団兵が出てきて、暴動を鎮圧するでしょう。あなた方も捕えられます。怪我人が大勢出るでしょう。だからそうなる前に、こんな騒ぎはやめるように外の人たちを収めてくれませんか」

「はったりだ……」痩せた男が声を震わせる。

「そ、それに第一」若者がごくりと喉を鳴らして言った。「外の連中は僕らのせいじゃない、あいつらが勝手に暴れてるんだ! 僕らはただ、王国兵を立ち退かせたかった、兵糧攻めにして弱ったところで北岸に送りつけてやりたかっただけだ!」

 さすがにこれにはカゼスもヴァフラムも呆れ、ナーシルまでが天を仰いだ。

「阿呆かあんたら、そんなこと出来ると本気で信じてるのか?」

「出来るさ! ラ……ラウシール様が、助けて下さるんだ。レントの圧政から僕らを自由にして下さるんだ! あの方は民衆の味方なんだから!」

「…………」

 頭が痛い。カゼスは眉間を押さえ、歯を食いしばってなんとか悪態を堪えた。

「そのラウシールが、入門の誓約で中立を課したんだってことは、すっかり忘れられているんですかね? ああ、まったく嫌になる……」

 埒が明かない。カゼスは盛大なため息をつくと、被り物をむしるようにして取った。

「よく御覧なさい。私が、あなた方が勝手にあてにしている当人ですよ」

 心得たもので、リトルが光を放って青い髪を照らし出す。魔術師たちは息を飲み、凍りつき、次いで「そんな」だの「馬鹿な」だのとつぶやいて、てんでにくずおれた。ただ一人老女だけは、動じることなくカゼスを見つめ、小さく吐息を漏らしただけだった。

「さあ、分かったら、外の騒ぎを収めるのを手伝って下さい。あなた方がここの生まれ育ちなんだったら、あるいは事を起こす前にこの街をよく調べたのなら、騒ぎを煽動しているのが誰か、心当たりぐらいあるでしょう!」

 だが、返事はなかった。女と若者は泣き出し、ひどい、裏切られた、などと八つ当たりを始めるし、男は呆然と壁際に座り込んで宙を見ている。痩せた男は何を考えているのか、うずくまって小刻みに震えながらぶつぶつ独り言を言い出した。

 カゼスがげんなりとため息をついた直後、痩せた男が不意にがばっと身を起こし、

「嘘だあぁ!!」

 絶叫と共にカゼスに突っ込んできた。驚きに立ち尽くすカゼスにぶつかる寸前、男はナーシルに腕を取られ、ぐるんと一回転して床に背を叩きつけられた。

「魔術師が物騒なもの持ってるなぁ」

 ナーシルが呆れつつ締め上げた男の手には、小刀が光っている。慌ててヴァフラムが駆け寄り、それを奪い取った。

「嘘だ、嘘だッッ! ラウシール様が我々を裏切るはずがないんだ、見捨てるはずがないんだ! 嘘だぁ!!」

「やかましい」

 ナーシルが男の腕を捻ってうつぶせにし、背中を踏みつける。痛みに男は悲鳴を上げ、それでもまだ、嘘だ、ありえない、とひいひい叫び続ける。その様子はどう見ても異常だ。

 カゼスは男の傍らに膝をつくと、ナーシルに目配せし、痩せた男が顔を上げられるようにしてもらった。そうして、両手を男の顎にそっとあてがい、目を覗き込む。

(暗示の痕は……ないけど、何か妙な……もしかして自己暗示か?)

 意思の流れを妨げる明確な障害物はない。だが、所々で奇妙な歪みが作られている。精神の手でそっと触れると、薄い雲母の層が数千も数万も積み重なって出来たかのような感触があった。幼い頃から何度も何度も、無意識に自己暗示をかけ続けてきたのだろう。救い主、ラウシール。その幻影を。不幸にして彼には魔術の才能があったがために、それは単なる思い込みに留まらず、ここまで彼の言動を歪ませてしまったのだ。

 カゼスは少しずつ暗示の重なりをずらし、そっと意思の流れに溶け込ませてゆく。

 やがて作業が終わってカゼスが手を離すと、男は頬に涙の痕をつけたまま、ぽかんとなって瞬きした。

「……私は、今、何を……」

「落ち着いてものを考えられるようになったら、もう一度入門の誓約を思い出してみるんですね」

 カゼスはそれだけ言うと、やれやれと立ち上がる。

「ナーシル、この人はもう大丈夫です。囚われから解放されました。……しかし困りましたね、この人たちが本当に外の騒ぎにはまったく関与してないとなったら、鎮めるのは無理ですよ。結局、軍団兵の皆さんにお任せするしかないのかなぁ」

「わしが言ってみましょう」

 唐突にそう申し出たのは、老女だった。よっこらしょ、と立ち上がり、トントンと腰を叩いて背を伸ばす。カゼスは老女の顔を見やり、悟った。

「あなたは分かっていたんですね。最初から、こんなことをしても無駄だと」

「……少し、夢を見たかったんですじゃよ。この者らの熱意にほだされ、いつしかわしもその中に巻き込まれておりました。さて……外の者らは今まさに熱狂のさなかにあるようじゃが、言うだけ言うてみましょう。やはりわしらの力では壁は保てなんだ、じきに崩れるから軍団兵が出てくるぞ、と」

 悟った風に言いながら、老女は扉に向かう。ナーシルが慌ててそれを阻んだ。

「ちょっと待った、婆さん。俺も行くよ。あんた一人じゃ、聞く耳持たない連中に何をされるか知れたもんじゃない。ああくそ、本当に鍋の蓋でもいいから持って来りゃ良かったな」

 直に向かってくる者を倒すことは出来ても、石を投げられたら素手では防げない。ナーシルは舌打ちして室内を見回したが、盾に出来そうなものは何もなかった。どうやら居酒屋のようだが、店じまいして長いのか、盆だの皿だのといった小物は置かれていないのだ。

 カゼスも困って束の間考え込み、結局、外した布をまた頭に載せた。その上で、まやかしをかけて髪を黒くする。つくづく魔術が使えるというのは便利なものだ。

「仕方ないですね。私が後ろから壁を作ります。あんまりよそ者が大勢くっついてると、この人の言う事に信憑性がなくなりそうで怖いんですけど……まぁ、私だったら脅威に取られることはないから大丈夫でしょう」

 潜入した軍団兵あるいは学府の者に脅されて、やむなく兵営の封鎖を解こうとしているのではないか、とか、何かしらそうした誤解を受ける可能性を考慮したのだ。しかし背に腹は代えられない。

「ヴァフラムさんとリュンデさんは、ここで残りの人達を保護して下さい。あとで相応の罰を受けることになるでしょうけど……でも、ともかく、どさくさ紛れに誰かに傷付けられたりすることのないように」

 指示を受けてヴァフラムが「分かりました」とうなずき、リュンデは「お気をつけて」と応じる。彼らが残り四人に緩く捕縛術をかけるのを確かめてから、カゼスは老女とナーシルを促して扉を開けた。

 途端に、騒乱がまともに目と耳へ飛び込んできた。

「こりゃ酷いな」

 ナーシルが唸る。往来は石畳が見えないほどになっていた。叩き割られた皿や壺など陶器の残骸、家から放り出された椅子、ぶちまけられた商品棚の中身。そして、辻には見事な彫像の首が転がっていた。国王か総督か、レントの要人を刻んだものだろう。

 そこかしこで十数人程度の群れが騒いでいた。破壊は大半終わったのか、歌ったり呑んだり、店の壁に放尿したりと、ただの乱痴気騒ぎになりつつある。

 ここで何か叫んだところで果たして彼らの耳に届くだろうか、とカゼスが不安になった時、老女がすっと両腕を広げ、呪文を唱え始めた。カゼスには馴染みのないものだったが、どうやら拡声の効果があるようだ。音声ではなく、大勢の意識に直接語りかける術。やがて呪文が終わると、カゼスは“声”を伝える糸が街に張り巡らされたのを感じた。老女が口を開き、糸が震える。

 ――軍団兵が来る。

 “声”が静かな一撃をもたらした。騒いでいた人々が驚きに打たれ、あるいはきょろきょろし、あるいは不安げなまなざしを交わす。

 ――軍団兵が来る。

 老女は繰り返した。

 ――これ以上、光の壁を維持することは出来ない。壁が消え、軍団兵が来る。

 しん、と街が静まり返る。ついでざわめきが漣のように広がり、先刻までとは別種の騒乱が生じた。

 ――帰れ。目を覚まし、拳を下ろして、家に帰れ。今の内に。

 “声”に促されて、目が覚めたように動き始める姿がちらほらと見えた。カゼスは警戒しながら通りを見渡す。言われた通り引き揚げる者は、確かにいた。だが多くはない。“声”はただ伝達するだけで、強制力はないのだ。

 数人の男女が老女の姿を認め、指差した。ナーシルが身構え、カゼスも緊張しながら小さな『力』の壁を作った。

 ざわめき、怒声が飛び交い、やがて辺りにいた人が集まる。口々に何か喚きながら、老女とその両脇にいる二人を指差して。

「こりゃあ……来るね」

 ナーシルが唸り、カゼスも小さくうなずいた。怒りに顔を赤く染めた人々の一団が、こちらへ向かって動き出した。

「あいつらは裏切り者だ!」

「てめえらだけ逃げるつもりかよ! 卑怯者!」

 わあわあと口々に罵声が飛んでくる。やがて誰かが拳を突き上げて叫んだ。

「俺たちは逃げないぞ! 軍団兵が何だ!」

「帰るのはレント人の方だ!」

 そうだそうだ、帰れ、出て行け、と次第に声がひとつにまとまっていく。カゼスたちのまわりに、ぎっしりと人垣が出来ていた。遅れて後方に加わった者は、何が何やら分からないがともかく一緒に騒いでいる風情だ。時々首を伸ばして、前で何が行われているのか確かめようとしている。そんな所にいて何が分かるというものでもなかろうに。

 やがて、誰かが何かゴミ屑を投げた。

 『壁』に弾かれたゴミが路面に落ちるよりも早く、次々と物が飛んできた。小石、陶器の破片や木切れ、食べ物の残りかす。

 身に当たる事はないものの、カゼスはその不快さに顔をしかめた。追い詰められる、という恐怖感がじわじわと喉元まで上がってくる。

「やめなさい!」

 とうとうカゼスは怒鳴った。だが、それも興奮した群衆の声にかき消されてしまう。

「本気でレント人を追い出せると思ってるんですか、ついさっきまで一緒に暮らしていた人たちなのに!」

「うるせえぞ、黙らせろ!」

 最前列にいた男が喚き、ひときわ大きな石を投げつける。『壁』が騒音を立て、ビリッと震えた。

〈雷のひとつでも落としてやった方が良さそうですね、カゼス〉

 リトルがすっと浮き上がる。結局何らかの暴力に訴えなければならないのか、とカゼスはため息をついた。仕方ない、と嫌々ながら顔を上げたその目が、ぎょっと見開かれる。群衆の頭越しに、黒煙が上がったのだ。

「……っ、火事!?」

 カゼスの叫びに、数人がつられて振り返る。彼らが静かになったかと思うと、今度は火元の方から狂乱した声が上がった。カゼスは愕然となり、ナーシルと目を合わせる。

 火事ではない、放火だ。そして暴徒はそれを楽しんでいる。

「ああもう……っ!」

 カゼスはぎりっと唇を噛むと、一瞬で精神を統一し、たゆたう力の流れを自らに引き込んだ。素早く、しかし余計なものを巻き込まぬよう細心の注意を払って、力の流れる道筋を描いてゆく。ゆっくり一呼吸する間にその作業を終えると、カゼスはナーシルに鋭く命じた。

「ナーシル、この人を連れて家の中に入って下さい。早く!」

 カゼス一人を置き去りにしろと言われ、ナーシルは目を剥いた。咄嗟に開いた口からは、しかし、抗議は出てこなかった。カゼスのまなざしがそれを許さなかったのだ。ナーシルは黙ってうなずき、老女を促して素早く屋内に逃げ込む。

 カゼスはくるりと群衆に向き直ると、すっと手を上げた。いきなりこれまでとは違う気迫を帯びた彼の姿に、人々がたじろぐ。否、気迫だけではない。実際にカゼスの背後から、暗がりが迫っていた。数人が空を見上げて目と口をぽかりと開き、腑抜けたように立ち尽くす。そして、

「な……なんだ、あれ」

「そんな馬鹿な」

 たじろぎ、後ずさりながら、恐怖にうわずった声を漏らした。彼らの目の前で、大河から幾筋もの細い竜巻が生じていた。吸い上げられた水が暗く重い雲となって、南岸の街を瞬く間に覆ってゆく。

「頭を冷やしなさい」

 苦々しくカゼスが言うと同時に、一気にそれが降り注いだ。滝のような雨にいきなり降られて、あちこちで悲鳴が上がる。比喩でなく、まさに叩きつける雨だった。火は一瞬で消し止められ、通りは激流の川となって人の足をすくった。

 誰もが屋内に避難しようと走り出す。滑って転ぶ者、前が見えずによろめきぶつかり、四つん這いになって進む者。熱狂は、生じた時と同様、瞬く間にしぼみ、潰えた。

 豪雨は数分しかもたなかったが、それでも効果は充分だった。

 カゼスは通りから人影がなくなったのを確かめてから、今度は兵営に向き直った。軽く目を閉じ、壁を成している力と呪文に触れる。結合をほどくのは簡単だった。そもそもこんな状態を維持するのは無理があるのだ。自然に戻ろうとする力の動きを利用すれば、ほんの少し呪文の拘束力を緩めるだけで、どんどんほどけていく。

 カゼスが作業を始めると、誰かがそれを手伝うのが感じられた。恐らくあの老女だろう。作り手自らが解体に手を貸した上に、他の四人はすっかり抵抗の意思もなくなっているため、作業はすぐに終わった。

 輝く光の壁は徐々に薄くなり、あれよという間に消えてしまった。代わって太陽の光が雨上がりの街に降り注ぎ、傷めつけられた建物や通りをきらめきで飾った。

 軍団兵が兵営から出てくる物音が、カゼスの耳にも届く。庇から落ちる雫が光を反射して、カゼスは眩しそうに目を細めた。


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