十八章 (3) サクスムの暴動
転移装置を使ってサクスムに着くと、カゼスはすぐに力の動きを肌に感じた。
力がたゆたっている。完全に正常にではないが、硬くこわばった世界の中でここだけ紐が解けたように緩んでいるのが分かる。
カゼスは息をつき、自分が直した転移陣を苦い思いで一瞥してから外に出た。
ケイウスは最寄の兵営に向かうと言って、転移施設で馬を借りて飛び乗った。
「既に歩兵の小隊が斥候を兼ねて派遣されているでしょう。すぐに街道で行き会うはずです」
きびきびとケイウスは言い馬首を北へ向ける。どうやら片足が不自由でも乗りこなせるように、かなり練習したらしい。何ら支障もなく、彼はすぐ戻ると言い残して走り去った。
カゼスたちが向かうのは逆方向、大河の南岸だ。橋はないので船を使うしかないが、渡し場まで来てすぐに、それは無理だと悟った。
「また無茶苦茶なことを」
カゼスは唸り、対岸に輝く光の壁を睨んだ。どうやら魔術師の決起に便乗した市民も少なくないらしい。対岸の船着場には一艘の船もなく、此岸にはみすぼらしくなった船がひしめいている。黒く煤けていたり、石が転がっていたり――恐らく、南岸から逃れてきたものだろう。
〈リトル、偵察してきてくれるかい〉
〈ここからでもおおよそは分かりますよ。対岸には軍団の兵営がありますが、そこがぐるりと魔術の壁で封鎖されているようですね。その周りに人垣が出来ています。集まって、騒いで……市街地で破壊活動も行われているようです。もっと詳しく調べてきますか?〉
光学迷彩で姿を消したまま、リトルが上空にすっと浮かんだ。カゼスは辺りを見回し、避難民らしき一団を見つけると、〈いや、いいよ〉と応じてそちらに向かった。
「すみません、向こう岸の様子はどうなっているか、教えてもらえませんか?」
カゼスが声をかけると、おびえた様子の数人が、びくりと顔を上げる。彼らに代わって、傷の手当てをしていた女が憤然と答えた。
「とんでもない話だよ! 兵営があるおかげで街もここまで大きくなったってのに、あの連中ときたら! いきなり魔術師どもが兵営を囲んだんだ。あの光の壁が現れた時にはあたしら皆びっくりして、また軍団兵が新しいことを始めたのかと思ったさ。ところがどうだい、見てる間に向こう岸が騒がしくなって、どんどん人が岸辺から追い落とされ始めた。酷いったらないよ! レーデン人の屑どもが!」
「あなたは……?」
「ああ、あたしはここで昔っから夫婦で漁をやってるもんだけどね。うちの亭主が急いで船を出して、溺れかかってる人たちを助けに行ったよ。あの連中、追い落とすだけじゃ足りなくて石まで投げてさ! うちの人も肩に一発くらって、今、医者の先生んとこに行ってるよ」
まったく、とぶつくさぼやきながら、女は手当てに使ったものを片付ける。
「この人らが何したってんだい、馬鹿どもが」
「自分達が何をやっているのか、きっと分かっていないんでしょう」
カゼスは陰鬱に唸り、後ろで聞いているヴァフラムとリュンデを振り返った。
「単に魔術師だけの問題じゃなくなってしまってますね」
「あれだけ目に見えて派手なことをされたら、何も考えずに尻馬に乗る馬鹿な若者が集まっても当然でしょうな」
ヴァフラムが渋い顔で対岸を睨んだ。向こうの船着場は遠くて人物の見分けまではつかないが、ぴょんぴょん飛び跳ねたりしている動きからして、年寄りではなく若者だろうと察せられる。
その時になって、女が胡散臭げにカゼスたちを睨んだ。
「で、なんなんだいあんたらは? 野次馬ならとっとと帰りなよ、それかもっと役に立つことをしとくれ。それともまさか、あっち側に行きたいなんて言うんじゃないだろうね」
「そのまさかなんですけどね」
カゼスは困り顔でため息をついた。この様子では船は出せない。となると、『跳躍』で行くしかないが、何はともあれまずは……
「どうですか、状況は」
声と共に蹄の音がして振り返ると、ケイウスが馬から下りたところだった。背後に十数人ほど、軍団兵を引き連れている。
「良くないですね」カゼスは首を振った。「魔術師が兵営を封鎖して、それに便乗した一部の住民が、他の住民を追い出しているらしいです。向こう岸から逃げてきた人が、大勢こちら岸で震えてますよ。レント人だから追い出されたのか、単にたまたま運が悪かったのかは分かりませんし、追い出した方も分かっちゃいないでしょうがね」
「やはり兵を投入しなければならないようですね」
「いえ、それは必要ありません」
カゼスが答えたので、ケイウスは目をしばたいた。カゼスは光の壁を見据えたまま、考える風情で続ける。
「あの兵営の中に直接、乗り込みます。あなたは兵営の軍団兵を説得して、これはただの暴動であって反乱ではないから、あまり手荒に鎮圧しないようにさせて下さい。でないと、私があの壁を消した途端に今度は軍団兵による殺戮が始まったりしたら、事態を収拾するどころじゃありませんから」
「なるほど。中の兵たちは状況が伝わっていなくて、必要以上に緊張していることも考えられますからね。封鎖が解けても先走らないように鎮める必要はあります。しかし……」
口ごもったケイウスに代わり、ヴァフラムが遠慮がちに問うた。
「あの壁をそう簡単に消せますかな? 恐らく魔術師が五人か六人がかりで築いていますよ。それ以前に、あの壁の中に乗り込むことが出来るかどうか」
「その点は心配ありません」
カゼスは軽く手を振った。カゼスの目には、壁の組成と構造がはっきり見えている。跳躍によってその“上”を越えることは容易いし、一人二人ならすり抜けることも出来るだろう。
「まず中に入って、ケイに兵士を説得して貰っている間、私はヴァフラムさんたちと一緒に魔術師たちの説得に当たります。騒ぎを煽っている者がいるでしょうが、魔術師たちが手を引けば、目端の利くのはさっさと逃げ出すでしょう」
「話を聞いて貰えたら良いのですけどね」
ふう、とリュンデがため息をつく。カゼスは「やってみるしかありません」と言うと、皆を手招きして周囲に集めた。
「ナーシル、そこの軍団兵から盾か何か借りておかなくても大丈夫ですか」
ふと思いついてカゼスが問うと、ナーシルは苦虫を数十匹まとめて噛み潰した顔になった。しまった、とカゼスは慌てる。
「すみません、あの、悪気はなくてですね、ただ純粋に心配して」
「分かってるよ」うんざりとナーシルは唸った。「なんなら、俺じゃなくてこいつらを連れてったらどうだい」
辛辣に言われてカゼスがおたついていると、ケイウスが代わって答えた。
「それは止した方がいい。軍団兵の盾も。説得に出向いた途端、一言も発しない内に投石の雨に打たれてしまいますよ。盾にするなら鍋の蓋のほうがましです」
「……あんたよっぽど俺が嫌いらしいな」
「純然たる親切心を、無下にしないで貰いたいな」
しらっとケイウスはいなし、連れて来た軍団兵の方を向いて言った。
「おまえたちはこちら岸の警戒に当たれ。避難民の安全を確保し、騒ぎに便乗する者がいないか目を光らせておけ。向こう岸の状況が変わってから、こちらに逃げてくる者がいたら捕えろ」
は、と短く隊長が応じて敬礼する。漁師の女房はぽかんとして、彼らのやりとりを見ていた。彼女だけでなく、近くに居合わせた避難民や野次馬たちも、こいつらはいったい何者だ、という目で興味津々と見つめている。
カゼスは「それじゃ」と小さく言うと、全員を囲む円を意識に描き、リトルもちゃんと入っていることを確かめてから、呪文を使わず力を動かした。
ヒュッと空気のこすれる音がして、次の瞬間、五人は兵営の一室に現れていた。ガタンドタバタと激しい物音がそれに続く。
「あ、どうも、お騒がせしてすみません」
作戦会議室の机上からカゼスが頭を下げる。椅子ごとひっくり返った隊長が目を白黒させ、咄嗟に立ち上がっていた別の隊長は剣を抜いた。
「止せ、レト。俺だ」
ケイウスがすかさず制したおかげで、流血の惨事には至らずに済んだ。レトと呼ばれた青年隊長はぽかんとし、ついであんぐり口を開けた。
「ケイウス殿!?」
「すまん、出来ればきちんとドアから入って来たかったんだが」
「へぼですみませんね」
小声でひねくれつつもカゼスは机を下り、リュンデに手を貸してやる。あらあらと言いながらリュンデはもたもたと足を下ろし、なぜか転んで椅子をひとつ巻き込んだ。
「いったい何がどうなっているのでありますか?」
レトが混乱しながら問うた。ケイウスはきちんと床に立つと、苦笑して昔の部下の肩を叩いた。
「助けに来た。ここにいるのは魔術師とその護衛だ。魔術師は三人とも選り抜きの実力者で、兵営を囲む壁を消すことが出来るらしい。その前に状況を知らせておこうと思ってな」
ケイウスの口調は穏やかで力強く、室内の面々が目に見えて安堵する。カゼスは感心しながら、ケイウスの軍人としての一面を眺めていた。
「魔術師が壁を作ってから、外では調子に乗った馬鹿どもが暴動を起こしている。市民の一部が対岸に追い払われた。こっちに残った連中はお祭り騒ぎか何かと勘違いしているようだ。深刻な顔を付き合わせて決死の覚悟をするほどの事態じゃない」
そう言ってケイウスは笑い、兵営の隊長たちを見回した。司令官と思しき男に目を留め、彼は真顔になって続けた。
「これから彼ら魔術師が外の連中の説得に当たる。あなた方は武装を整え、封鎖が解けたら、説得に従わない暴徒を鎮圧してもらいたい。ただし、あまり痛めつけることなく」
「だが連中が武器を持っていたら? 本当にただの暴動ですかな」
「たいした武器はありませんよ」
カゼスが口を挟んだ。その手には水晶球がある。
「石とか棒とか、せいぜいそのぐらい……中にちらほらと、もうちょっと物騒なのを持ってる人がいるみたいですが。火箸とか包丁とか。でもほとんどは武器じゃなくてお酒を持っているようですね」
「…………」
司令官は胡散臭げに眉を寄せたが、なぜ分かる、とは問わなかった。何しろ魔術師なのだし、いかにも何かが見えそうな水晶球を持っているのだから。
「それなら結構だが、魔術師殿。しかし、説得だけで彼らを動かせると思われるのか? 理にかなってさえいれば人を動かせるというのは、ただの幻想ですぞ」
「そうですね」カゼスは寂しげに微笑した。「どんなに正しいことを言っていても、何の力もない一個人では無視されるか叩き潰されるだけ。世間は厳しいですよね……まぁ、その辺は一応、考えてますから。耳を傾ける気にさせる方法ならいくつか、使えると思います」
出来たら使いたくありませんけど、とカゼスは苦笑してリトルを手の中で転がした。司令官の目が興味深げなものに変わる。カゼスは肩を竦めた。
「それで、いつ始めたらいいでしょう? 今すぐにでも?」
「ふむ。少し待たれよ。兵に命令が行き渡ってからに願いたい」
「分かりました」
カゼスはうなずき、すいと手を上げる。リトルはそのまま浮き上がり、外へと飛び去った。壁を作り出している魔術師が正確にどこにいるのか、見つけるために。
図書館に近衛兵が乱入してきたのは、二度目だった。
なにやら騒がしいなと訝っている間に、エイルとアーロンは近衛兵に取り囲まれ、後片付けもろくに出来ないまま王宮へと引っ立てられてしまった。
「魔術師どもめが!!」
国王オルクスの咆哮を耳にして、二人は顔を見合わせたが、むろん何があったかを知る由もない。乱暴に王の前に突き出され、二人はよろけてたたらを踏んだ。
「貴様は知っていたのか。サクスムで何をした、あのラウシールが下準備をしていたのを見たのか!」
何の説明もなく詰め寄られ、エイルはたじたじとなって首を竦める。
「お、お待ち下さい陛下。何のことをおっしゃっているのか、さっぱり」
「知らんとは言わせぬぞ!」
そんな無茶な、とエイルは目を白黒させる。ともかく国王が激怒していることだけは確かだった。創意工夫に富んだ罵りの言葉を次から次へと吐き出しつつ、そこらじゅうの物という物に八つ当たりしている。緑豆のまんじゅう頭というのはともかく、目玉魚のちょび髭野郎とはいったい何だろう、とエイルは翻訳呪文の意訳の妙に首を傾げるしかなかった。
しばらく椅子を蹴飛ばしたりクッションを投げつけたりして、ようやくオルクスも少し落ち着いたかに見えたが、さりとてまともに話の出来る状態ではなかった。
ぎろりと二人の人質を睨みつけ、彼は衛兵に向かって「ぶち込め!」と短く命じた。
アーロンとエイルが目を丸くする。ちょっと待て、と二人は揃って抗議しかけたが、衛兵が素早くその襟を掴んで部屋から引きずり出してしまった。
バタンと扉が閉まった後で、ようやくアーロンが声を上げた。
「待って下さい、いったい何がどうなってるんです!? せめて何があったか教えて下さい!」
「静かにしろ!」
衛兵が無理やりその口をふさいだ。でも、と目で訴えたアーロンに、衛兵はやれやれと諦めの表情を見せた。こんな事態には慣れっこらしい。
「落ち着け、今ガタガタ騒いだら余計に陛下のご機嫌を損ねるだけだ。いいから、大人しく何日か“お客”になっていろ。しばらくしたら、やっぱり出してやれと言うに決まっているんだから」
「……はぁ」エイルが目をしばたたき、眼鏡を押し上げた。「あなたは何があったかご存じありませんか?」
衛兵はアーロンから手を離し、二人を歩かせながら答えた。
「詳しいことは知らんが、サクスムで魔術師が軍団兵に何か仕掛けたらしい。最寄の兵営から大隊を派遣して対処に当たっている。長衣の者の支部と学府にも、事態の収拾を命じられたそうだが、現状は不明だ」
「それで陛下は、カゼスさんが何かしたと思われたんですね」
はぁ、とアーロンがため息をついた。カゼスが向かったのは学府だし、第一ケイウスが一緒にいるのに、軍団に対する攻撃を見過ごす筈がないではないか。
「そういうことだ。じきに陛下の頭も冷えるだろう。自然に冷めるか、さもなければキリリシャ様が冷まして下さるさ。そう落ち込むなよ坊主。牢は牢でも、一番いいところに入れてやるから」
「……それはどうも、ありがとうございます」
力なく礼を言い、アーロンはがくりと肩を落とす。エイルは苦笑して、そっとささやいた。
「大丈夫、きっとカゼスたちが何とかしてくれるよ。それですぐにリトル――あの水晶球か、少なくとも手紙を寄越して、私達の無実を証明してくれるさ」
「なるべく早いといいんですけどね。実は僕、今ちょっと腹具合がよくなくて」
冗談なのか本当なのか、アーロンは苦笑してそんなことを言う。エイルはすかさず応じた。
「君は独房に入りたまえ」
「つれない事を言わないで下さいよ」
そんなやりとりを聞いて、前を行く衛兵が笑って請け合った。
「おまえたちの会話は面白いからな。一緒にぶちこんでやるよ」
「お気遣いどうも。仲良くしましょうよ、エイルさん」
アーロンがにやにやし、エイルはうめき声を上げた。
そうしたかりそめの明るさは、しかし、いざ牢を前にするとしぼんで消えた。いくら『一番良い牢』と言っても、やはり牢獄は牢獄だ。いかにも重そうな木の扉に打ち付けられた鉄板、厳重な鍵、小さな覗き窓など、そこに入る者の意気を挫く効果は抜群である。
「……本当に、早く出られるといいですね」
もう一度つぶやいたアーロンの声には、ふざけた気配は微塵もない。エイルもうなずき、祈るように目を上げると、石の壁を通して彼方を見やった。
「そうだね。私たち自身の身も心配だが、カゼスの方も心配だよ。無事でいるといいんだが」
ささやく声は小さく、祈りの力はあまりに心もとなかった。




