十八章 (1) 変わりゆく
〈起きなさいカゼス、いつまで寝ているんです!〉
精神波で叩き起こされ、カゼスはうーんと唸ってごろりと寝返りを打った。
「もうちょっと……」
むにゃむにゃ言いながらも、寝惚けまなこで時計を確かめようと手を伸ばす。それから、すっかり馴染んだ球体の滑らかな表面にぽてりと手を置いて、一時停止した。
「……あれ? なんでおまえがここに……?」
置いてきたのではなかったか。それともあれは夢か。今はいつだ、ここはどこだ私は誰だ。混乱しながらぼーっと宙を見ていると、リトルがいつもの厭味なため息を聞かせてくれた。
〈まったく、しゃきっとしなさい、しゃきっと! 私は今朝こちらに着いたところですよ! エイルさんが気を利かせて、昨日一日分の報告をしてくるようにと、私だけを転移装置で送ってくれたんです。用を済ませたら自分で戻ってくるから、また王都に転送してくれと頼んでね。ほらさっさと顔を洗って目を覚まして! でないと私が何を言ってもその頭じゃ全部抜け落ちるだけでしょうが!〉
ほらほら、と急かされて、カゼスは朝っぱらからげんなりしつつ、部屋の洗面器で顔を洗った。それで一応目が覚めたので、着替えながらリトルの報告を聞く。
〈まずは、二人とも無事ですよ。今朝の時点ではね〉
最初にそれを知らせて安心させてから、リトルはエイルとアーロンが昨日見つけたいくつかの成果を知らせた。ごく些細な伝承がひとつ、それにレーデン都市連合の反逆者レムルの記録。ついでに、レーデン地方の特殊な事情についても。
「レムル? それ、確かかい」
〈はい、綽名や称号ではなく個人名だったようです。何か思い当たる節が?〉
「んー……」
カゼスは眉を寄せて考え込んだ。レムルの裔、とファルカムは言った。それにエクシス、とも。彼が言ったエクシスが今この学府にいるあの男であるなら、両者はともにレーデン地方の出身ということで符牒が合う。
「本人に訊いて確かめないとわからないな。とりあえずリトル、もう少しこっちにいてくれないかな。ヴァフラムさんたちに昨日のことを報告するから、おまえにも一緒に聞いて貰えたら、手間が省けるからさ」
〈わかりました〉
リトルが応じると同時に、コンコン、とノックの音がした。
「若旦那、起きてるのかい? そろそろ食堂に行かないと、朝飯食いっぱぐれるよ」
「あ、はい、すぐ行きます」
カゼスは慌てて答え、それまで苦闘していた被り物に髪を強引に押し込んで片付けた。
〈私が起こしに来て良かったですね〉
「まったくだね。便利な目覚ましを持ったもんだよ」
皮肉で応じてカゼスは扉を開ける。と、廊下にはナーシルがうっそりした気配をまとって立っていた。カゼスは目をしばたたき、戸惑いながら挨拶した。
「お早う……ございます。どうしたんですか、随分、なんというか……」
ワット数が低い。と言いかけて言葉を飲み込む。ナーシルは薄ぼんやりと冴えない顔のまま、目をしばたたいた。
「ああ、うん、まあね。なんだか昨夜は……何もかも、よくわからなくなっちまって。あんまり眠れなかった」
ただ少々睡眠が不足しただけなら、こんな顔はしていないだろう。深い悩みが、今まで信じていたことをぐらつかせる出来事が、生来の陽気さを翳らせている。
カゼスは何と言うこともできず、ちょっと気の毒そうな顔をして、慰めるようにナーシルの腕を軽く叩いた。が、かえってナーシルはうつむいてしまう。
「……俺はさ、学がなくて難しい事は分からないから、総督の言うことが正しいのかどうか、判断できないんだ。ただ、筋は通るって思ったし……でも、なんだか……」
訥々と話す様子は、一夜にしてすっかり人が変わったようだ。無理もない、今まで真っ直ぐで見通しの良い一本道を歩いてきたのに、いきなり分岐点が現れ、しかも行く先はどちらも霧の中に消えてしまったも同然なのだから。
「迷うのは分かります」カゼスも考えながら言った。「あなたの仲間の人たちも、きっと反応は様々でしょうね。エンリル様を信じられないという人や、それじゃ結局レントにとって都合がいいだけじゃないかと反発する人もいるでしょうし……でも、私の勘では、エンリル様のやろうとしている事は、デニスとレント双方を変えるいいきっかけになると思いますよ」
「あんたも総督と同意見なのかい? 俺たちにも、言われる通りにしろって?」
ナーシルの問いは、自信なさげな、暗闇で手探りしているかのようなものだった。カゼスは眉を上げ、それから渋面を作って見せた。
「決めるのはあなたですよ。私にはどうしろと命令することも、示唆することも出来ません。無責任のようですけど、実際、私はあなたの意思決定までは負いきれませんから。……まだ急がなくてもいいでしょう、しばらくじっくり考えて下さい。今はともかく、朝ごはんを食べて、元気を出しましょう」
カゼスは明るい口調になり、少し強くナーシルの背中を叩いた。
「あなたにそんな顔をされてちゃ、調子が狂います。さあ、行きましょう」
励まされてナーシルはやや驚いた顔になる。意気揚々と歩いていくカゼスの背中を見て、彼はふと苦笑すると、いつもの軽い足取りで走って追いかけた。そして、カゼスの腕を捉えて一言。
「若旦那。食堂はあっち、反対だよ」
笑いを堪えているナーシルと、精神波でリトルに厭味を言われてむっつりした顔のカゼスとが食堂に行くと、既にあらかたの魔術師は朝食を終えたらしく、人影はまばらだった。二人がカウンターで朝食を受け取って席を見渡すと、「お早う」と手を上げる人物がひとり。言うまでもなくケイウスだ。カゼスは危うくトレイを落としかけ、慌てて体勢を立て直した。
「あ、えーと、そ、その辺で食べましょうかぁ」
裏返った声で白々しく言いながら、ケイウスに背を向ける。ナーシルはきょとんとして、二人の若旦那を交互に眺めた。むろん彼としては、大嫌いな元軍団兵と同席しなくていいのなら、それに越した事はない。不審な顔をしつつも、カゼスに従って近くのテーブルについた。
平パンは既にすっかり冷めていたが、豆と野菜のスープは温かく、新鮮なスモモまでついている。塩気の強いチーズを香草と一緒に平パンでくるんで食べると、独特の滋味と香りが喉から鼻までを満たした。
レント大陸に渡ってからの食事はあまり香味が強くなく、それはそれで食べやすく美味であったが、カゼスの舌にはデニスのものの方がよく馴染んだ。ティリスで食べた羊肉の包み焼きが恋しいなぁ、などと、カゼスは味覚に意識を集中させる。
もちろん、そんなことをしても魔除けの効果はなかったが。
「俺に聞かれては困る話でも?」
にこやかに言いながらケイウスが隣に座ったもので、カゼスは喉を詰まらせてむせそうになった。むぐむぐ言いながらなんとか水で流し込み、目を合わせもせずに答える。
「そういうわけじゃ、ありませんけど」
視線が痛い。カゼスは困り果て、両手でパンを持ったまま、固まってしまった。ケイウスが面白そうにじっと観察しているのがわかる。このままではにじにじとパンを虐待して、粉にしてしまいそうだ。
「おいあんた」ナーシルが不機嫌に唸った。「うちの若旦那に妙なことしたんじゃないだろうな。いいか、何を企んでんだか知らないが……」
「私は何も企んでなどいない」
ケイウスは穏やかに、しかしきっぱりとナーシルの脅しをはねつける。次いで、鋭く切り込んだ。
「企んでいるのはあなたの方だろう。カゼスを自分達に都合よく利用しようとした。違いますか」
「利用なんてつもりじゃない。それにともかく、あんたほど困らせてもいないと思うね」
剣呑なやりとりに、カゼスはうんざりと首を振った。
「私には、食事の時ぐらい心穏やかに過ごす権利さえないんですか?」
「ああ、すみません」
ケイウスはすぐに謝り、ちょっと眉を上げた。
「あなたは本当に幸せそうに食事をしますからね。邪魔をしたことは謝ります。ただ、俺としては、普通に接して貰えたらそれで良かったんですが」
普通に、とはまた無茶を言う。カゼスはおがくず味になってしまったパンをもそもそと口に押し込んだ。昨夜のことをあれこれ考え出すと混乱するだけなので、カゼスは目先の問題に意識を切り替えた。
「企んでない、っておっしゃいましたよね。それじゃ、もし私がうっかりして、王様に聞かれたくない話をしてしまったり、見せたくないものを見せてしまったりした後で、なかったことにしてくれって言ったら、黙っててくれますか?」
「難しい質問ですね」ケイウスは苦笑した。「俺にとっては王国と陛下の安全が第一ですから、それに対して脅威とならないのであれば、黙っていましょう。王国にとって有利となり、あなた方にとって不利となる情報であれば、非常に惜しくはありますが諦めても構いません。ただしそれが元で危機が迫らなければ、ですがね」
「そこが私にも悩みどころなんですよ。私には政治的な駆け引きの知恵がありませんから、自分の知っていることや言動がどんな価値と意味を持つのか、いまいち判断出来ません。だからといってあなたを一切から締め出してしまったら、あー……きっと王様は怒るでしょうし」
「ああ、彼の罵倒の才能は、彼が愛して止まない詩作と作曲のそれよりもはるかに優れているというのが、仲間内の評判ですよ」
にやりとしてケイウスが応じたので、カゼスも失笑してしまった。
「それじゃ、手土産なしにあの王様の前には立ちたくないでしょうね。どの程度役に立つか分かりませんが……この後、ヴァフラムさんたちに、昨日私が見たことについて報告するつもりです。魔術師の失踪の理由と目的についてね」
図書館でキリリシャと初めて会った時には、単に自分の血族探しだと説明しておいたが、今ではもう少し、正直に話した方がいいと思えた。でなければ人質になっているアーロンとエイルが、図書館に出入りする自由を奪われてしまうかもしれない。
「あなたも同席してそれを聞いて頂ければ、少しは王様をなだめられると思います。多分その席で後任の長の問題も出るでしょうけど、もちろん私は断るつもりですから、その時は援護してもらえると助かります」
カゼスの申し出にケイウスはふむふむとうなずいていたが、最後の言葉には小首を傾げて考えるそぶりを見せた。カゼスは目をしばたたき、確認する。
「それが王様の意向なんでしょう?」
「ある意味では、確かに。長衣の者の間にラウシールを信奉する一派が急成長しているという情報は、陛下もご存じです。その頭にあなたが据えられて、魔術師たちがこれまでとは違った動きを見せることを懸念されている。ただ、これは私の個人的な考えですが……逆に言えば、あなたが長になっても、それによって不穏な動きを封じられるのなら、むしろ歓迎です」
「いや、でも、私にはそんな統率力はありませんから。仮に多少はラウシール様としてはったりがきくとしても、長と名のつくものは一切勘弁して貰いたいんですよ」
逃げ腰なことを言い、最後に水を飲み乾す。やっと食事が空になった。
「さてそれじゃ、行きますか」




