十七章 (2) 用意された盤上で
「さて」
エンリルはナーシルを見下ろし、次いでケイウスに目を移して、小首を傾げた。
「どうしたものかな、元百卒長ケイウス殿。デニス総督に一任して頂けるか、それともご友人でもある国王陛下に成り代わって果たすべき務めがおありかな」
身元を言い当てられ、ケイウスはやや目をみはったものの、すぐに肩を竦めた。
「私の素性をご存じなら、今の私の立場も、どこからなりとお聞き及びでしょう。ラウシール殿が約を違えぬかを見張ると同時に人質でもある身ですから、総督の仕事にくちばしを挟むつもりはありませんよ」
そこで彼はカゼスに意味ありげな視線を向けた。つられるように、エンリルもカゼスを見る。二人に見つめられて、カゼスはしばしきょとんとしたものの、やっと気付いてうろたえた。自分の判断が待たれているのだ。
「え、え、でも、私が決めることじゃないですし……そもそも私は中立の部外者で」
おたおたと無意味に手を振り回す。ナーシルがため息をついて立ち上がり、捨て鉢に言った。
「なんでもいいさ。あの爺さんのせいで、俺のことも暴露されちまったわけだし、いまさら隠し立てすることもないだろう。追放でも投獄でも、好きにすればいいさ」
「それは駄目ですよ!」あわわ、とカゼスは急いで口を挟む。「ちょっ、ちょっと待って下さいよ。あの、エンリル様、それにケイも、あのですね、ナーシルはあの人が言ってたような危険人物でも盗人でもなくて、つまりその」
「……処遇に関して話し合う余地がある、というところか」
エンリルがやれやれとばかりに言い、ケイウスは失笑を堪えながらうなずく。
「そのようですね。私には王国を守る義務がありますが、友人から勤勉な下男を取り上げる権利はない。総督、あなたの温情にお任せしますよ」
下男呼ばわりされてナーシルが渋面になったのを、ケイウスはおどけ顔で受け流した。それから彼はカゼスに向き直り、含みのある声音で言った。
「私は少し、部屋で休ませてもらいます。私の耳に入れても構わない事だけ、後で知らせて下さい」
「……あ、ありがとうございます」
カゼスは一瞬ぽかんとしてから、相手の言わんとするところを察して頭を下げた。
聞いた事以外は、国王に報告する必要はない。だから都合の良いように言い訳をでっち上げてくれて構わない、という意味だ。とてつもない信頼を寄せられたようで、カゼスは信じられないやら嬉しいやら居心地が悪いやらで、もぞもぞする。
その内心を察してか、ケイウスはほろ苦い笑みを浮かべた。
「礼には及びません。王都にはまだ、あと二人のご友人が残っているのですから。では、失礼」
コツコツと杖をつきながら、ケイウスは隣の客室に戻っていく。それを見送りながら、エンリルは難しい顔をしていた。
隣室の扉が開閉する音を確かめた後で、エンリルは眉を寄せたまま唸った。
「人質が二人か。あまり思わしくないな。それで? 本当にその男はあの魔術師が言った通りの、王国に害なす者なのか」
「本人に訊いてみたらどうですか? 私は何度か協力を求められましたけど、でも、そんなつもりはないと断ったら無理強いされることはありませんでしたよ」
「ならば何故いつまでも、おまえのような頓馬の下男じみた立場に甘んじているのだ」
厭味を練りこんで質問し、エンリルはナーシルに目を向けた。ナーシルはよれた服を整えていたが、総督の視線に気付くと、とぼけた顔をした。
「信条はともかく、仕事は仕事ですからね、総督。俺は前の雇い主から、ラウシールさんの荷物持ち兼護衛として、かなり破格の給金を前払いされてるんです。持ち逃げはしちゃいかんでしょう」
「そもそもおまえは実際に、王国に対して反乱を起こすつもりでいるのか? そのための活動を行っているのか?」
「そんな質問に正直に答える奴はいないと思いますがね。お尋ねのことが武力に訴えるってことなら、今のところは返事は否です。武力は最後の最後まで、使うつもりはありませんよ。ともかく賛同者を集めてつながりを作ることを第一に活動しています」
「首謀者は誰だ」
ずばりと切り込んだエンリルに、ナーシルは肩を竦めてにやにや笑った。
「いくら俺が素直に答えてるからって、それは教えられませんよ、総督。教えたくても知りませんからね。ほとんど誰も知らないんじゃないかな。姿も素性も隠してるんで。……決して先鋭的でも暴力的でもない思想の持ち主がそうやって身を守らなければならないってこと自体が、デニスの置かれた状況のいびつさを表しているんだと言ってるそうです。俺も同感だね。総督さんは俺たちのために戦ってはくれないし」
「それは誤解ですよ」カゼスが口を挟む。「エンリル様だってデニスの状況を変えようと努力してるんです」
そのために致命的な仲違いまでして。だがナーシルは鼻であしらった。
「王国の偉いさんに取り入って、出世しようってだけに見えるがね」
「そう見えることは否定しない」
意外にも冷静にエンリルがそう認めた。おや、と驚いた様子でナーシルはエンリルを見つめる。
「レントのやり方に従って、あちらの用意した盤の上で戦うのは、正直に言って面白くない。剣と槍を振り回して馬を走らせれば片がついた時代が羨ましいぐらいだ」
エンリルは皮肉に口元を歪めて苦い笑みをこぼし、続けた。
「だが、気に食わんと言って盤を叩き壊しても、いずれにせよ国は誰かの用意した盤の上で動く。新しい盤と法則を用意するまでに、また別の手がそれを潰すかも知れないし、用意していざ始めてみたらさっぱり上手く運ばなかったということもあり得る。癪に障るが、今のレントの体制はよく出来ている。その上で戦うしかない」
「つまり一部の金持ちや偉いさんが、レンディルに行ってぺこぺこ頭を下げてお願いするしかないってのかい。それで野蛮で無学で貧しい属州民は、黙ってそのおこぼれを待ってろって?」
ナーシルの口調からはかりそめの遠慮が消え、憤慨が顔を出し始めていた。
「俺たちみたいな人間が何人集まっても、わーわー騒ぐだけ無駄だと? 結局はレント人の足に縋ってお慈悲を乞わなきゃならないってのか!?」
「そんな必要はない、堂々と胸を張って要求すればいいんだ!」
何かを叩き伏せるようにエンリルが言い切った。ナーシルは予想外の反応にびっくりして目をぱちくりさせ、カゼスもたじろいで半歩後じさった。
「我々は属州民だが、王国に対する義務は果たしている。だからこそ、要求があればお慈悲に縋るのではなく、正当な言い分として評議にかけられねばならんのだ。だが現状ではそれが出来る議員がいない。我々の声を直接議場に持ち込める者がいないんだ。だから私がそうなろうとしている。たとえ王国に媚びへつらっていると見られようともな」
「…………」
ナーシルはすっかり圧倒された風情で立ち尽くし、絶句した。しばらく放心した後で、彼はだらりと両手を下げたまま、力なくつぶやいた。
「それでも結局、俺たちは何をしても無駄ってことだろ。あんたみたいに名家の出でもなく、有力者につてもない庶民には、出来ることなんかないのか」
「いいや、ある」エンリルはまるで答えを用意していたかのように応じた。「おまえたちの組織がどの程度の規模かは知らんが、人集めとその連携作りを第一としていたのなら、それをそのまま生かして、議会に出すべき要求を取りまとめる機関として働くようにすればいい。幅広い立場の民から生の声を集め、選り分け、何が最も切実に必要とされているかをまとめるんだ。そういう組織なら、評議会もがたがた言うまいよ」
そこまですらすらと述べ、エンリルはひたとナーシルを見つめ、強い口調で「ただし」と付け足した。
「属州出身の議員が誕生した後ならな」
つまり、今はまだそうした組織の実在を明らかにして良い時期ではない、という意味だ。
「楔を打ち込んだ後なら、既成事実としてでもおまえたちの存在を認めさせることは出来る。おまえ達が王国の盤上での試合に応じる組織だと認められたなら、いずれは発言力も増すだろう。だが今、組織化の動きを知られたら、打ち込む前にこちらが打たれる。だから下手に騒ぐなと、仲間に伝えておけ」
「あんたが議員になれなかったら?」
ほとんどおずおずと、ナーシルが問う。返答は不動の決意を込めた厳しいまなざしだけだった。ナーシルがうつむいて自分の爪先を見つめると、エンリルは表情を和らげてカゼスに向き直った。
「こいつのことは誤解だったと話しておけ。そうだな、同郷人の友愛会だか互助会だか、そんなものの連絡係をしているだけだ、というのが妥当か。ケイウス殿と話がついて、長衣の者のごたごたが一段落したら――私としては関らないことを勧めるがな――明日か明後日にでも、総督府に来い。約束通り、そちらの探り当てたことを報告してもらう。こちらも会わせたい人物がいるからな」
一方的に言うだけいい、カゼスが押され気味に「はい」と答えると、エンリルはさっさと踵を返して挨拶もなしに出て行ってしまった。
荒々しいまでにきびきびした足音が遠ざかると、カゼスは無意識に詰めていた息を吐き、肩の力を抜いてつぶやいた。
「……なんというか、相変わらず問答無用な人だなぁ」
立ち直りの早さも大したものだ。それともあれで内心はまだ、セレスティンに恋々としているのだろうか。
(もしセレスティンが逃げ出さずにこっちに残っていたら、婚約の事はどうするつもりだったのかな。本当に結婚したかな、それとも……議員になることを諦めてでも、セレスティンを引き留めるためだけに、婚約を反故にしたりしたかな)
どうもそれはありそうにないが、と小首を傾げて考える。だがエンリルの本心がどうあれ、すべてはもう決まってしまったことだ。
(セレスティン……あれが、あなたの望みですか? あんな風に、エンリル様をがむしゃらに突っ走らせることが? あなたの目には、どんな未来が見えているんですか)
虚空に向かって問いかけてみたが、応えはなく、微かなあの鈴の音さえ聞こえなかった。
「その言い分を陛下が信じるとは思えませんが」
ケイウスは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「しかしそれがあなた方の結論なら、そう報告しましょう。正体が何であれ実害がないのであれば、俺としては構いませんから。嫌われているのはいささか堪えますがね」
付け足された冗談に、カゼスは思わずふきだしてしまった。
「あなたがナーシルに好かれたがっているなんて、知りませんでした」
愉快げなカゼスに合わせるようにケイウスもちょっと笑い、それから彼は穏やかに言った。
「半分は本気ですよ。俺のどこそこが気に食わないと言われるのは仕方がないが、元軍団兵だから憎まれるというのは、二重に堪えます。個人に対する無視と、国家に対する憎悪とでね」
「……ああ」
そうか、とカゼスは笑みを消してうつむき、沈んだ声を漏らした。そんなカゼスに、ケイウスは優しいまなざしを向けてそっと手を伸ばす。
頬に触れる指先の感触に、カゼスはぎょっとなって弾かれたように顔を上げた。予想通り至近距離にケイウスの顔があり、カゼスは普段の鈍さからは想像もつかない勢いで後ずさった。
「ちょっ……ちょちょちょっ、ちょっと待って下さいぃ!?」
真っ赤になって素っ頓狂な声を上げたカゼスに、ケイウスは白々しく驚いた顔をし、その場を動かないままくすくす肩を震わせて笑いだした。ほとんど壁際まで逃げていたカゼスは、またやられたかとムッとする。さりとて殴りに行く気にはなれなかった。
「勘弁してくださいよ、もう……」
ぶすくれてぼやきながら、数歩戻って立ち止まる。それ以上近付くには、安全を確かめておく必要があるだろう。カゼスはまだ顔が赤いのを自覚しながら、冷静に冷静にと己に言い聞かせつつ、抗議を続けた。
「私はこういう冗談は苦手なんです。昔からね。五年前……こっちでは五百年前にも、何人かにからかわれましたけど、慣れるようなものではなくてですね。むしろ腹立たしいので、止めて貰えないと本気で殴ってしまいますよ」
「冗談ではなければ?」
「いや、だから……。……って、はい?」
数拍遅れて反応し、カゼスはぽかんとなってケイウスを見る。笑いを堪える風情の、しかし確かに自身かつて受けた覚えのある温かいまなざしが返って来た。
「…………ちょ」
今度はもう言葉も出てこず、カゼスはただ手振りでちょっと待てと繰り返しながら、再度壁際までじりじり後退した。どしん、と背中が壁に当たると、ようやく止まって、信じられないと言うように両手で頭を抱える。
「いやあの、何か、絶対何か誤解がありますよ、ケイ、あの、言ってる意味、分かってますか。いや私が誤解してるのかな」
混乱してごちゃごちゃ言うカゼスに、ケイウスは苦笑しながらちょっと杖の位置を動かして、足を踏み替えた。
「なぜそんなに困るんです? 俺はただあなたに好意を持っている、それだけですよ。いけませんか」
「いいいいいけなくはないかも知れませんけど、でもですね、ほら言ったじゃないですか私はどっちでもないんだって」
おたつくカゼスに対し、ケイウスの方は腹立たしいほど落ち着いていた。
「ああ」ようやく納得したように苦笑をこぼし、一人うなずく。「俺はあなたに女になって欲しいわけじゃない。そういう意味ではなくて、ただ……どう言えばいいかな。俺もこういう気持ちは初めてなんだが」
そこで彼は初めて困ったように頭を掻いた。しばし言葉を吟味し、沈黙する。カゼスが身構えていると、ケイウスは考えをまとめ終えたらしく、改めてこちらを見つめ、真顔で説明してくれた。
「感情としては、一番大事な馬や、一緒に育った犬に対する気持ちが一番近いかもしれない」
「…………」
がく、とカゼスは脱力した。考えようによってはそれはとても光栄なことだが、流石にすぐに喜べるほどの余裕はない。座り込みそうになったカゼスに、ケイウスは慌てて言葉を続けた。
「もちろん馬や犬よりも、格段に崇高な存在ですが」
それはそれでちょっと言い過ぎだ、とカゼスは小声で突っ込んだが、ケイウスの耳には届かなかった。
「カウロニアを発ってから、あなたのことをひとつ知る毎に、好きにならざるを得ませんでした。最初はそれで困りましたが。……いまさら隠し立てはしませんが、俺はあなた方を監視する命を受けていたので」
「じゃあまさか、あの女の人が襲われていたのも?」
「いや、あれは本当に偶然です。あの件に関してはナーシルにも感謝していますよ。どうやって接触するかと悩む必要がなくなったという意味でもね」
「……ということは」
カゼスは無意識に背筋を伸ばし、睨むような目になっていた。
「学府の誰かが私たちのことをあなたに知らせたんですね?」
「ええ。先ほどのエクシスです。彼はレーデンの出身ですが、王国の属州になる前のあの地では、もっとも貧しく卑しいとされる階層に属していました。それが解放されて、王国には恩義を感じているということです。昔から国王に様々な情報を流していましたが、気の毒に、当のオルクスはそれをうるさがっていますよ」
「そんな事情が……それであんなに、ナーシルに対して敵意を見せたんですね。あの人にとっては救い主である国に、謀反を企んでいると思い込んで」
納得し、カゼスはやりきれなくなって小さく首を振った。それからふと視線を感じて目を上げると、参ったことにケイウスはまたあの微笑を浮かべていた。
「そうやって、他人の苦しみや怒りにも共感と理解を示せるところが、とても好きですよ」
「…………ど」
まともに言葉の直球をくらい、カゼスはよろけた。
「どうも……」
間の抜けた礼を言った時には、せっかく下がった血がまた顔に上ってきた。ケイウスが小さく笑い、コツリと一歩近付く。
「謙虚で、褒め言葉にはすぐ照れるところとか」
コツ、また一歩。
「時々驚くほど鈍くさいところとか」
「すみませんね」
呻いたカゼスに、ケイウスは朗らかな笑いで応じた。そしてまた一歩。
「物事を広い視野で見て判断できるところも」
「……それは誤解だと思いますけど」
「国王を前にしても怖じる事なく自分を貫ける強さも」
「図々しいだけですって」
「損得や己の危険を無視しても人助けをしてしまう優しさも」
「迂闊で浅はかだ、って怒られてますよ……」
そこまでやりとりする間に、ケイウスはカゼスの目の前まで歩み寄っていた。もちろんカゼスは逃げようと思えば逃げられたはずなのだが、壁にへばりついておろおろしている間に、簡単に追い詰められてしまったのである。
いよいよあと一歩というところまで迫られて、カゼスは半分泣きそうな顔で、左右のどちらに逃げるべきかといまさら視線を走らせていた。ケイウスは苦笑し、杖をついていない右手を壁に突いて、カゼスの退路を片方閉ざした。
「お陰で俺はそこに付け込めるわけです。傷付けやしないかと遠慮しているから、逃げ損ねるんですよ」
「――!」
カゼスは息を呑み、まじまじとケイウスを見つめた。穏やかで温かい微苦笑にほんのわずかまじる、黒い棘。それに気付くと、思わず我を忘れて激しく首を振った。
「違いますよ! 私はただ鈍くさいから逃げ損ねただけで、そういう遠慮はちらとも思い浮かびませんでしたよ! 本当に!!」
かなり情けないが、しかし事実だった。カゼスがいかに鈍足でも、全力で走ればケイウスからは逃げられる。片足の不自由な彼からは。だがそのことは、今のカゼスの念頭にはまったくなかった。
ケイウスは目をぱちくりさせ、それから今度は本物の笑みをこぼした。
「だからあなたが好きなんです」
言うと、もうカゼスには抗議をさせず、唇を重ねた。
無理強いしない優しい口付けで、カゼスが抵抗する決意を固めるよりも早く終わったが、それでもカゼスの許容量は遥かに超えていた。
「……すみま、せんが」
青い髪を撫でるケイウスの手を、カゼスは弱々しく払った。
「ちょ……もう、いっぱいいっぱいなんで、…………失礼」
真っ赤な顔で口元を押さえてよろよろと逃げ出す様は、ほとんど酔っ払いである。ケイウスは気遣って支えようとしかけたが、流石にそこは堪えて、カゼスのために扉を開けてやるだけに留めた。
カゼスはふらふらしながら元の部屋に戻り、前後不覚にベッドに倒れこむ。意識が暗転する直前に脳裏を掠めたのは、
(リトルがいなくて良かった)
……そんな一言だった。




