表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/68

十七章 (1) 諦めない



 狭い。重い。息をするのも一仕事だ。指先をぴくりとさせるだけのことに、こんなに意志の力が必要だなんて。瞼を持ち上げることなんて、出来るんだろうか。

 気力を振り絞り、カゼスはどうにか手足の指をわずかに動かした。血が体を巡り始め、それに伴って己の支配がゆっくり染み渡るのを実感する。どうにかやっと、再び自分の体を自分のものにしたわけだ。

 こんなに苦労するなんて、よほど長く離れていたに違いない――そう思いながら最後の難関を乗り越えて目を開くと、天井が見えた。

(あれ?)

 セレスティンの椅子に腰掛けていたはずだが、転げ落ちたのだろうか。それにしてはどこも痛くないし、背中の下には柔らかい……

「あ」

 声がこぼれた。ひどく嗄れて、人の声かどうかもわからない代物だったが、近くにいる人間の注意を引くには充分だったらしい。視界に、心配そうな顔がいくつもにゅっと現れた。カゼスは首を動かし、最初に出てきた顔を見て言った。

「ナーシル……あなたが、運んでくれたんですか」

「まぁね。無理に起こさないようにって言われたけど、椅子から転げ落ちそうになるんじゃ、あのまま放置しとくわけにもいかなかったし……大丈夫かい?」

「なんとか。どのぐらい、経ちました?」

「ほとんど丸一日だよ……っと」

 ナーシルは答えながら、カゼスが上体を起こすのを手伝ってやった。

 カゼスはぐるりを見回し、前に滞在した折と同じ客室だろうと判断した。意識のない人間をここまで運んでくるのは大変だったろう。

「お水はどうですか」リュンデがコップを持って来る。「飲めます?」

 カゼスは礼を言って受け取り、ほとんど一息に飲み乾した。

「はぁ、生き返ったぁ」

 彼がぷはっと息をくと、横でケイウスが苦笑した。

「この場合は冗談になりませんね。本当に死なれたらどうしようかと、こちらは皆、戦々恐々でしたよ」

「すみません」カゼスは素直に頭を下げた。「そろそろ戻らないと、とは思っていたんですけど、つい、しつこく食い下がってしまって……」

「会えたんですか」

 恐れの混じった声で問うたのは、ラジーだった。カゼスは少年の青ざめた顔に、思いやりのこもったまなざしを向ける。

「いいえ、セレスティンには会えませんでした。でもね、ラジー、彼女が消えたのはあなたのせいじゃありませんよ」

 そこまで言い、我ながら苦笑を禁じ得なくて困った風情になる。

「なんだか自分に言ってるみたいで、変な感じですけど……ラジー、あなたが責任を感じるのは分かります。私もそうですから。でも、色々な要因があったんですよ。誰か一人だけのせいじゃありません」

 おやおや、というようにナーシルが眉を上げる。カウロニアでのイブンとの会話を知っているのは、ここでは彼一人だ。カゼスは余計なことを言うなと目で合図し、ナーシルはおどけてそれを承諾した。

「それに」ごほんと咳払いしてカゼスは続けた。「セレスティンは向こうに行って、こっちにいるよりも幸せになれたみたいでした。……だから良かったんだとは言えませんけど、でも、彼女を追い詰めた責任を感じるのなら、彼女が幸せになったことを受け入れるしかないんじゃないでしょうか」

 そう言ってカゼスは、ラジーからヴァフラム、リュンデの顔を順に見つめた。表には出さないものの自責の念に苛まれていたのだろう、左右の輔官は目を伏せ、小さくため息をついた。

 リュンデが先に気を取り直し、顔を上げて言った。

「ともあれ、少しお休み下さい。それから、何をご覧になったのかを教えて頂いて、次にどうすべきかを話し合いましょう。私達の状況は……」

 言い終えぬうちに、外からざわついた気配と声が伝わってきた。何事か、と皆が扉の方を見ると同時に、ノックもなしにいきなり扉が開いた。

「総督!」

 ラジーがぎょっとなって飛び上がり、悲鳴じみた声を上げる。それも無理はなかった。元から時に険しくなる表情が、今はこわばり、目は異様にぎらついている。何をしでかすか分からないほどに思いつめた人間、そのものだった。

 ナーシルが反射的に身構えて逃げ道を探すと同時に、ケイウスが護身用の短剣に手を触れつつ、カゼスを庇うように立つ。室内の空気が一瞬で極限まで緊張した。

「戻ったか」

 エンリルは他の者には目もくれず、カゼスに向かって言った。カゼスは驚きと恐れに目をみはりながらも、相手の表情に隠れた深い悲嘆に気が付いた。

「はい」カゼスは静かに答えた。「二人だけでお話しする方が良いみたいですね」

 カゼスの態度に安堵したのか、エンリルはその身にまとう空気を少し和らげ、黙ってうなずく。カゼスは不安げな他の面々に向かって、大丈夫と言うように微笑み、すみませんがと詫びて退室を乞うた。

 ややあって、最後まで渋ったナーシルとケイウスが出て行くと、エンリルはベッドのそばに椅子を引き寄せ、崩れるように腰を下ろした。うつむき、片手で額を支える。泣き出したいのを堪えているようにも、絶望の重みに挫けまいとしているようにも見えた。

「……セレスティンは」

 呻きが漏れた。以前の、余裕たっぷりの声とは似ても似つかない。

「連れ戻せないのか……?」

 切実な声音に、カゼスは答えをためらい、それから「はい」とだけ応じた。多分無理だろう、などと推測で希望を残したり、残念ですが、などと同情したりするのは、余計なお世話だと感じられたから。

 案の定、エンリルは深いため息をついたが、それによって取り乱すでも、カゼスを責めるでもなかった。彼はしばらく沈黙し、それからぽつぽつと話し始めた。

「あの日……セレは私に助けを求めて来たんだ。今なら分かる。それを私は……気付かずに、いつも通りに振舞って、彼女が私の真意に気付いてくれるかどうか、駆け引きに出てしまった。そんな場合ではなかったのに……あの馬鹿者が軽はずみに婚約のことを漏らしたせいで、部屋に入る前から彼女は傷ついていたんだ。くそっ」

 その場に居合わせなかったカゼスには、断片的な独白から全体像を築くことは出来なかったが、しかし、ともかく間が悪かったということは理解できた。

「ご婚約のことは、私達もカウロニアで耳にしました。本当だったんですね」

「……政略だ。そのぐらいは分かっているだろうな?」

 エンリルの声は相変わらず暗い。カゼスは心もとなさげに答えた。

「たぶん。あなたは中央の評議会議員に立候補するつもりじゃないか、って、その情報をくれた人が言ってました。それに必要な後ろ盾を得るためだ、って」

「そうだ」エンリルはため息をついた。「皮肉だな。本来セレの方こそ、そうした事情を推察する力があったんだろうに、頓馬な奴には情報が行き、セレには伝わらなかった」

「現実ってのは時々、おかしな動き方をするものですよ」

 自分が馬鹿にされたことは苦笑で受け流し、カゼスはそう応じた。

「セレスティンはきっと……何も知らされていなかったから驚いて、驚いたことに自分でも慌ててしまって、それでいつもの聡明さが発揮出来なかったんだと思います。喧嘩はしていても、きっとあなたのことを好いていたんでしょう。友達としてか、それ以外かはわかりませんが」

 エンリルはカゼスの言葉を邪魔せず、ただ黙ってじっと聞いていた。だがその内容が心に届いているのかどうかは、怪しかった。しばらくして彼は、ぽつりと独り言のようにつぶやいた。

「……今のままでは、レントにおけるデニスの地位はあまりに低い。何を言っても相手にされない。だから……中央に食い込むのが、一番安全で手っ取り早いんだ。セレスティンの頼みも、もう少し……中央に議席を得られるまで、待ってくれと……言うことが、出来なかった」

 語尾が震える。彼は両手に顔を埋め、痛みを堪えるように体をこわばらせた。

「言えば良かったんだ。率直に言えば……せめて、追いかけていれば」

 悲痛なつぶやきにカゼスは何を言うことも出来ず、ただそっと、うつむいた金髪の頭に手を載せた。――と、その時。

 チリン。

 微かに玻璃の鈴が鳴った気がして、カゼスはぴくりと身じろぎした。

(……リル)

 彼方から微かに聞こえるのは、かつてデニスで何度か意識に届いた、あの声――それが、最近の記憶と確かに重なっていく。

 愕然としたカゼスの中に、その声と想いがそっと静かに流れ込んできた。

(ごめんなさい)

(あなたは悪くなかった)

 昔の過ちを語る口調、後悔と罪悪感、それにもまして強い懐かしさ。

 それが、カゼスを通して指先からエンリルに伝わってゆく。

(もう少し……話を、したかったわ)

 声が遠ざかって消える一瞬前に、セレスティンの微笑が脳裏に閃いた。記憶にあるよりも、少し歳を取った姿の。

 気がつくとカゼスは、愕然と目を見開いたエンリルと顔を見合わせ、対の彫像のように固まってしまっていた。

「……い、……今のは、まさか」

 エンリルがもたつく口調でどうにかそれだけ言う。カゼスは眩暈を起こしてまた倒れそうになるのをなんとか堪え、天を仰いだ。

「あなただったんですか? セレスティン」

 何度か精神の深淵で邂逅した声。不思議な共鳴、あれは全部――

(過去と未来のセレスティンが、私を通してつながっていたのか)

 衝撃が引いて納得すると、次に浮かび上がってきたのは、曰く言い難い複雑な感情だった。

 セレスティンは完全にいなくなってしまったわけではない、今もカゼスとどこかで繋がっている――多分、精神世界の深いところで。そのことに安堵と喜びを感じたが、同時に、無断で内面の奥深くに踏み込まれた不快な怒りをも感じた。何の権利があって人を中継点代わりにするのか、まるでファルカムと同じではないか、自分の都合のいい時だけ話しかけて、操作しようとして……。

 カゼスは頭を振り、もやもやした感情をどこか隅っこに追いやった。気分を切り替え、眼前のエンリルに意識を戻す。彼はまだ呆然としていた。こんな経験は初めてなのだろう。カゼスはどんな表情をしたらいいのか分からないまま、曖昧な口調で言った。

「あなたに伝えたかったんでしょうね。あなたのせいじゃない、と。……彼女は向こうで、恵まれた人生を手に入れたようでした。だからあなたも罪の意識を負うことなく、自分の人生を歩んで欲しいと……そんな風に思ったんじゃないでしょうか」

 そこまで言い、ふと気付く。今このタイミングで語りかけてきたということは、セレスティンはエンリルの歩みを止めまいとしたのではなかろうか。彼が自分の計画のためにセレスティンを犠牲にしたと思い悩み、機を逸してしまうことのないように、と。

(ファルカムもそうだけど……どうやって、過去や未来をああも自在に覗き見できるんだ?)

 むろんカゼスも、見ようと思えばいくらかは見られることもある。『窓』を開いて狭間を覗き込み、目当ての時代と場所を選び出せたら、の話だ。それは砂漠で蟻一匹を探すようなもので、大抵はそう都合よく行かない。

 考え込んだカゼスの前で、エンリルは小さくため息をついた。

「やりかけたことを投げ出さずに、か。ああ、そうだ、ここでやめるわけには行かない」

 顔を上げた時には、彼の顔には以前の自信と意志の力が戻っていた。その強いまなざしに、もう一人のエンリルが重なって見え、カゼスはどきりとした。ここで立ち止まるわけには行かないのだ、と、痛みを押して歩き続けた、若き国王。

「大丈夫ですよ」カゼスは我知らず微笑んでいた。「あなたなら大丈夫です。きっとやり遂げられますよ」

「頼もしい予言だな。だが、喜ばない者もいるようだぞ」

 エンリルは皮肉っぽく言うと、ふと視線を扉に向けた。どういう意味かとカゼスは問いさして、小さく息を飲む。青褐色の瞳が、はっきりと紫色を帯びていた。

 カゼスが彼の視線を追って目を移したと同時に、扉の向こうで激しく言い争う声がした。続いて何かが扉に叩きつけられ、派手な騒音を立てて扉がたわむ。カゼスは思わず腰を浮かせたが、さりとて様子を見に行く決心もつかず、ただおろおろと立ち尽くした。その間にも、二度、三度と扉が揺れ、ついに押し開かれて二人の男がもつれ合って倒れこんできた。

「ナーシル!」

 下敷きにされたのが誰かを見て取り、カゼスは慌てて駆け寄る。だがより早く、外にいた面々がわっと群がり、ナーシルの襟首を締め上げている人物を無理やり引き剥がした。ヴァフラムが狼藉者の腕をがっちり抱え込み、驚き呆れた声を上げる。

「落ち着きなさい、彼が何をしたと言うんだね!」

 だが返事は、まともな文章にもならない喚き声だった。各種罵声の切れ端が、吠え声に入り混じっている。カゼスは呆気に取られてその人物を眺めた。

「この人は……確か……」

 前に来た時に、見かけた。カゼスが思い出すと、相手もやっと周囲が目に入ったらしく、やおらこちらに顔を振り向けて叫んだ。

「ラウシール様、こやつは害毒です、おそばに置いてはなりません!」

 ぎらつく目とこけた頬、不吉な死神めいた風貌が、カゼスの記憶を刺激する。そうだ、確か名前は……

「エクシス……?」

 つぶやいたカゼスに、彼、エクシスは、熱心にうなずいた。

「覚えていて下さいましたか! そうです、私は……、あ、総督! 総督、あなたは王国に忠誠を誓っていましょうな!? この男を捕らえて下さい、危険です、こ奴は平和をかき乱す不穏分子です! デニス独立などと崇高ぶった目的を掲げて、実際はただ平和を乱し王国の富を奪おうとしおる盗人です!」

「それは聞き捨てならん告発だな」

 いつの間にやってきたのか、カゼスの後ろからエンリルがゆっくり進み出る。床に座り込んだままのナーシルが憎々しげに見上げたが、エンリルは取り合わなかった。

「それにしても、あまりに興奮しすぎではないか? 少し頭を冷やした方が良さそうに見えるぞ」

 その声音が、充分に冷水の役目を果たしてくれた。エクシスの目から熱狂が引いていき、代わって不安と恐れがじわじわと滲み出てくる。空気を求めるように数回、口をぱくぱくさせて、ようやっと彼は喘いだ。

「まさか」

「ものを言うなら、誰に向かって話すのかをよく考えることだ」

 聖紫色の双眸でじっと見据えられ、エクシスは魂を抜かれたようにへなへなとくずおれる。ヴァフラムとリュンデが慌ててそれを支えた。

「どこかで少し休ませてやったらどうだ?」

 エンリルがまるで学府の主のように言った時には、その瞳はもとの青褐色に戻っていた。ヴァフラムとリュンデは顔を見合わせ、小さくうなずくと、エクシスを両脇から抱えるようにして歩いて行った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ