一章 (2) 出立
「本当にこれ全部、処分するのか?」
床を埋め尽くす段ボールや紙袋、ゴミ袋の間を歩き、オーツは呆れ声を出した。カゼスはそれらの間にしゃがみこんで、まだせっせとゴミ袋に餌をやっている。
レントへ行けると決まったわけではないのだが、リトルの推測によれば十中八九は確実だというので、前回のように友人の手を煩わすことがないよう、時季外れの大掃除に踏み切ったのだ。それを結局オーツに手伝わせている辺り、何か妙だという気がしないでもない。が、当人たちはその矛盾をあっさり無視していた。
「うん、まぁ、こういう機会でもないと、なかなかものを捨てられないからさ。思い切ってついでにいろいろとね」
「それにしたって……そんなに長く留守にするのか? 一年ぐらいなら、ここまでごっそり捨てなくてもいいだろ。後で買い直すの、大変だぞ」
掃除機を空いた場所に下ろし、オーツは首を振った。いつもの口調に、ほんのわずか不安の色が滲む。カゼスはちらっと肩越しに彼を見やり、軽くぽんと答えた。
「戻らないかもしれないから」
背後でオーツが身をこわばらせるのが分かった。カゼスは、悪いなと思いながらも前言撤回はせず、ゴミの分別を続ける。
ややあってオーツがため息をついた。
「おまえなぁ……そういうことを簡単に言うなよ。戦地に行くみたいじゃないか。今度は自分で行くんだし、『保護者同伴』なんだろ? 確率としては帰って来られる方が高いんだから、そのつもりにしとけよ。でないと、俺が勝手にこの家の物、貰っちまうぞ」
呆れ憤慨した声を装っているが、その目に浮かぶのは悲しげな懸念ばかりだ。カゼスは友人を振り返り、苦笑した。
「戻れない、って確率は低いかもしれない。でも、戻らない、って選択を合わせると、可能性としては高くなるからね」
よっ、と声をもらして立ち上がり、ひと月かけて少しずつ片付けてきた成果を眺め渡す。衣類、書籍、雑誌や手紙、メモやスクラップのファイルなどで埋め尽くされていた部屋は、すっきりと片付けられ、家具だけ入った引っ越し直後のようになっている。
オーツが顔をしかめてこちらを睨んでいるのに気付き、カゼスはおどけて肩を竦めた。
「何があるかわからない。それは前回で学習したよ」
手を伸ばしてテープを取り、段ボールのひとつを封して、側面に内容物の分類を書く。この箱は魔術関係書籍だ。マジックのキャップを閉め、カゼスは立ち上がった。
「向こうで死んだら、当然、戻れない。生きていても魔術力場の関係で、戻りの界渡りができないかも知れない。それ以外にも、私自身の選択として、向こうに残ることを決めるような事態があるかも知れない。まぁ何にしろ、そんなに気にしなくていいよ」
「気にしなくていいわけないだろう!」
この馬鹿、とオーツが大きな手でカゼスの頭をはたいた。カゼスは大袈裟によろけて見せ、はずみで本当にゴミ袋につまずいてこけかける。自分で可笑しくなってしまい、カゼスは声を立てて笑った。
「ごめん、君を笑ったわけじゃない」オーツに言い訳してから、言葉を続ける。「本当に気にしなくていいんだ。どの結果になるにしろ、私は自分で決めて行くわけだし、生きてる限りはなんとかやっていくさ。君らに会えなくなったら、そりゃ確かに寂しいけどね。でも、それは悲しいことじゃない」
そこまで言い、カゼスは箪笥の奥からひっぱり出してきたデニスの服に目を向けた。
「……会えなくても、友達ってことに変わりはないだろ?」
意識的に軽い口調で言い、彼はちょっと肩を竦めた。二度と会えない友人ばかりが多いカゼスにとって、連絡がつかないこと即ち友情の消失、という等式が成り立つという考えは、あまりに空しい。
そんなカゼスの事情を知っているオーツは、難しい顔で黙り込んでいたが、ややあって、ぼそりと唸った。
「そうだけど、俺は嫌だぞ」
「うん、分かってる。私もなるべくなら帰って来ようとは思ってるよ」
誠意をこめて応じ、それからカゼスは不意におどけた。
「でもさ、確かにいい機会だろ? 大掃除なんて、この家に越してきてから一度もしたことがないんだからさ」
しんみりしかけた空気を払おうとしたのだが、どうやら狙いよりも効果がありすぎたらしい。オーツはぎょっとなり、顔を歪めていまさらながら辺りを見回した。
「ちょっと待て! 越してからって、それ、十年以上ってことじゃ……!」
「え、あ、うん。まぁ、そうなるね」
「な……ッ! そんな家の大掃除を手伝わせといて、よくも……うわ、なんか急にあちこち痒くなってきたじゃないか!」
「まさか、気のせいだろ。君に来てもらうより先に、そこそこ片付けて掃除機もかけてたし。あ、でも箪笥動かしたのは後だったか」
「言うな! ますます痒く……、ああもう、この馬鹿!」
オーツは悲鳴を上げ、腕やら背中やら、そこらじゅう掻きまくる。カゼスは憮然として見せたものの、じきに堪え切れなくなって笑いだした。オーツはじたばた暴れ、罵りの言葉をいくつか吐き散らしてから、ようやく掻くのをやめた。
「まったく、どうしようもないな、おまえは」
「ごめん、ごめん」
涙が出るほど笑った後では、謝罪の言葉もあまり誠意が感じられない。オーツはじろりと胡散臭げなまなざしをくれてから、やれやれとため息をついた。
「……で、いつ行くんだ?」
「分からない」カゼスは肩を竦めた。「『保護者』の都合次第だしね。それにまぁ、分かったとしても、悪いけど知らせないよ。お別れ会は性に合わない」
「だろうな。わかった、コーリンたちには折を見て俺から話しておくよ」
「いつも悪いね」
さりげなく、それでも珍しく真摯に、カゼスは感謝した。
どちらかと言えばオーツは、カゼスとは住む世界が違う性質の人間だ。常識的で、慣習や世間体の大切さ重要さを理解しており、物事を斜に構えて見たりはしない。カゼスなどは、そうでなくとも胡散臭い魔術師だというのに、彼とは性格がまるで違っている。
そんな人間を友人として認めてくれて、気まぐれで常識外れな行動にも、怒ったり愛想尽かしをしたりもせず、付き合ってくれている。そのことに対する、感謝。
改まって言われると照れ臭いのか、オーツは曖昧な表情で、ちょっと頭を掻いた。
「別に、このぐらい、いいさ」
結局彼は、いつものように何でもない口調で言い、ひらひらと手を振る。カゼスは思わず笑みをこぼした。
「今度何かおごるよ」
「ああ、期待してる」
それだけ言うと、二人はまた黙々と作業に戻った。
と、そこへ、間違って捨てられないよう外へ避難していたリトルが、ふわりと窓から戻って来た。
「お客さんですよ、カゼス」
「え? 誰だろう……あ、そうか」
こんな辺鄙な所まで訪ねて来る物好きは、オーツを除けば一人しかいない。ドアを開けると、案の定、猫柳色の髪と丸眼鏡の男が立っていた。
「やあ、大掃除は終わったかい」
にこにこと上機嫌でそんな挨拶をすると、エイルはひょいと首を伸ばして家の中を覗き込んだ。カゼスは曖昧な顔で答える。
「ええ、まあ、大部分片付きました。ええと……上がりますか? お茶ぐらいは出せますけど」
「それはありがたいね」
というわけで、カゼスはエイルを連れて居間に戻り、キッチンに立った。
「うーん、これは壮観」室内を眺め回して言い、エイルはオーツに目を留めた。「ああ、君がオーツ君ですね。直にお会いするのは初めてですね、どうも、こんにちは」
彼は愛想良く言って手を差し出したが、握手を返したオーツの方は、いささか棘の感じられる態度だった。
「初めまして」
素っ気なく、よそよそしい一言。友人の『管理者』ともなれば、良い気がしないのもやむなしである。エイルもそれは弁えており、あえて歩み寄ろうとはしなかった。キッチンを振り返り、カゼスに向かって声をかける。
「この分だと、じきに出発できるかな」
「はい。あ、もしかして、もう『保護者』の人選が決まったんですか」
カゼスはトレイにティーセットを載せて居間に戻ると、緊張した面持ちでエイルを見た。自分から「行かせてくれ」と言い出しはしたものの、いざ行くとなると、やはり勇気と決断力が要る。エイルの方はそんな気負いなどまるで感じられない風情で、軽くうなずいて書類の束をぽんと置いた。
「監視役が一人と、あとは細かい行動規則が作られたよ。暗記する必要はないが、一応目を通しておいてくれないかな。実際は現地で臨機応変にやるしかないだろうけどね」
規則、と言われてカゼスは顔を歪めた。修学旅行でもあるまいに、夜間外出禁止だの小遣いは幾らまでだのと決められては、かなわない。
カゼスはエイルとオーツに茶を出してから、渋々書類を手に取った。そして、冒頭に書かれた一文に、目を丸くする。
「次の両名に第四惑星への時間遡行調査を許可する。治安局魔術師長カゼス=ナーラ、及びラエル大学レント考古学研究室助教授エイル=シーン……って、ええっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、口をぽかんと開けて眼前の『管理者』を見る。相手はおどけた風情で、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「一応、私にも本職というものがあってね」
悪びれずにそんなことを言う。カゼスは相手をまじまじと見つめ、それから深いため息をついた。道理で、レント行きに反対しなかったわけだ。
カゼスはがくりとうなだれ、オーツが胡散臭げな目付きでエイルを睨んだ。が、当人はまるで頓着せず、ほらほら、と横から手を出して書類をめくった。
エイルが示す先を、カゼスは半ば投げやりな気持ちで読み進め、意外に禁止事項が少ないことに驚いた。これなら、大陸から出る旅行をする程度と大差ない。生物や土の付着したものを持ち帰らないこと、帰還の際は必ず指定の検疫機関にてチェックを受けること、現地の歴史遺産を故意に毀損ないし隠匿しないこと、等々。
カゼスは思わず拍子抜けした声をもらした。
「……なんだか、予想したより随分おおらかですね」
「そりゃあ、君」エイルが笑い出す。「偉大なるラウシール様のご帰還だろう。歴史に関るなとか、現地有力者に接触するなとか、言うだけ無駄に決まってるじゃないか」
「う……。確かに、そうかも知れませんけど」
なんだか、それはそれで嬉しくない。カゼスは渋面になった。
「そうなりたくないから、自分から行くことに決めたのになぁ……」
ぶつぶつぼやいたカゼスに、エイルはまだ笑いたいのをごまかすように咳払いした。
「そうそう、それで大事なことを訊き忘れていたんだが、行き先はデニスだとしても時代はいつ頃だい? 衣服や持ち物の用意があるからね。それともまさか、どこだか分からない、とは言わないだろうね」
「ああ、それは多分」カゼスはふと遠い目をした。「デニスには違いないと思います。時々人の後ろ姿が見えるんですけど……とても、エンリル様に似ているので。室内の装飾なんかも見覚えがありますし。ただ、時代はもう少し下ると思いますよ。蒸気機関とかはないみたいですけど」
「ほう、そうかい」
ふむふむとうなずいたエイルは、なにやら妙に嬉しそうだ。カゼスが不審げに片眉を上げると、彼はごまかすようにぽんと手を打った。
「いや、既に前回のデータを基にした携行品リストを作っていたんだがね、無駄にならずにすみそうで良かった。それじゃあ、君の用意が出来たら連絡してくれるかな。私の方も、ほとんど準備は出来ているんだけどね。あと少し、片付けが残っているから」
気楽な調子で言って、エイルは席を立つ。その時になってやっとカゼスは、今回のデニス行きが、相手にとっても自分と同じ危険があるのだと思い出した。いや、エイルは魔術師ではないのだから、むしろカゼスよりも危険度は高い。カゼスの身に何かあれば、彼もまた、帰りの切符を使うことはなくなるのだ。
表情を改めたカゼスに、エイルは奇しくも、最前カゼスが口にした台詞を、そのまま聞かせてくれた。
「君が気にすることはないよ。私が自分で決めたことだからね」
カゼスは苦笑し、うなずくしかなかった。
カゼスが持ち帰った以前のデニスの服を参考に、エイルの衣服も作られた。もちろん、今度の行き先は同じ時代ではないから、骨董ものの衣服に見られることは免れないが、スーツやジーンズで行くよりはましだ。
加えて、全身をすっかり隠してしまえるほどの、シンプルなフード付きマントが用意された。現地に到着次第まやかしをかければ済む話だが、用心のためである。
二人が数週間は生き延びられる、携行食糧も用意された。およそ食欲をそそるとは言い難い、正体不明の固形状に加工されている。レトルトパウチはもちろん、瓶詰や缶詰の技術があるかどうかも怪しいからだ。それに、現地貨幣と交換するための砂金や銀、岩塩。
準備だけですっかり大事になっており、いったいどれほどの経費がかかっているのか、考えると眩暈がする。カゼスは自分がとてつもなく傍迷惑なことを言い出したように思われ、縮こまってしまった。
「最悪にして二人とも帰還せず、この大仰な計画が無駄になったとしても、君たちが何をやらかしたかは、歴史が証明してくれるわけだ」
管理委員の一人は、あからさまに厭味を言った。もっとも、『時の調整力』が働けば、カゼスたちが何をやらかそうとも、現在に影響は出ないはずなのだが。
予想外の期待や敵意に囲まれて数週間。ようやくカゼスは、出発の時を迎えた。
治安局本部の奥深く、ほとんどの人間が帰宅した深夜に、一握りの関係者だけが秘密裡に集まった。まるで怪しげな宗教の儀式みたいだ、などとカゼスは考え、込み上げる笑いを押し殺した。
「いまさら言うべきこともないだろう」
おもむろに口を開いたのは、魔術師部門の副師長だった。
「だが、ひとつだけ。帰って来たまえ。二人とも、生きて、無事に」
転移陣の中に立ったカゼスは、おや、と眉を上げた。
「私がいない方が、治安局の仕事はスムーズにいくんじゃありませんか」
おどけて言ったカゼスに、副師長はしかつめらしく応じた。
「君がいてもいなくても、業務にはほとんど影響がない。ただ、魔術師としての能力で君に優る者はいないだろう。災厄に見舞われた時、内線一本で呼び出せる救世主がいると、大いに心強いのでね」
「あなたの冗談は初めて聞きましたよ」
思わずカゼスは笑い声を立てた。思えば師長就任以来の五年間、この気難しそうな副師長とは、ほとんど私的な会話をしなかった。
「帰って来たら、また何か聞かせて下さい」
では、と言い残し、カゼスは呪文も使わずに『狭間』への道を開いた。魔術師だけに見える『力』の色彩が陣の中にほとばしり、渦を巻く。惑星上に通常存在する力よりも、桁違いに大きく荒々しい力。
周囲の魔術師たちは、その眩しさに手をかざし、畏怖に打たれておののいた。だが、その奔流を呼び込んだ当人は、むしろ心地良さげでさえある。
光の渦は二人をその中に取り込み、天を目指す竜巻となって――消えた。
静まり返った室内で、残された者は、誰ひとりすぐには動こうとしなかった。
ややあって誰かが遠慮がちな咳をし、のろのろと人々は後片付けを始める。数人の魔術師とともに陣を消していた副師長は、ふと、カゼスが消えた虚空を見やってつぶやいた。
「私は冗談など言わんよ、師長殿」
時空の狭間は、目まぐるしく潮流の変わる灘のようだ。
行き先を呪文で決定してから道を開けば、目的地まで運んでくれる流れが生じるのだが、今はそれがない。普通なら、次々に襲いかかる波に飲まれて海の藻屑と消えるか、どことも知れない浜辺に打ち上げられて帰還不能になるところだ。
だがカゼスは、その灘を着実に、安全に進んでいた。わずかな波の変化も、いきなり現れる渦も、一切を感知し、把握している。呪文や理論ではとても追いつけない、複数の意識層での同時情報処理によって。
魔術師でないエイルはもう早々と失神していた。カゼスはその腕をしっかり掴んだまま、自在に精神の舵を取る。
やがてカゼスは、自分を引き寄せる流れを見付けた。あの『呼び声』だ。ゆっくりとそれに従いながらも、用心深く、引き込まれるのを避けて目的地をずらす。
(間違いない、デニスだ)
強まる『呼び声』の源を見付け、カゼスは確信した。うっかり流れに身を任せてしまえば、またとんでもない所に落とされてしまうだろう。
ほかにもう少しましな地点を探すため、カゼスは意識の楔をその場に打ち込んだ。
と、その時だった。
不意にまったく別の『場』が迫るのを察知し、カゼスはハッとなった。咄嗟に壁を巡らせ、防御をかためる。だが、現れたものを見た瞬間、それは脆くも崩れ去った。
乾いた荒野、灰緑の小さな茂み。見覚えのある風景、懐かしい空気。そして、そこに立つ白髪の老魔術師――
(ファルカム!)
カゼスが驚愕すると同時に、彼はにこりとして、手を挙げた。
しまった、と感じる間もなく、カゼスをつなぎ止めていた意識の楔が砕け散る。ファルカムの存在が一瞬で遠ざかり、カゼスはエイルもろとも、青く輝く奔流に飲み込まれた。
(どうして――そんな――まさか)
溺れかけながら、切れ切れの意識が浮かぶ。
( だ め だ ! )
最後に残った意志の力で、カゼスはほんのわずか、流れを蹴って抗った。
だがそれすらも計算の内であったかのように、流れはそれ以上カゼスを引き込もうとはせず、唐突に消え……