十四章 (2) 探り合い
その日の夕食後、カゼスの部屋をノックする者がいた。
誰かと問うより早く、リトルが精神波で〈ケイウスさんです〉と教えてくれたので、カゼスは「はい」と応じながらドアを開けた。廊下に立っていたケイウスはやや驚いた顔をし、苦笑をこぼす。
「危険のない館とはいえ、いささか無用心ですね」
その笑い方にまたカゼスはたじろぎ、ごまかすように首を振った。
「あなただってことは先に分かってましたから。どうぞ」
心持ち疑問符をつけて扉を大きく開く。立ち話で済む類の用事か、それとも何か話があるのか。どうやら後者だったらしく、ケイウスは小さくうなずいて入ってきた。
「何かあったんですか?」
カゼスが問うと、ケイウスは表情を見せずに言った。
「ナーシルがいないようなんですよ。それで、雇い主のあなたなら行方をご存じかと」
「え? いないって……こんな時間に?」
カゼスは眉を寄せた。まさか、と疑念が胸をよぎる。しかしそれを口に出すことは出来ない。返答に窮したカゼスに、リトルが小卓の上から示唆してくれた。
〈終夜営業の居酒屋があるはずですよ。王都ですから〉
〈ありがとう。まさに、最近おまえは神様の仲間入りを果たしたみたいだね〉
おどけた礼を言いつつ、口の方はケイウスに答えた。
「ああ、居酒屋にでも行ってるのかもしれませんね。昼間、せっかく王都に来たのに図書館にこもりっきりじゃカビが生える、遊びに行こう、とかなんとか言ってましたから」
軽い調子で笑ったカゼスに、ケイウスも口の端を上げた。が、その笑みは目まで届いていなかった。
「彼にそんな自由を許しているんですか?」
その言葉は、カゼスの感情を一気に拭い去ってしまった。一瞬思考が真っ白になり、次いで目の前の青年を今初めて見たという気分になる。
これは誰だ?
初対面でいきなり心の懐に入れてしまったために、きちんと見ていなかった。彼が今までに出会った誰とも同じ人間ではないことは、まったく当然であるというのに。
いきなり二人の間に鋼鉄の幕が下りたようだった。そんなカゼスの心境の変化は、ケイウスにも感じ取れたのだろう。彼は目に見えてたじろぎ、反射的に謝罪する。
「すみません」
その一言で、カゼスの表情のこわばりが解ける。ケイウスもホッと息をつき、急いで弁解した。
「彼はただの使用人だと思っていましたから」
「使用人でも、仕事がない時に遊ぶ自由ぐらいありますよ」
カゼスは強く言い返し、それからふと、ケイウスの忠実な従者ナブを思い出して眉をひそめた。自分に対してため息をつき、首を振る。
「……こちらこそ、すみません。ついむきになってしまって。レントでは使用人と主人の身分差は厳格なんですよね? あまりあちこち見たわけじゃありませんけど……使用人が夜遊びするなんて非常識なんでしょうね。もっとも、ナーシルは私の使用人ではないんですけど」
「使用人ではない?」
「ええ。そりゃまあ、お金を払って荷物を持って貰ってますけど。でも、立場は対等ですよ。私が彼を養ってやってるとか、保護してやってるとか、そういう……主人と奴隷みたいなものじゃありません」
「なるほど」
ケイウスは小首を傾げ、しげしげとカゼスを眺めた。
「では、ナーシルはあなたに雇われてはいるが、それ以外はまったく自由で、彼が何をしていようと、あなたが全て把握して禁じたりする関係ではない……というわけですか」
「ええ、まあ」
カゼスは曖昧に答え、ちょっと頬を掻いた。まさかケイウスがナーシルの信条について知る筈がない、と思っていたのだが、その確信に不安の影が差す。
「友達甲斐ぐらいはありますけどね。つまりその、不案内な街で遅くまで飲んだくれてたら危ないぞ、って忠告するぐらいは。捜し出して連れ戻す責任まではありませんけど」
冗談めかしたカゼスに、やっとケイウスも笑みを見せた。
「わかりました。では、彼のことは放っておきましょう。あなたまで夜遊びに連れ出すようだと、そうも行きませんが、一人で行く分には構わないでおくことにします」
財布を掏られても自業自得ですからね、と付け足して肩を竦める。カゼスは苦笑するしかなかった。これ以上、ナーシルの話題に深入りして欲しくない。
カゼスがそわそわしているのに気付いてか、ケイウスは「ああ、そうだ」と思い出した風情で話を変えた。
「もうひとつ話が。構いませんか? 昼間、図書館でおっしゃっていたことですが」
「あ、はい」もちろん、とカゼスは促した。「何を調べているのか、って事ですね」
「ええ。昔、母が読み聞かせてくれた物語にも、そんなような内容がありました。うろ覚えなんですが……ヴァートという名前の神が出てくる、古い民話です。貧しい地方の農村に、ヴァートは青い光をまとって現れ、農民たちに知識を与えるんですよ」
「青い光……」
「髪の色については書かれていなかったと思いますが、作物の正しい扱い方や灌漑の方法を教えたり、怪我や病気に効く薬草を教えたり……この辺りは、あなたのした事とも似ていますね」
ケイウスが微笑む。カゼスは目をしばたたき、もじもじした。
「神様ごっこをするつもりじゃ、ありませんでしたけど。民族のはじまりに神様や精霊が現れて、主作物を与えてくれたとかっていう話は、珍しくはありませんよ。たぶん」
自信なさげに口ごもりながら言ったカゼスに、ケイウスもうなずいた。
「ええ。でもヴァートが与えたのは作物そのものではなくて、その栽培方法です。そこが違う。それに、この神が変わっている点は他にもあって」
そこまで言い、彼は少しためらうように視線を落とした。その頬にかすかな赤みがさす。カゼスが首を傾げていると、ケイウスは目をそらしたまま再び口を開いた。
「最初、ヴァートは村長の息子の妻になり、同じく『青い光に包まれた』子を産むんですが……別の娘が、自分もヴァートの……その、子種が欲しいと言い出して」
「……??」
カゼスは首を傾げた。子を産んだということは、ヴァートは女神ではないのか?
訝るカゼスに、ケイウスはもうはっきりと赤面して、続けた。
「ヴァートはその娘の願いを叶えるんです。両性なんですよ、ヴァートは」
「――!」
思わずカゼスは口をあんぐり開けた。ケイウスはちらりとその顔を見て微かに苦笑すると、詫びる口調になった。
「本当を言うと、俺がこの話を思い出したのは、こっちの特徴があなたと結びついたからなんです」
「えぇ!?」
しゃっくりじみた半端な奇声を上げ、カゼスは見る見る真っ赤になる。頭はすっかり混乱し、まともな返事はとても出来なかった。
(ええっとなんでだ性別のことがばれたのはアーロンだけでまさか誰か話したとかそれとも自分で気がついたのかなだったらなんでだどうしようまずいそんなに見た目におかしいんだったらなんとかしなきゃなんとかってでも)
ぐるぐる思考が回って脳味噌から溢れ出し、出来た隙間にケイウスの声が届いた。
「本当にすみません、失礼なのは承知しているんですが」
「……はい?」
カゼスは頭のぐるぐるを一時停止させ、ケイウスを見つめた。まともにその視線を受け、ケイウスはたじろぎ、頭を下げるふりで目をそらした。
「実は初対面からずっと、その……判断がつけられなくて」
ほとんど消え入りそうなその声と態度に、カゼスはしばしぽかんとし、それから弾けるように笑い出した。
確かにカゼスは中性的な顔と声だし、長衣姿では体型も不明瞭。おまけに、ラウシールだと判っても、学者の間でも女説と男説とがあるぐらいなのだから、結局どちらか分からない。うまくいけばサクスムで明らかに出来たかもしれないが、かわされた。
これだけ長らく寝食を共にしながら、相手が男か女か分からないままだったのだ。礼儀正しいケイウスの態度からはその困惑は読み取れなかったが、裏を返せば、礼儀正しくするしかなかった、のだろう。
そうと分かるとカゼスはケイウスが気の毒やら可笑しいやらで、涙が出るまで笑いこけてしまった。
さんざん笑い倒されても、当のケイウスは我慢強くじっと耐えている。カゼスはようやっと呼吸を整えると、目尻の涙を指で拭った。
「あっは、はは、ああ、すみません、そんなこと、気にされてたなんて、全然気付かなくて……礼儀正しいのも、度を越すと考え物ですね。訊いてくれたら良かったのに」
そういえばアーロンも――ティリスのアーロンも、初対面でいかにも気まずそうに訊いてきたのだったと思い出し、カゼスは苦笑した。
「そんな失礼な真似は出来ませんよ」
ケイウスはまだ少し赤い顔で、むくれたように応じる。流石に気分を害したらしい。カゼスはもう一度、すみません、と謝った。顔を上げると、ケイウスと目が合う。それで、と声には出さない問いが投げかけられた。
どう答えようかと考え、カゼスはちょっと頭を掻いて時間を稼いだ。
「最初に訊かれてたら、男だって言ってるところなんですけどね。その方が、何かと行動に便利ですから」
独り言のように答えるカゼス。ケイウスは不安げに身じろぎした。と、不意にカゼスは悪戯っぽい閃きを得てニヤリとした。
「どっちがいいですか?」
「……はい?」
「あなたは、私がどっちの方が助かりますか。男か女か」
確か五年前は、どっちだと思いますか、と問い返したのだった。今度はその変化形だ。カゼスは意地悪くにやにやする。ケイウスは困惑顔でしばらく考え、それからふと気付いて、ため息をついた。
「そういう質問をされるということは、あなたもヴァートと同じなんですね」
「私は何も言ってませんよ」
とぼけるカゼスを、ケイウスはしかめ面を作って軽く睨んだ。
「あなたが男だと俺も遠慮しなくて済む。それは確かです。だがそうではないのは、なんとなく分かるんです。だから困っているのに、あなたは助けてくれない」
「ほかの人には言わないと約束してくれるのなら、教えますよ。たとえ王様に訊かれても……まあそんなことはないと思いますけど、それでも言わないと誓えるのなら」
「レント人の誓いを必要とするほど大事な秘密ですか?」
ケイウスは渋面になった。カゼスは「私にとってはね」とうなずく。ケイウスが自分が負傷した戦のことに触れた時、彼の敵について「すぐに誓いを破る」と口にしたのを、カゼスは覚えていた。少なくともレント人は誓約や信義を重んじるらしい、と推測したのだが、今のケイウスの反応はそれを裏付けていた。
ケイウスがためらったのは短い間だった。彼はうなずき、短く「誓う」と片手を挙げて厳かに告げた。カゼスは満足して微笑み、口を開いた。
「それじゃ私も、本当のことを言わなきゃなりませんね。どっちでもないんです。ヴァートって神様が最初から両性具有だったのなら、私の同族だって可能性は低くなりますけど、途中で変わるってことなら、ひょっとしたら仲間かもしれない」
「…………」
ケイウスはぽかんとなった。カゼスは肩を竦めて続ける。
「私の同族は、どうやら魔術の才能に恵まれているらしくて、時や空間を越える力も強いんです。だから、この世界の色んな土地のかけ離れた時代に、ばらばらに存在していても不思議ではないんです。あまりこういうことは……おおっぴらには出来ないでしょう? 自分達の昔話の神様が、もしかしたら遠い世界のおせっかいな一族の一人で、その連中はよその国でも神様をしていたかもしれない、なんて」
だから誓いを立ててもらったんですよ、と締めくくる。実のところ、この口実はついさっき思いついたのだが、後付でも正論は正論だ。
カゼスの話を聞くにつれてケイウスは真顔になり、最後には彼もうなずいていた。
「我々は神々の中にそのような存在がまじっていたとて気にしないが、すべての民がそうではない。確かに。……だが」
そこで彼はまた顔をしかめた。
「結局あなたがどちらでもないとなれば、俺はどうすればいいのか分かりません」
その声は至って真剣だ。カゼスは失笑し、睨まれてなんとか表情を取り繕った。
「別にどうでもいいじゃありませんか。普通にして下さいよ。普通に……友達にするように」
カゼスは遠慮がちに最後の一言を付け足し、「ちょっと図々しいですかね」と苦笑する。いつから友達になったと言えるものでもないし、しかもケイウスの『友達』には国王もいるのだ。それと肩を並べようとは、流石にちと厚かましいと思わないでもない。
だがケイウスは鷹揚に笑った。
「難しそうですが、努力してみましょう」
「そうそう」つられてカゼスも微笑んだ。「このことはエイルさんとアーロンも知ってるんです。あの二人を見てたら、私がこんなだからって、特別な配慮とかは無用だって分かるでしょう?」
オーツにはしょっちゅうどつかれてるしな、と心中で付け足す。それが聞こえたわけではなかろうが、ケイウスはおどけて眉を上げた。
「遠慮は無用ですか? しかしそれにしても、随分話し込んでしまいました。そろそろ失礼しなくては」
さりげなく辞去の意を述べ、軽く頭を下げる。いえいえ、とカゼスもつられてお辞儀し、無用心に顔を上げたところで、不意打ちを受けた。
ほんの一瞬、触れるか触れないかの――。
カゼスが何をされたのか理解できずに立ち尽くしている間に、ケイウスは口付けした頬を軽くひと撫でして、「おやすみ」の一言と悪戯っぽい笑みだけを残し、さっさと出て行ってしまった。
呆然自失して立ち尽くすカゼスの後ろで、リトルがぐらりと傾き、ごろごろ転がって床に落ちた。




