十四章 (1) 大図書館
カゼスが馴染んでいる図書館はシティの中心にあるものだけで、その蔵書数を正確には知らないが、開架に並んでいるのは恐らく数万冊。今いるこの国・時代には印刷技術があるわけではないのだから、一国の首都の『大図書館』などと言ってもせいぜいあのぐらいだろうと、甘く見ていた。が。
「……すみませんでした」
思わず誰にともなく謝ってしまうほど、図書館は広大無辺であった。蔵書数そのものも予想とは桁違いなのだが、書物の厚さや大きさも一因だ。薄くて丈夫な紙にコンパクトな製本技術があるわけではない。同じ冊数でも占める体積が違う。
「この中から探すのかぁ……気が遠くなるなぁ」
カゼスがため息をつくと、横からアーロンがメモ用の筆記具をはいと渡してくれた。
「大丈夫ですよ、ちゃんと分類整理されているんですから、目当ての分野だけ探せばいいんです。端から全部制覇するわけじゃないんですから」
笑いながら言って、彼は一通り館内案内図を眺めただけで、迷う気配もなくすいすいと歩いて行く。カゼスたちは足音を立てないよう遠慮しながら、後に従った。
じきに民俗文化や信仰・伝承などを集めた書架を見つけ、一行は近くの机に鞄や筆記具を広げて陣取った。カゼスがまだ呆然としている間に、アーロンはもう早速めぼしい書物を何冊も抜き取っている。流石は調べ物のプロ、といったところか。エイルも同様で、早くも机で書物をめくりだした。リトルは館内を端から回って、それらしい表題のものがよその書架に紛れていないかをチェックしてくれている。
カゼスもいつまでもぼけっとしているわけにはいかないので、なんとも頼りない風情ながら適当な本を選び、頁をめくりだした。横でナーシルも渋々、読みつけない書物と睨めっこしている。
館内は静かで、しかし独特の物音が絶え間なく流れていた。羊皮紙や紙、あるいはもっと別のものに書かれた過去を探してさまよう指が立てるかさついた音。押し殺した呼吸や歩みの音。それ以外に何か――名状し難いなにものかの気配も。
アーロンとエイルは時折素早く手を動かし、何かを書き留めている。時々ちらちらと様子を見ると、どうやら彼らはまず総論や概説的なものをインデックスとして利用し、それらしい記述があれば参考文献をたどる、というやり方をしているらしかった。なるほどとカゼスは感心したものの、自分の作業は遅々としてはかどらない。
ともすれば他所に行きがちな注意を眼前の書物に集中させ、ひたすら頁をめくること小一時間。
「休憩にしませんかぁ」
あっさり音を上げたカゼスに、エイルとアーロンがそれぞれ苦笑をくれた。少しばかり呆れた気配をまじえて。
「僕はまだいいですよ。中庭に休憩所がありますから、そこでちょっと息抜きをしてきたらどうですか」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
ガセスはいささか情けなくなったものの、無理せず席を立った。うつむいて書物と格闘していたせいで、既に首や肩がこわばって、頭痛の前兆があらわれているのだ。
ナーシルもいそいそと本を閉じて、雇い主のお供をすることに決めた。
図書館の建物はコの字型をしており、広い中庭はちょっとした自然公園になっていた。背の高い木も多く、視界は緑に遮られ、少し向こうで小さなグループが激しく議論していても、木立のこちら側では一人がけの椅子でゆったり茶を飲む姿がある、といった具合だ。建物に近い一角は飲食が出来るようになっていて、カゼスとナーシルも紅茶を買って適当な席についた。
「なぁ若旦那、せっかく王都に出てきたんだから、ちょっとは観光もして遊ばないと損だよ。こんなところに日がな一日籠ってたんじゃ、頭にカビが生えちまう」
「同感ですが、そんな暇がありますかねぇ」
カゼスは苦笑し、カップに口をつける。遊びに来たわけではないが、用事だけ片付けて脇目もふらずに帰るというのではあまりに味気ない。しかし状況を見るに、あまり時間的猶予があるとも思われない。どうしたものか。
そこへ誰かの足音が近付いて来た、と思った途端にナーシルがしかめっ面になった。どうやらケイウスらしい。カゼスが振り向くと、予想通りだった。ただし、誰やら女性の連れがいる。
カゼスがはてなと訝っていると、ケイウスはそばまで来てから声を抑えて話しかけた。
「こちらにおいででしたか。どうですか、成果は」
「まだ始めたばっかりですよ。全然です」
カゼスは苦笑し、ケイウスと客人が座りやすいように椅子を少し動かした。
「でもアーロンやエイルさんは流石に調べ物に慣れているみたいで、あの調子なら今日中にも何かひとつふたつ成果を上げてくれるかもしれませんね」
「そうですか」
ケイウスはにこりとし、席につく前に連れを紹介した。
「そうそう、こちらは友人の奥方で、キリリシャ様です」
ぎょっとなって腰を浮かせたのはナーシルだけだった。カゼスは無邪気に、へえ、というような顔をしてキリリシャを見上げただけ。
「お友達の奥さん……てことはつまり、王妃様ですか。初めまして」
どうぞ、と椅子を手振りで勧めたりなどする。キリリシャは面白そうに目を細めた。
「初めまして。カゼス様、とお呼びしたら良いのかしら」
「呼び捨てにして下さいよ。いくらなんでも王妃様に様付けされちゃ、いたたまれません。こちらにおいでになることは、国王陛下はご存じなんですか」
けろっとした顔で訊いたカゼスの隣に、キリリシャはくすくす笑いながら腰かける。それを見届けてから、ケイウスも空いた椅子に座った。
キリリシャは微笑みを浮かべたまま、興味深げに改めてカゼスを眺めた。
「陛下はご存じありませんけれど、会いに行くことはお認めになられるでしょう。ですからご安心下さいな」
「そうですか。それじゃ」とカゼスはケイウスを見た。「王様は私が無害な存在だってこと、分かって下さったんですね? あなたが説得してくれたんですか?」
「まあ、そのようなところです」
ケイウスはおどけて応じ、それから苦笑をこぼした。
「あなたには参りますね。私が国王陛下にあなたのことを報告したと予想しているのなら、もう少し警戒されても良さそうなものですが」
「うーん……実を言うと、その予想をしたのはエイルさんで、私じゃないんです。それにどうも私は危機感が持てなくて……以前、下手に王族と親しくなってしまったからですかね」
ぽり、と頭を掻いてカゼスはキリリシャに詫びるまなざしを向けた。
「すみません、軽んじているつもりはないんですけど。なんだかその、階級意識そのものが薄いもので」
「構いませんよ。わたくしも率直な方と話すほうが好きです」
キリリシャは寛大に言ってうなずいた。ナーシルはひとりだけ居心地悪そうに、椅子の中でもぞもぞしている。いっそ館内に戻って書物を相手にしていたいが、さりとて、すっかりネジの緩んでいるカゼスを王国の権力者二人の間に残して行くなど論外。退くに退けず、進むに進めずで往生してしまい、ケイウスにさりげなく観察されていることにも気付かなかった。
そんな男二人には構わず、キリリシャは話を続けていた。
「ですからそのような答えを聞かせて頂きたいのですけれど、カゼス、あなたはここで何を調べていらっしゃるのかしら?」
「……ああ、ええと」
流石にカゼスは言葉を濁した。ケイウスが助け舟を出す。
「答えにくいことでしたら、無理には……」
「ありがとうございます。別に後ろめたい事ではないんですけど、ただ何と言うか、とても個人的なことなので、肩身が狭くて」
カゼスの答えに、キリリシャとケイウスは揃って目をぱちくりさせた。妙な憶測をされないうちにと、カゼスはごにょごにょ言ってごまかす。
「前に来た時に――つまり五百年前ですけど――小耳に挟んだんですけど、この世界に私以外の『青き者』がいたらしいんです。実は、故郷では私の同類を見つけられなくて。それで、もしかしたら、と思って調べることにしたんですよ」
もちろん、そのお仲間らしい人物が故国の過去にいたらしい事や、その彼がどうもとんでもないことをしているようだという事などは、黙っておく。今の答えでケイウスやキリリシャがどんな感想を抱こうとも、すべてを話した後の反応に比べたら恐れるに足りない。
いずれは、そう、真実を突き止めてエンリルやセレスティンと相談して対処を決め、王国政府の力を借りねばどうにもならないとなったら、その時は彼らにも真相を話すことになるだろう。だが少なくとも今は駄目だ。
カゼスにそんな内心の計算があると、察しているのかどうか。キリリシャは考え深げにじっとカゼスを見つめ、それから静かにうなずいた。
「……そうですか、あなたの血族が見つかるかもしれないということですね。それは大きな問題でしょう。他人の目には卑小に映ったとしても」
ふと伏せた目が寂しげに見えたのは、彼女がこの王都で孤独を感じているためかもしれなかったが、そうと口に出されることはなかった。
「わたくしも、言われてみればそのような昔話を聞いたような覚えがあります。また思い出したらお知らせしましょう」
「え、本当ですか? 是非、お願いします」
思わぬ情報源にカゼスの声がぱっと明るくなる。キリリシャは微笑んだ。
「ええ、わたくしも、また時々あなたとお話ししとうございますわ。今日のところはこれで失礼致しますわね。ご挨拶だけのつもりが長居をしてしまって、お邪魔致しました」
ほとんど物音を立てず、キリリシャは優雅に立ち上がり、軽く会釈をした。それを合図にケイウスも席を立ち、カゼスに目礼した。
「ではまた後ほど」
夕食の席で会いましょう、との意味を込めて言い、彼は王妃の供をして去っていった。
彼らの姿が見えなくなるとナーシルは緊張を解き、ぐったりした。が、カゼスはそんな彼にのほほんと幸せそうな笑顔を向ける。
「王妃様、きれいな人でしたねぇ」
「………………」
殴ってやりたい。
しがない荷物持ちが雇い主に抱く感情としては不適切かもしれないが、ナーシルは、この場合自分を責める者はいなかろうと確信しつつ、密かに拳を握ったのだった。




