幕間・2
― 王都レンディル、王宮 ―
蔦模様の装飾が施された金杯に冷えた葡萄酒が注がれると、その表面に露がつくよりも早く、国王オルクスは中身を飲み乾した。
「おまえも飲め、さぞ喉が渇いたろう。まったく、律儀に順番を待つ馬鹿がいるか! 一言ケイウスが来たと言えば、他の連中は後回しにしてやったのに」
「そして私を口実に、面倒な陳情は先延ばしにされるわけですね。いや、それを見過ごすことは出来ません」
ケイウスは皮肉な笑みを浮かべ、年長の友人にしかめ面をさせた。
「王の知己という特権を無駄遣いして、つまらぬことで悪評を招きたくはありませんのでね。長く待たされるのには慣れています」
「可愛げのない。昔はぴいぴいヒヨコのようによく泣いたものを」
オルクスは鼻を鳴らし、新しい葡萄酒を、今度は少し味わって飲んだ。ケイウスも喉を潤し、長い報告に備える。
「それで」とオルクスが促した。「犬の報せはどこまで正しかった?」
「確かにラウシールでしたよ。この目で青い髪を見ました。本人も否定はしませんでしたしね。ただもう一人の方は、どうですか……」
ケイウスは小首を傾げて見せた。
「それらしい行動を見せたことはありませんし、ラウシールに対して強い影響力を持つようでもありません。元軍団兵に好感を持っていないのは確かですが」
苦笑したケイウスに、オルクスは「ふむ」と唸った。
「格好だけで反体制派を称する、血の気の多い若者、というところか」
「そういうわけでもないようです。今しばらく様子を見て、彼が王都で何か動きを見せるかどうか待つつもりですが、いずれにせよラウシールがデニス独立に加担する恐れはないと考えて良いでしょう」
「本人にその気はないし、担ぎ出される恐れもない、と?」
「ええ。仮にそうした運動に加わるとしても、武力行使に関しては心配無用です。魔術を戦争に使うことだけは、してはならないと言っていましたから」
そう言ってケイウスは、カゼスが説明した魔術対魔術戦の危険性を、ほぼそのままオルクスに伝えた。
国王はそれを黙って聞いていたが、ケイウスが口をつぐむと、面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。ケイウスは杯ごしに王の顔を見やり、あれは良くないな、と内心でつぶやく。昔からの癖だ。恐れや緊張を隠す虚勢の場合もあったし、まったく心底から馬鹿にしている時も、己の優位を自他共に確認させて気勢を上げるための場合もあった。それぞれに応じた効果は確かにあったものだが、しかし、居合わせた者に多少なりとも不快感を抱かせることは避けられない。
今の場合は、どうやら心底呆れたものらしかった。
「戯言だ」強がるでもなく言い放つ。「草が枯れようが、街ひとつ砂になろうが、それがなんだ。国家がなければ、安全がなければ、いかに肥沃な大地があろうと活用することは出来んのだぞ。耕しても牧しても、奪われ蹂躙され焼き払われるだけならば、どうして人が住めよう。そ奴は何も分かっておらん」
憤慨した口調は、己の仕事にけちをつけられた職人を思わせる。ケイウスは微苦笑した。
「あなたなら、そう言うだろうと思いました」
「……何が言いたい。なんだその顔は、にやにやしおって生意気な!」
「おや失礼」
八つ当りされてケイウスは首を竦め、おどけた顔で詫びる。オルクスはそれを睨みつけてから、むっつりと続けた。
「だがともかく、ラウシールが愚かでいてくれる限り、余計な心配はしなくて済む。昨今は魔術が使えぬと言うが、ラウシールとなるとその限りではあるまいからな」
「そうですね」
ケイウスはうなずいたが、カゼスが足を治療してくれたことは黙っていた。オルクスはケイウスの義理堅さを知っている。だからこそ、こうして親しく接見することも厭わないのだが、その彼が要注意人物から個人的な恩を受けたとなれば、いざという場で裏切りはすまいか、敵に便宜をはかりはすまいか、と疑心にかられるだろう。年来の友人でも、王の猜疑を受けて無事ではいられない。
代わりに彼は、別の事実を述べた。
「なにしろ、サクスムが惨事を免れたのは、彼のおかげですから」
「何だと?」
「私はその現場を見ていませんが、本人や同行者の話によると、転移装置の暴走によって周辺では一時的に魔術が使えるようになっていたとか。……私には魔術のことはよく分かりませんが。ともかくそれを利用してラウシールが魔術面の対処を行い、技術的な面については、偶然街に滞在していた技師が駆け付けたので、事なきを得たそうです」
「すると何か、余は感謝状でもくれてやらねばならんのか」
「それよりも黙って見逃してやる方が、彼らは喜ぶでしょうね」
「そなたは誰の味方だ」
オルクスはいまいましげに唸ったが、ケイウスは肩を竦めてやり過ごした。
「事実を述べたまでです。私の忠誠が陛下と王国にあるのはご存じでしょう」
「……分かった、今のところは見逃してやろう。だが少しでも怪しい動きを見せたり、あるいは使えそうだと思ったら、ふんじばってでもここへ連れて来い」
オルクスは渋々うなずいた後、王にしてはいささか下品な言葉で命令した。それから再び杯を乾し、憂欝な表情で声をひそめる。
「犬からまた書状が届いた。魔術師たちがラウシールの出現に動揺しているようだ。本人にその気がなくとも、思わぬ動きになりかねん。ラウシールを彼らに与えてはならんぞ」
王が何を懸念しているか、ケイウスも察して顎を引く。長衣の者たちが、今は魔術という力を失っているものの、組織としては最大規模の厄介な存在であることに変わりはない。世界中に構成員が散らばっているのだから、ひとつ所にまとめて管理する、という手も通用しないし、連携してなんらかの動きを起こされたら、鎮めることは難しいだろう。
ケイウスは畏まって拝命し、王の前を辞した。
控え室で待っていた従者と合流し、慣れた足取りで廊下を戻って行く。あと少しで王宮の外、というところで、不意に柱の陰から人が現われた。ケイウスは瞬時に警戒して身構え、次いで相手が誰かに気付くと、鳶色の目を限界まで見開いた。
「お久しぶりね、百卒長」
その人は昔の肩書きでケイウスを呼び、柔らかく微笑んだ。
「あなたにお願いしたい事があるの」
― サクスム近郊、路地裏 ―
「嘘でしょ、なんでこんなに、早いのよ」
息を切らせながら、ワルドはひとり小声で罵った。
「お役所ってのは、仕事が遅いと、決まっ……てる、くせに」
泥を固めた壁に背を預け、荒い息がおさまるのを待つ。その間も目はせわしなく細い路地の左右を見渡し、油断なく警戒している。
少し呼吸が落ち着くと、彼女はそっと忍び足で動きだした。体は意志に反して小さく震えていた。恐れではなく緊張のためだ。恐怖がないわけではないが、それは胸の奥で静かに結晶している、小さな氷の塊にすぎなかった。今のところは、まだ。
ワルドが追跡者に気付いたのは三日前。サクスムを離れて街道を西に歩き、鄙びた小さな町に宿を取って数日後の事だった。まるで物乞いのような、古く汚れた外套に身を包んだ男。とは言え旅人の行き交う街道の町のこと、小汚いなりの方が普通であるから、最初はワルドも気にしなかった。
だがその男が宿の窓から覗いているのに気付くと、ぞっとなった。間の悪いことに、ワルドは町に着いてすぐ、破れた靴を修繕に出していた。その時履いていたのは、靴屋で借りた間に合せのサンダルだったので、逃げようにもままならない。
そんなわけで、彼女はびくびくしながら靴を待った。出来るだけ人目のある所に居座り、決して夜は出歩かず、部屋の扉も窓もがっちりと戸締まりして。そうして今日やっと出来上がったのを受け取ると、すぐにも発とうとしたのだが……
「一緒に来て貰おうか」
いきなり肩を掴まれ、ワルドは悲鳴を上げそうになった。反射的に手を払いのけ、向き直る。その動きは読まれていたらしい。今度は正面から肩を突かれ、息をつく間もなく、手荒く壁に押しつけられた。
相変わらず薄汚い外套ですっぽり身を隠した男が、フードの下から暗いまなざしで彼女を見つめていた。
(お役所じゃ……ないのかも)
男が空いた方の手でナイフを抜く。ワルドはごくりと喉を鳴らし、こわばった顔で何度も小さくうなずいた。
「わ、分かったわ、言う通りにするから」
こんな所で殺されるのだけは御免だ。とは言え、大人しくついて行っても結果は同じかもしれない。
(隙を突けば逃げられるかしら)
ちらとそんな考えが胸をよぎったが、男はそれさえも見抜いたように、ナイフをワルドの頬に当てた。
「はいはいはい、大人しく参りますわよ、だからそれしまって危ないし」
慌てて言い繕い、降参の印に両手を挙げる。その時だった。
「ワルド=イスハーク?」
誰かが名を呼んだ。当人がそちらを見るよりも早く、胡乱な男が素早く向き直り、同時に斬りつけた。
邪魔者を追い払うはずだった一撃は、空を切った。次の瞬間、男の腹にまともに蹴りが入る。男はわずかばかり宙を飛び、ワルドの後方へもんどりうって倒れる。すぐさま彼は一回転して立ち上がったが、その隙にワルドは一目散に救い主の方へ逃げていた。
助けに入ったのはどうやら背格好からして青年のようだった。が、ワルドはその腕に飛び込むような真似はしなかった。
「ありがとう、誰だか知らないけど助かったわ!」
礼を言いながらも、その傍らを駆け抜けたのだ。何しろ彼もまた顔を隠していたもので。
青年は呆気に取られたらしく、一瞬だけ出遅れた。その隙に最初の男は身を翻し、路地の奥へと姿を消してしまった。
ちッ、と青年は舌打ちし、ワルドの方を追って走り出す。じきに追いつくと、彼はいささか乱暴にその腕を捕らえて引き寄せた。
「困った人だ。おかげで奴を取り逃がしましたよ」
「あら、あいつ逃げちゃったの?」
自分も逃げた事についてはすっとぼけ、ワルドは顔をしかめて見せる。青年はフードとマスクの間から覗く鳶色の目を、ちらりと天に向けた。
「……ともかく、一緒に来て下さい。私はあなたを保護しに来た者ですが、敵方に素性を知られたくありませんのでやむなくこんな格好をしているんです」
「怪しい者ではありません、って? 充分以上に怪しいわよ。せめて名乗ってくれないことには信用できないわ。だいたいあなたは私の名前を知っているのに、私は知らないっていうのは不公平じゃない」
「そもそも立場が不公平なのですから、諦めて下さい。安全な所までお連れした後で、事情を説明します」
「それ、誰にとっての『安全』なわけ? まあいいわ、ここであたしがごねても埒が明かないし、どうせ誰かに捕まるって点では変わりないものね。少なくともあなたは話が通じる相手みたいだし」
そこまで言って、ワルドは不意に悪戯っぽい笑みを浮かべて青年の目をまともに覗き込んだ。
「同じ捕まるなら臭いごろつきよりも、清潔で育ちの良さそうなお兄さんの方がいいし。後でじっくりその顔、拝ませてよね」
「…………はあ」
この状況でよくもそんな台詞が出るものだ、と呆れたように、青年はちょっと目をしばたたいて曖昧に応じた。
「鑑賞に堪え得る造作ではありませんが、お望みとあらば。どちらかと言うと、私の上司の方が女性の目を楽しませる顔立ちだと思いますよ」
「そうなの? 楽しみだわ」
すっかり緊張の解けた様子で、ワルドは青年に促されるまま歩き出す。隣で青年がこっそりため息をついたのにも、気付かぬふりで通した。微々たるものとは言えども、掴んだ優位は手放したくなかったのだ。
立ち去る直前、首だけほんのわずか振り向いて、路地の奥に視線を投げる。人影はない。だが、得体の知れない何かがそこにうずくまっているような気がして、ワルドはぞくっと身震いした。




